第七十五話 玲子の問い
――「あなたたちは殺されたい? それとも、生きたい?」
その問いは穏やかで、まるで道端の迷子に手を差し伸べるような慈愛すら含んでいた。
「……生きたい。私はまだ、すべきことがあるんだ……!」
ニルが、地を這う声で、けれど執念深く答える。
「私も……死にたくない。生きたいわ」
メモリもまた、床の上で必死に命乞いの言葉を絞り出した。
隣に同じようにしゃがみ込んだカタリストが、二人の精神の深淵を覗き込み、玲子の耳元に冷ややかに囁いた。
『……お姉様。こんな状況になっても反省なんて欠片もしていませんよ。二人とも、隙を見て逃げ出すことばかり考えてます』
玲子は隠すこともなく、心底呆れたように無機質な視線を二人に投げた。
「……ところで。お二人は愛し合っているの?」
その唐突な質問に、ニルとメモリは同時に目を剥いて、玲子を凝視する。
玲子はわざとらしく唇を尖らせ、ぶすくれた表情を作って見せる。
「だって……私たちが来るまで、熱烈に抱き合っていたんでしょう? 私、嘘をつくのは嫌いだけれど、嘘をつかれるのはもっと嫌いなの」
その一言で「正解」を察した二人は、滑稽なほど必死に、お互いへの愛を叫び始めた。
「あ、ああ! 私はこいつを愛している! 今回の仕事が終わったら結婚しようと誓い合っていたんだ!」
「私もよ、ニル! あなたを生涯愛すると、心に決めていたの……!」
カタリストはゴミ溜めを見るような目つきを二人に向けた後、再び玲子に耳打ちする。
『……嘘の共鳴。お互い、保身のために相手を利用することしか考えていませんね』
玲子はカタリストに向かって黙って頷くと、再び二人に向き合う。
「そう……なら、私たちにその『愛の誓い』を見せてくれるかしら? そのバスタオルを取り払って、ここで始めてもらってもいいのよ?」
玲子の提案に、二人は床の上で一瞬だけ視線を交わした。生き延びるためなら、どんな茶番でも演じてみせる。その決意が、浅ましい仮面となって顔に張り付いた。
「ああ、メモリ……結婚しよう!」
「ええ、ニル! 喜んでプロポーズを受けるわ!」
空虚な愛の言葉が響く中、更なる暴露を重ねようとしたカタリストを、玲子は静かに片手を上げて制した。
「……滑稽ね。まるで『Null Pointer Exception』を起こしたみたい……まあいい、分かったわ。殺さないでおいてあげる」
玲子は満足そうに立ち上がり、服の埃を払うように整えた。
「ただ……今のままじゃ、少し愛が足りないみたい……だから、ここを出たら二人が離れられないように『細胞レベル』で一つになりなさい。文字通り、にね」
その言葉の意味が理解できず、二人は呆然と玲子を見上げた。
玲子はブルームとダストパンに目配せをする。
「……縛り上げて。絶対に、離れないようにね」
――一方、数分前。
カタリストからの突入信号を受信した瞬間、空気は一変した。
イカロス率いるガンマチームの三人は、重力を感じさせない身のこなしでデッキへと駆け上がる。その動きは、獲物を追い詰める狼の群れそのものだった。
彼らは一言も発さず、サイレンサー付きアサルトライフルの照準を正確に傭兵たちの急所へと固定する。
――ボフッ。
抑制された三つの排気音が、重なり合うように響く。
直後、油断しきっていた三人の傭兵が、糸の切れた人形のように甲板へと崩れ落ちた。
「おい! どうした、何が起きた!?」
「待て、動くな! 狙撃だ!」
異変を察知したリーダー格の男が、倒れた仲間に駆け寄ろうとする部下を鋭い声で制した。だが、その慎重ささえも、ウルフパックの練度を前にしてはあまりに遅すぎた。
再び響く、乾いた「音」。
仲間に駆け寄ろうとしていた傭兵の眉間に新たな穴が開き、彼は言葉を飲み込んだまま、先に倒れた仲間の上に重なるようにして絶命した。
「チッ……!」
舌打ちをしたリーダー格の男は、即座に懐の通信機へ手を伸ばし、船内の部隊へ警報を飛ばそうとした。
だが、彼の指がボタンに触れることはなかった。
背後の死角から、逃げ場のない熱い金属の感触――銃口が、男の後頭部に正確に押し当てられたからだ。
「……悪く思うなよ。お前らが狙ったのは、手を出していい女じゃなかった。それだけだ」
イカロスの低く、氷のような声。
男が絶望に目を見開く間もなく、イカロスは無慈悲にライフルの引き金を絞った。
――ボフッ。
鈍い音と共に、甲板上の最後の抵抗勢力が沈黙した。
朝日を浴びるデッキは、数分前まで下劣な笑い声に包まれていたとは思えないほど、ただ静かに、赤黒い血の海を広げていた。
「ガンマ、全目標の沈黙を確認……イカロスよりクロサワの旦那へ。デッキのゴミ掃除、完了。船内の掃討に移る」
――クルーザー内、特設オペレーションデスク。
ゴーグル内のモニターの淡い光に照らされたクロサワは、瞳を鋭く動かし、各チームのバイタルサインと位置情報を統括していた。
「イカロスより甲板制圧完了の報告を受けました……みなさん、手筈通りに」
クロサワは隣に控える、同じくゴーグルを装着したウルフパックの女性隊員三人に短く命じた。
「ベルさんはガンマチームの戦闘支援、プラムさんはアルファチームと共に船底の爆弾設置ポイントへ。ラズベリーさんはベータチームをサポート、甲板下の拉致被害者監禁エリアへ……それぞれドローンでの誘導を開始してください」
「「「ラジャ!」」」
三人の指先が、握りしめたコントローラーの上を踊る。
クルーザーのハッチから、三機の小型有線ドローンが放たれた。光ファイバーの細い糸を引きながら、それらはまるで獲物を追う水蛇のように、貨物船の内部へと滑り込んでいく。
「……私のドローンは、甲板上の無線通信をジャミングしつつ、お嬢様の後を追跡します」
ドローンが送り届ける鮮明な映像が、迷路のような貨物船の内部を暴いていく。暗闇に潜む残存勢力の熱源、人質の生体反応、そして船底で不気味に沈黙する爆弾――。
今や、この貨物船のすべての神経系は、クロサワと彼女たちの指先に握られていた。




