第百十二話 量子演算再び
――翌朝の9:50分。冷却機構により、冷気が彷徨う指令室。
防寒白衣を羽織った玲子は、静かにイカロスたちの報告を待った。
その5分後、イカロスからの通信が指令室のスピーカーを震わせた。
『お嬢。こっちは準備完了だ……カタリストも、おしゃれな恰好をして劇場に侵入済みだ』
玲子は瞼を閉じたまま、二人に短く応答する。
「了解。そのまま待機」
――9:59分。
玲子はゆっくりと目を開けた。
その先には、重水を湛えた、巨大な防護ガラスの密閉水槽が見える。その底に、無数の電源コードが収束する台座が沈む。
台座の上には、強化スピネル製のラックの檻に閉じ込められた、黒い磁気球殻が鎮座していた。天井から伸びる幾本もの冷却、排気ダクトが磁気球殻を貫く。
「液体窒素注入、冷却開始。3秒後に超電導シーケンス起動用意」
玲子の号令に、天井からマリーの無邪気な声が、指令室に響き渡る。
『玲子ちゃん、了解! 流れろー!』
次の瞬間。 天井部のバルブが一斉に解放され、濁流となった液体窒素が幾本もの冷却ダクトを通じて一斉に磁気球殻内部へと流れ出す。磁気球殻内で気化した窒素が強制吸気の排気ダクトへと殺到する。
――ドクン。ドクン。
再び目覚めようとする「神」の心音が指令室を揺るがす。
メリーの落ち着いた声が指令室に響いた。
『臨界温度を通過。超電導状態への相転移、およびマイスナー効果を確認。外部磁界の影響を完全排除――併せて、量子演算コアが磁気球殻内での浮遊を開始しました』
室内の空気は呼応するように冷気の世界へ降りていく。
『超電導シーケンス、完了!』
マリーの弾けるような声が響くと同時に、玲子は淡々と指示を出す。
「演算用意。エネルギー・バスライン、全接続」
『バスライン接続、完了しました。量子演算制御、スタンバイ……玲子様、いつでもどうぞ』
玲子は頷き、ただ一言だけ命じる。
「――全出力解放。演算、開始」
『演算を開始します。補助電源、全系統リンク。磁気球殻への送電開始』
『磁場制御、いっけえー!』
ゴーストサーバのラック全体が、飢えた野獣の群れの目ような赤で染まる。壁一面に配置されたバッテリーの緑色のランプが、獣たちを急き立てるように一斉に灯った。
100メガワットのマイクロ波の濁流が、一瞬で磁気球殻内のプラズマ制御室へと流れ込む。重水に満たされた水槽の中で、黒い球殻は太陽のように輝き始め、指令室を真っ白に染める。熱に耐えかねた重水が蒸気となり、水槽の排気弁から、シューッという開放音と共に噴き上がる。
高周波により部屋全体の空気が甲高い断末魔の叫びをあげ、激しく揺らいだ。
『今回もプラズマちゃん、ちゃんと捕まえたよ! 檻の中で大人しくしているよ!』
その直後。暗闇と静寂と、量子演算コアの吸熱により漏れだす冷気の奔流だけが、指令室を支配した。
噴き上げられた蒸気は、熱を奪われ、ダイヤモンドダストに変わると、闇夜の粉雪のように指令室に降り注いだ。
『……磁気球殻内、凪の状態に入りました。量子演算コア、完全固定を確認。振動、ゼロ』
暗闇は一瞬だった。磁気球殻から飛び出た高エネルギー粒子が重水とぶつかり、青白い稲妻を走らせた。
刹那、水槽は湖の底のように澄んだ、神秘的な青の輝きに満ちる。
チェレンコフ光が、降り注ぐダイヤモンドダストを青白く輝く死の宝石に変えた。
――10:00:00。
『量子演算、開始します。カウントダウン、残り60秒。ターゲット・レペルトワール劇場の全ノードの捕捉を完了……制御システムを順次、こちらの支配下に書き換えます』
メリーの冷静なアナウンスに、マリーの弾けるような声が重なった。
『アクティブ・キャンセル正常! ノイズも熱も、私が全部食べちゃうからね。玲子ちゃん、風邪ひかないでね!』
「二人とも、ありがとう……さあ、世界一悪趣味な劇場の、最期の幕を上げましょうか。カタリスト、行って」
『はい! マスターDに、心を込めてご挨拶してきますね!』
防寒白衣のヒーターをオンにしながら、玲子はただ、チェレンコフ光が放つ青い光を見つめていた。その光は、これから始まる「審判」の鋭利な輝きに似ていた。
『――全制御、掌握……神の演出を開始します。残り50秒』
――同時刻、レペルトワール劇場。
豪華な最前列。マスターDは隣にある空席を忌々しく見つめ、苛立ちを隠そうともせずに貧乏ゆすりを繰り返していた。
そこへ、優雅なイブニングドレスを纏った背の高い美女が、羽毛のような軽やかさで滑り込んできた。
「……君は誰だね? この席は、すでに私の『作品』のために予約してあるはずだが」
「あら、初めまして。私、カタリストといいます……私のことなんてどうでも良いですから、それより、舞台を見ていてください。ほら」
カタリストはにこやかに、けれど温度のない瞳で舞台を指差した。
「舞台だと……?」
訝しんだマスターDが顔を戻した、その瞬間だった。
暗転していたはずの空間に、突如として巨大な「天秤を持った神」が降臨した。最新のホログラムと量子演算が創り出したその神は、怒りに満ちた貌でマスターDを真っ直ぐに睨みつけている。
「な、なんだ……! こんな演出は、私のプランにはなかったはずだぞ!」
地獄の底から響くような、重低音の声が劇場を震わせた。
『――薄汚れた者に、裁きを下す』
刹那。神がその巨大な天秤を振り下ろすと同時に、バスン! という激しい破裂音が轟き、劇場全体の電力が一瞬で喪失した。
神が闇に溶け落ちた後の、視界を奪う漆黒の暗闇。完全な沈黙。
その闇に紛れ、カタリストは容赦のない手刀をマスターDの首筋に叩き込んだ。
「おやすみなさい、演出家様……次は貴方の、処刑台でお会いしましょう」
かつて舞台を支配した「芸術家」は、糸の切れた人形のように、無様に崩れ落ちた。
――データセンター地下、指令室。時刻は10:00:20。青い光の中で、玲子の声だけが鋭く響く。
「メリー、次。『ブタ女』のスマホを掌握……クロサワ、20秒でお願い」
天井のスピーカーから、クロサワの落ち着き払った声が返る。
「承知いたしました……ほう、これはこれは。おやおや、少々お痛が過ぎますな、この婦人は」
20秒後。ミルタが「聖域」だと思い込んでいたスマホから、彼女の醜悪な愉悦のすべてが、不可逆なデータの奔流となって全世界へ解き放たれた。
「お嬢様、終わりましたぞ……彼女の『楽園』は、今この瞬間に崩壊しました。次にお進みください」
「ありがとう……メリー、最後よ。全てを引きずり出して」
『了解です。レペルトワール中枢システム、全ノードの捕捉完了……優先順位に基づき、隠蔽情報を順次転送します。残り20秒』
空中に、無数のホログラムが墓標のように浮かび上がる。
――パトロンへの「作品」提供契約書。
――ジャンクヤードで尊厳と命を奪われたダンサーたちの、生々しい記録映像。
――そして、マスターDとミルタ共催による「新作上演会」の文字。
「……っ」
玲子の瞳が、その詳細を捉えて凍りつく。




