第百十三話 ミルタ
――10:00:58。
演算コアの負荷が限界を突破し、マリーの悲痛な声が響き渡った。
『……あ、あつつ! 玲子ちゃん、もう……だめかも……っ!』
『――演算、終了』
メリーにより終止符が打たれた瞬間、世界線を書き換えていた「神」は、再び深淵の静寂へと沈んだ。
直後、膨大な熱量から解放された量子演算コアが、悲鳴のような破壊音を立てて凍りつき、美しい結晶へと姿を変える。
玲子は、白く澄んだ息を吐き出しながら、何も言わずにホログラムに映された、ただ一点を眺めていた。
目の前にあるのは、取り返しのつかない罪の証。
「……」
パトロンの「特別晩餐会」の予定の直後に、マスターDとミルタが共催の、ジャンクヤードでの「新作上演会」の開催案内。
そこには屈辱的な姿を晒す祐希と、二つの銀色の首輪、『白鳥 No.07【速水祐希】、No.08【速水凜】』の文字が描かれていた。
ダイヤモンドダストが降り注ぐ中、玲子の瞳はそのホログラムの光を虚ろに映していた。
ダイニングに戻った玲子の指先は、液体窒素の冷気で白くかじかんでいた。クロサワが静かに、湯気の立つコーヒーを差し出す。
「お嬢様、どうぞ」
「ありがとう……」
カップの熱を吸い込むように受け取った玲子に、クロサワは心配そうに腰をかがめて覗き込んだ。
「顔色があまりよろしくありませんな……ご気分がすぐれませんか?」
「ええ……少し、見たくないものを見てしまったの……」
玲子の沈痛な声に、クロサワは深くは追及せず、ただ静かに頷いた。その時、スピーカーからイカロスの快活な声が弾ける。
『お嬢! 「主役」のマスターDはカタリストが鮮やかにとっ捕まえて、今、車の後ろでおねんね中だ。このまま別荘までデリバリーすればいいんだな?』
「ええ、ありがとう。よろしく頼むわね」
コーヒーを一口含み、人心地ついた玲子はクロサワに向き直った。
「クロサワ、あなたの仕事の方は?」
「首尾は上々です。プライバシー保護の観点から、男性側の顔には完璧な不可逆モザイクをかけておきました……あくまで、今回の『主役』が際立つように。それと作品を購入していたパトロンたちの情報も、しかるべき筋に売却しました」
玲子は一度頷くと、テーブルに座るマリー人形の頭を優しく撫でた。
「マリー。拡散、お願い。今回はやりがいがあると思うわよ」
『任せて玲子ちゃん! 拡散どころか、ネットの海を全部この女への怒りで染め上げちゃうから!』
――数分後。SNSの深淵にて。
「ミルタ」という匿名のアカウントから、『私の愛するペットたち』というタイトルの動画が投稿された。
そこに映っていたのは、自らに酔い痴れ、若い男性たちに醜悪な行為を命じながら、悦に浸るミルタの生々しい姿だった。
『うわ、何これ……趣味悪すぎ。吐き気がする』
『これ、レペルトワールの名物パトロンの婆だろ? いつもダンサーを上から目線で扱き下ろしてたやつだ』
『許せない。この被害者たち、みんな震えてるじゃないか』
『晒そうぜ。こいつ、都心のあの高級マンションに住んでるって噂だぞ』
『凸決定だな。正義の鉄槌を下してやるよ』
燃え広がる怒りの炎。その中に、不自然なほど扇動的で、それでいて大衆の「正義感」を巧みに刺激する書き込みが混ざり込んでいた。
『――こいつ、今から逃げようとしてるみたいだぜ。急げ!』
『――マンションを取り囲むんだ。出口を塞げ!』
マリーが生成した数千もの「サクラ」たちが、ネット上の野次馬をリアルな暴徒へと変えていく。
マンションの窓から、階下に集まる無数のスマホのライトと怒号を見下ろしながら、ミルタは初めて、自分が「飼っていた」はずの世界に食い殺される恐怖を知った。
「……クロサワ。そろそろ『救助』の車を向かわせて……別荘なら、あんな野次馬に囲まれず、ずっと静かでしょうから」
玲子の冷たい囁きと共に、地獄への片道切符が発行された。
高級マンションの一室。
ひっきりなしに鳴り続ける通知音は、もはや目覚まし時計を通り越し、鳴り止まない警報のようにミルタの精神を削っていた。
「これは一体、何なの……っ!」
震える指で画面をスクロールする。そこには、投稿した覚えなど微塵もない、自らの醜悪な悦楽の記録。そして、数万を超える怒濤のレスが滝のように流れ続けていた。
ふと、階下が異様に騒がしいことに気づき、窓の外を覗き込む。
「なっ……!」
そこには、数百人を超える群衆が蟻のようにマンションを取り囲んでいた。無数のスマホのレンズが自分に向けられ、夜風に乗って『ミルタ』という忌まわしい連呼が、呪詛のように部屋まで届いてくる。
支えを失った膝が笑い、ミルタはその場に無様にへたり込んだ。
その時。不意に鳴り響いたインターフォンの音に、彼女は心臓が止まるかと思うほど飛び上がった。
恐る恐るモニターを覗くと、そこにはレペルトワールの礼服をスマートに着こなした、二人の男が立っていた。まったく見覚えのない顔だったが、動転したミルタにとってはささいなことだった。
『――ミルタ様。マスターの命令により、お迎えに上がりました。外は混乱しておりますので、事態が落ち着くまで山奥の別荘へご案内いたします』
インターフォンから流れるその落ち着いた声は、地獄に垂らされた蜘蛛の糸のように、ミルタの鼓膜に甘く響いた。
彼女は安堵のあまり涙ぐみそうになったが、それを悟られまいとして、あえて以前のように高圧的に喚き散らした。
「なにをグズグズしているの! 早く、一秒でも早く私をここから連れ出しなさい!」
『承知いたしました……今、地下駐車場へのルートを確保しました。すぐに向かいましょう』
「レペルトワール」を名乗る男たち――クロサワが呼び出した清掃人たちによって、ミルタは恭しく、かつ迅速に高級車へと押し込まれた。
彼女は、自分が乗った車が目指す「別荘」が、静養地ではなく、逃げ場のない「劇場の終着駅」であることを、まだ知らない。




