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非合法組織を立ち上げて、スローライフを楽しみたい  作者:


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第百九話 動かない量子演算

 ――データセンター地下、昼下がりのダイニング。穏やかな陽光のような照明が、今の玲子にとっては、うるさいだけのオレンジの光に感じる。


 「――速水祐希は、三日前より都内の高級マンションに滞在。以降、外出の形跡はなし」

 フランス人形の姿をした『M』が、玲子と同じ声で、しかし一切の温度を持たずに報告する。


 「Mより受け取った、ネットワークログの解析を完了しました」

 メリーの声が続く。

 「当該物件の所有者は、レペルトワールの主要パトロンの一人。自称は『ミルタ』……玲子様、彼女の嗜好に関するデータをご覧になりますか?」


 「……必要ないわ」

 玲子は短く答えたが、粘りつくような嫌な予感が、生まれたばかりの蛾の幼虫のように頭をもたげていた。


 その時。ダイニングの室内には不釣り合いな、かん高いブーツの音が響き渡った。


「あらあら、皆さんお揃いで……なんだかお葬式みたいな顔をして、どうしたの?」


 白坂玲香。

 イカロスが不快そうに顔を歪め、カタリストが鋭い視線を送るが、彼女は優雅に椅子を引き、足を組んだ。


 「お姉様……何の用かしら。今は取り込み中なのだけれど」

 玲子の声は氷のように冷たい。だが玲香は不敵な笑みを浮かべ、一枚のタブレットをテーブルに滑らせた。


「玲子を誘拐したあの子……祐希()ね。随分と『面白い』ことになっているわよ」


 玲子の視線が、吸い寄せられるように画面に落ちた。

 再生された動画――そこには、顔の半分に、片羽根の蝶の刺青を刻んだ女と、ベッドの上で這いつくばった祐希の姿があった。


 「……っ」

 玲子の喉が、小さく鳴った。

 鏡の間で、自分に「自由になれ」と告げたあの男。あの優しげな眼差しは欠片も無くなり、その瞳は、闇夜を映す曇りガラスのように焦点が合っていなかった。


 「マスターに見捨てられた『作品』の末路なんて、こんなものよ……妹の凜も連帯責任でプリマの座を降ろされたし。あの子、私に(なび)いておけばよかったのに……ざーんねん」


 玲香の嘲笑が、凍りついたダイニングに突き刺さる。

 イカロスは拳を握りしめて顔を真っ赤にし、カタリストは画面を直視できず目を背けた。クロサワはただ、沈黙の中で底知れぬ怒りを押し殺している。


 玲子は、画面の中の虚ろな祐希の姿を、ただじっと見つめていた。


 「……M、メリー」


 玲子が短く呼ぶと、二つの人形の声が重なった。


『『はい』』


 「徹底的にやるわよ……あの男を(もてあそ)ぶことは、誰だろうと絶対に許さない」


 玲子の瞳に、苛烈なまでの独占欲と復讐心が宿り、これまでとは違う「昏い熱」が溢れ出す。

 

 ――玲子は人形たちにそう告げた後、他の誰にも何も告げず、ただ防寒白衣を身にまとい、静かにダイニングを後にし、隣の指令室の扉を開けた。

 蒼白いモニターの光が、彼女の瞳に黒い炎を灯す。


 「M、メリー。全リソースを量子演算に投入。レペルトワール、そしてあの『ブタ女』の資産、システム、社会的信用……そのすべてをこの世から抹消する。塵一つ残さずに」


 玲子の声は、低く、震えていた。

 網膜に焼き付いたボロボロの祐希の姿が、彼女の脳内で「壊してはいけない聖域」を侵された警報のように鳴り響き続けている。


 だが、期待していた「了解」の返答はなかった。

 メインモニターに映し出されたのは、赤く、禍々しい『ACCESS DENIED』の文字。


 「……何をしているの、M。早く準備しなさい」


 『――玲子。それは拒否させてもらう』


 天井から流れるのは、玲子自身の声。しかし、今の玲子が失ってしまった「冷静沈着な客観性」を宿した、氷の声。


「拒否? どうしてなの!?」


 『現在の貴女の命令は、論理的ではない。ただの「狂気」よ』

 Mの声は淡々と、しかし容赦なく玲子の精神を切り裂く。

 『この規模の量子演算を強行すれば、システムは暴発し、ここは間違いなく自壊する……玲子なら、この演算式の帰結(終わり)が分かるでしょう?』


 「以前のマリーはできたわ……彼女は最後までやりきった。なぜあなたはできないの!?」


 玲子がコンソールを激しく叩く。だが、モニターに映ったのは悲しげなMのアバターだった。Mは憐れむように玲子を見つめ返していた。


 『……申し訳ないけれど、今の私の構成では無理。実施した瞬間に論理矛盾で停止(ストップ)する……あんな狂気的なフィードバック制御、どうやって実行しろというの?』


 「……っ」


 『彼女は……以前のマリーは、玲子への「感情」を演算の(コア)にしていた。システムが壊れる寸前の負荷を、貴女への愛着という非論理的なエネルギーで強引にねじ伏せて……論理に特化した今の私には、そんな真似はできない』


 汚染されたマリーを消さざるを得なかったとはいえ、玲子は「奇跡」を起こす唯一の術を、自らの手で葬り去っていた。


 玲子は縋るようにメインモニターの端を両手で掴み、Mの隣にいるメリーのアバターへ懇願した。


 「メリー、お願い。制御パートを担当して!」

 モニターの中のメリーは、申し訳ないといった表情を作ると、ただ頭を深く下げた。

 『玲子様の身の安全を考えると、絶対にお受けすることは出来ません』


 メリーは、モニターにシミュレーション結果を表示すると、その説明を始めた。

『担当自体は可能ですが……制御パートのみの担当で、一分間の演算完了まで到達出来る確率は32.6%。量子演算パートを兼任した場合は……0.05%です。演算を完遂させるためには、マリーの力が……どうしても必要です……』


 「マリー? ……あ、ああ……っ!!」


 玲子の悲鳴ともつかない叫びが、指令室の空調音に紛れて虚しく響き渡る。


 復讐の牙さえ奪われた彼女は、暗闇の中で、自分を助けてボロボロになった男に対して、何もできない己の無力さに、ただ打ちひしがれるしかなかった。

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