第七十四話 起爆スイッチ
ニルの命令と共に、扉からなだれ込んできたのは、廊下に控えていた武装傭兵二人。
――銃口がこちらへ向く気配を感じたカタリストは、彼らが銃口を向けるより早く、身体をカタパルトで弾いたように躍らせる。
左側の傭兵の前へ一歩を踏み込み、稲妻のようなハイキックを放つ。めくれたスカートから伸びた鉄芯入りのローブーツの甲が、乾いた音とともに男の喉を正確に打ち抜くと、首の骨が折れる、鈍い音がした。
「ヴ……!?」
声にならないうめき声と共に、傭兵が崩れ落ちる。カタリストは軽く重心を沈めながら、振り下ろした蹴り足の勢いを利用して、鮮やかに身体を回転させた。
刹那、黒いストッキングが空に鋭い残像を描く。深く沈むように傾けた上体から放たれた後ろ蹴りが、斜め上方へと跳ね上がった。その勢いのまま、ローブーツの硬い靴底が、右側にいた傭兵の顔面を真っ向から捉えた。
鼻骨の砕ける「ミシッ」という嫌な音が響き、衝撃が男の顔面深くまで突き刺さる。
男は悲鳴を上げる暇もなく、弾かれたようにのけぞりながら、床へと叩きつけられた。
わずか数秒。部屋を制圧したカタリストは、乱れた髪を指先で整えながら、再び玲子の前へと静かに立った。
「お姉様、お待たせしました……少々、はしたなかったでしょうか」
ニルとメモリは、先ほどまでの全能感をどこへ捨てたのか、ただ呆然と立ち尽くしていた。
足元に転がった傭兵たちの無惨な姿を目の当たりにしても、ニルはまだ、自分の築いた城が崩壊したことを信じられずにいた。彼は震える声を必死に抑え、玲子の背後に立つ二人に鋭く命じる。
「……何をしている! 櫂、陽! ぼーっとしてないで、早くその女どもをなんとかしろ!」
だが、返ってきたのは服従の言葉ではなかった。
二人は顔を見合わせ、楽しげに肩をすくめると、ゆっくりとニルの前へ一歩を踏み出した。
「あいにく、その要求は飲めませんね……今の私たちの雇い主は、こちらの『お嬢様』ですので」
ブルームは玲子をチラリと一瞥しながら言い放つと、「櫂」の精巧なフェイスマスクを躊躇いなく剥ぎ捨て、奥歯に仕込んだスピーカーを抜き取る。その下から現れた見知らぬ男の顔に、ニルの頬が引きつった。
「奇遇ですね。私もなんですよ」
ダストパンもそれに続き、「陽」の皮を無造作に剥ぎ取り、口内のスピーカーをつまみ出した。
「あ、それと。本物の櫂さんと陽さんは、残念ながら一足お先に退場していただきました……どこへ、なんて野暮なことは聞かないでくださいね。春の海は、秘密を守るのが得意ですから」
ニヒルな笑みを浮かべるダストパンの言葉に、ここで初めて、ニルの顔から余裕が消え失せた。
「なっ……馬鹿な、いつの間に……!?」
隣にいたメモリは、状況の推移に脳の処理が追いつかず、ただただ恐怖の色を湛えてベッドの奥へと這いずった。バスタオルを握りしめるその手は、先ほどまでの傲慢さを失い、小刻みに震えている。
そんな二人とは対照的に、玲子は一歩、また一歩と、獲物を追い詰める捕食者のような優雅さで歩み寄る。
無機質な、けれど逃げ場を許さない絶対的な瞳。
「……さて。あなたたちは、どうしたいのかしら?」
玲子の問いかけは、選択肢を与えているようでいて、実は死刑宣告に近い響きを持っていた。逃げ道は塞がれ、守護者たちはもう既に誰もいない。
外からは、ウルフパックによる制圧が進んでいることを示す、消音器で抑制された銃声と短い悲鳴が断続的に聞こえてくる。ニルとメモリは、すでに四面楚歌の様相を呈していた。
「ま、待て。これ以上近づくな。これは船の起爆スイッチだ」
ニルは、震える手でライターサイズの小型起爆スイッチを突き出した。
(爆発のどさくさに紛れて、逃げようって魂胆ですか……周りがまったく見えてませんね)
カタリストがニルの隙を窺うが、玲子は片手で軽く制した。
玲子は歩みを止めない。
むしろ、獲物を哀れむような、ゆったりとした余裕の微笑みさえ湛えていた。
「……押してみれば? 私が何の準備もせずに、あなたの前に現れたと思っているの?」
ニルの顔が猜疑に染まる。
「どうせ、ブラフだろう……私はな、他人を服従させるのは大好きだが、させられるのは死ぬより嫌いなんだ……地獄へ道連れにしてやる!」
ニルは自暴自棄な叫びと共に、親指に力を込め、一思いにスイッチを押し込んだ。
――カチッ。
冷たい金属音だけが、虚しく室内に響いた。
起爆スイッチに取り付けられた、時限爆弾の起動を知らせる7セグ液晶は、沈黙を続けたままだった。
「……? な、なぜだ……なぜ反応しない!?」
ニルは半狂乱になり、何度も、何度もスイッチを連打する。カチッ、カチッ、カチッ。その音が増えるたびに、彼の支配者としての威厳は剥がれ落ち、ただの無様な罪人の姿が露わになっていく。
(……有線ドローンのジャミング、間に合ったようね。流石だわ、クロサワ)
玲子の脳裏には、クルーザーで有線ドローンを操り、船長室の電波を完璧に遮断した老執事の、冷静沈着な横顔が浮かんでいた。
玲子は一言も発さず、ただブルームとダストパンに向け、短く目配せをした。
「「了解しました」」
刹那、二人の華奢な身体が、かまいたちのように動いた。
ブルームがニルの手首をひねり上げ、スイッチを奪い取ると同時に床へ叩き伏せる。
ダストパンもまた、逃げようとしたメモリの長い髪を掴み、問答無用で絨毯の上へと引きずり倒した。
「あぐっ……!」
「やめて、離して!」
床に組み伏せられ、頭を強く押さえつけられた二人の「主」。
先ほどまで優雅な退廃に包まれていた豪華な船長室は、今や逃げ場のない裁きの場へと姿を変えていた。
玲子はその混乱を冷ややかに見下ろし、ゆっくりと二人の前にしゃがみこむ。
「あなたたちは殺されたい? それとも、生きたい?」




