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非合法組織を立ち上げて、スローライフを楽しみたい  作者:


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第百十話 雨の夜の邂逅

 失意のままダイニングに戻ると、そこには先ほどと変わらぬ余裕を湛えた玲香がいた。彼女はクロサワが淹れたコーヒーの香りを、わざとらしく深く吸い込んでいる。


 「あら、早かったわね。もう復讐はおしまい?」


 玲香の皮肉に答える気力すら、今の玲子には残っていなかった。彼女はその場に崩れ落ちるように椅子に腰を下ろし、震える手で顔を覆った。世界を意のままに操ってきた指先が、今はただ、顔を覆う事しか出来ない。


 そんな玲子を、玲香は見世物を楽しむように下から覗き込み、思い出したように小さく囁いた。


 「……そういえば、あの子ね。今日と明日だけ、一時的に解放されるらしいわよ」


 玲子の指が、ぴくりと跳ねる。


 「なんでも、降格後の凜の舞台を、マスターと一緒に最前列で観劇するんですって。降格させられた妹が踊る姿を、ボロボロになった兄が見守る……ふふ、悪趣味な演出よね……今のうちに、慰めの言葉でもかけに行ってあげたら?」


 「……」


 玲子はゆっくりと顔を上げた。その瞳からは先ほどまでの「激情」が消え、代わりに、静かで、底の知れない決意が宿っていた。


 「少し外出するわ……誰も、ついてこないで」


 玲子はそれだけ言うと、身にまとっていた防寒白衣を、迷いなくその場に脱ぎ捨てた。白衣の落ちる乾いた音が、静かに床に響く。


 玲子は誰とも目を合わせず、ただ一点、祐希がいるはずの場所だけを見据えて出口へと歩き出した。


 背後で玲香が何か(はや)し立てていたが、玲子は一度も振り返らなかった。


 ――街灯の光が降りしきる雨に反射し、無数の白い筋を浮かび上がらせる。


 白坂玲子は、一人でその場所に立っていた。背後を守るイカロスも、隣に立つカタリストも、微笑みを湛えるクロサワもここにはない。ただ、冷たい雨を白い傘で受ける一人の女性として。


 濡れた光が反射する道路の先、一人の青年がフラフラとした足取りで歩いてくる。

 衣服は乱れ、絶望にまみれたその姿に、かつての毅然とした面影はどこにもない。ミルタの、そしてレペルトワールの玩具として尊厳を削り取られた祐希の姿が、雨の中に浮き彫りになる。


 祐希がマンションの入り口に差し掛かった時、視界の隅に、場違いなほど純白な影が映った。傘を差し、凛として立つ玲子。


 祐希は足を止め、虚ろな目で、ただ彼女を見つめる。


 玲子は何も言わず、今にも泣き崩れそうな顔で、差していた傘を足元へ放り捨てた。降り注ぐ雨が瞬く間に彼女を濡らし、髪が頬に張り付く。彼女は一歩、また一歩と、自分を逃がしたせいで地獄に落ちた男の前へと歩み寄った。


 そして――玲子は、そっと、祐希を抱き寄せた。


 冷たい雨に打たれながらも、彼女の腕の中だけは、驚くほどに暖かい温もりで満たされていた。胸元に埋もれた視界の中で立ち上がる、雨と肌が交わった、どこか切なく落ち着いた匂い。祐希の唇を濡らす雨の苦みが、彼女の胸元の匂いを、より鮮明に溢れさせた。


 玲子は祐希の濡れきった(うなじ)に手を回し、産まれたばかりの赤子を扱うように、優しく、何度もその髪を撫でる。


 「……っ、あ……」


 祐希の喉から、言葉にならない音が(こぼ)れる。

 なぜ、彼女がここにいるのか。なぜ、これほどまでに優しく自分を抱くのか。


 訳も分からぬまま、彼の中に溜まっていた、救いのない悲しみが、涙となって溢れ出した。大人の男が、子供のように声を上げて泣きじゃくる。その嗚咽を、雨の音が優しく洗い流す。


 玲子は彼の耳元で、許しにも似た、静かな決意を込めて囁いた。

 「大丈夫……もう、あなたは自由よ……約束する。だから、明日はどこにも行かずに、部屋で待ってて」

 彼女は濡れた髪から滴を落としたまま、ただ、オレンジ色の明かりが灯った、マンションの影を見上げた。


 祐希は震える手で、雨を吸った上着のポケットをまさぐった。そして、自身の体温だけが残った小さなUSBメモリを、玲子の掌に押し付ける。


 「……これ、を……マリーちゃんを……。いつか、君に返そうと思って……ずっと、持って、たんだ……」


 玲子がそれを受け取ると、指先に微かな「希望」を感じたような気がした。

 それは、ハレーションによって汚染される前。玲子を「玲子ちゃん」と呼び、不器用なアスキーアートを描いた、あの純粋なマリーのバックアップ。


 彼は奪ったのではなかった。自らの中に隠して守り抜いていたのだ。マリーの「心」を。

 雨の中、玲子はその存在を確かめるようにUSBメモリを強く握りしめ、ジャケットのポケットに忍ばせた。


 玲子は涙に濡れた祐希の瞳を、柔らかな眼差しで(すく)い上げ、自らの頬を彼の胸にうずめた。

 彼の胸に熱い吐息を吐き、その震える背中を優しく、だがしっかりと引き寄せる。

 玲子の耳元に、祐希の、早足で鋭いステップを刻むような心臓の鼓動が、いつまでも心地よく響いた。


 ――データセンターに戻ると、玲香の姿はすでになかった。だが、ダイニングにはあの三人が、数時間前と変わらぬ様子でそこに残っていた。


 ずぶ濡れのまま戻った玲子は、呆れたように、けれど震える声を隠して言った。

 「……まったく。7時間勤務は厳守、勤務超過は認めないって言ったでしょう?」


 イカロスが、照れ隠しに椅子の背もたれを叩いて応えた。

 「ああ、勤務はもう終わりだ。ちょっと旦那クロサワのコーヒーが飲みたくなってな。ここで粘ってたんだよ」


 クロサワも、モノクルを押し上げながら静かに頷く。

 「イカロスが今日に限って、コーヒーの注文がうるさいのですよ。なに、これは勤務ではありません。ただの個人的な時間(プライベート)ですよ」


 カタリストが、濡れた玲子の肩にそっと乾いたタオルを掛け、優しく髪を拭きながら、悪戯っぽく微笑んだ。

 「外は雨でしょう? 師匠に家まで送ってもらおうと思って……私も、今はただの居残り組です」


 三者三様の、下手くそな言い訳。

 だが、その底にあるのは「一人の女性として傷ついて戻ってくるはずの玲子」を、独りにさせないという強い意志だった。


 玲子は、温かいタオルの感触に瞳を潤ませ、初めて年相応の柔らかな微笑みを浮かべた。

 「あら……仲が良いこと……わかったわ、なら夕飯は私がご馳走するから、少し待ってて……その前に、『マリー』にも起きてもらうから」


 それを聞いた三人は、一瞬、完全に時が止まったように静止した。

 そして、一拍置いてから、全く同じ驚きの表情を玲子に向けた。


 「「「えっ……!?」」」


 「マリー」の名。それは、二度と呼ぶことのできない「過去」のはずだった。


 玲子は彼らの驚きを背に、ダイニングを颯爽と出ていくと、力強い足取りで指令室の扉を開け、メインコンソールへと向かった。

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