第百八話 罰
――レペルトワール、鏡の間。
無数の鏡が、椅子に深く腰掛けたマスターDと、その前で全裸で跪く祐希の姿を無限に反射していた。かつては美しき「傑作」として称えられた彼は、今はただ、審判を待つ罪人のそれとして、冷たい床に晒されている。
祐希は、鏡に映る無数の自分自身に見つめられながら、静かに裁きを待っていた。
「……祐希。君には心底、失望したよ」
マスターDの声は、怒りよりも深い落胆を湛えていた。
「アイスエンジェルという我がカンパニーの仇敵。殉職した二人の鎮魂のための生贄を……君の独断で『逃がした』。それが演出家である私への、最大の叛逆だと理解しているのかね?」
「申し訳、ありません……ですが、彼女たちは、惨い罪を犯したスカウト達への復讐依頼をこなしただけでした。なので、もう我がカンパニーに牙を向ける理由は無くなったと、私は判断しました」
「判断? 君に求めているのは、私の演出に従うことだけだ」
マスターDはゆっくりと立ち上がり、祐希の顎を杖の先で持ち上げた。銀細工の飾りが、祐希の肌を刺す。
「君はもう、『特別作品』ではない。今日この瞬間をもって、君をパトロンへの『提供作品』へと降格させる……そこで、再度、芸術とは何たるかを、その身体で思い出してくるがいい」
祐希の顔が微かに強張る。提供作品への転落――それは、歪んだ欲望を持つパトロンたちの毒牙に身を投げ出すことを意味する。だが、真の絶望はその次に用意されていた。
「そして、君の最愛の妹――凜についても、相応の責任を取ってもらわなければならない」
「凜は関係ありません! 彼女は、ただ舞台を愛しているだけだ……!」
「関係あるさ。彼女が『プリマドンナ』として輝けたのは、君という優秀な特別作品が背後で支えていたからだ。凜をプリマの座から即刻、『コール・ド・バレエ』へと降格させる。彼女からスポットライトを奪い、名もなきその他の中に埋もれさせる……それが、君の犯した罪の重さだ」
祐希は床に拳を突き、激しく震えた。
自分がどれほど汚されることは耐えられる。だが、凜から夢を、あの光り輝く舞台の頂点を奪うことだけは、何よりも耐え難い拷問だった。
「安心したまえ。君がパトロンたちの要求に完璧に応え、罪を償えば、また凜を元の座に戻すことも検討しよう……四日後、次の公演がある。そこで凜は、主役ではなく、名もなき妖精の一人として踊ることになる……君は提供作品としての『初仕事』を終えた後、その光景を、最前列でしっかりと見守るんだ……逃げ出すなよ。凜を地べたで踊らせたくないのならな」
鏡に映し出された幾千ものマスターDの哄笑が、逃げ場のない鏡の間にいつまでも木霊し続けた。
――とある高級マンションの一室。窓から差し込む午後の柔らかな光が、皮肉にも室内の高価な調度品を美しく、輝くほど鮮明に照らし出していた。
「失礼します……」
祐希の声は、かつての自信に満ち溢れた響きを失っていた。彼は「提供作品」という名の供物として、この部屋の主である年配の女性の元へと送り届けられた。
ソファーに座る女性は、顔の半分をシルクの白いベールで覆っている。
「坊や。よく来たわね。私のことは『ミルタ』と呼んで……早速だけど、まずは私の顔を舐めて」
ミルタは低く掠れた声で告げ、ゆっくりとベールを剥ぎ取った。
ベールの下から、顔半分を覆う、片羽根を失った藍色の蝶の刺青が現れた。
「はっ……?」
祐希は息を呑み、思わず後ずさった。その動揺を見透かしたように、ミルタは歪んだ笑みを浮かべる。
「……刻まれたのよ。昔、愛していた男にね。結局、私の元を去っていった。男なんて、しょせんそんなものよ。私の持てるすべてを貢いだ。その挙句の果てが、このざま」
ミルタの肩が、憎悪か、あるいは寒気か、激しく震える。
「……刺青が疼いて、夜も眠れない。皮肉なものね……若い、綺麗な男に舐められている間だけは、この疼きが止まるのよ」
彼女はおもむろに立ち上がると、無防備な祐希の髪を乱暴に鷲掴みにした。無理やり引き寄せられた彼の鼻腔を、濃い香水の憎しみのような匂いが突く。
「その後は、そうね……私がいいと言うまで、腰を振ってもらう……犬のように」
ミルタは妖しい手つきで祐希の髪をくしゃくしゃに撫でると、彼の腰に腕を絡ませ、寝室へと誘う。
祐希は、鏡の間で玲子に見せたあの「意志ある瞳」を、砂時計から砂が落ちるように、一滴、また一滴と殺していった。
「……了解しました……ミルタ様」
陽光の降り注ぐ静かな部屋の中で、一人の青年の尊厳が、音もなく崩れ去っていく。
玲子に「自由になって、幸せになってほしい」と願った男は今、最も醜い執着の奴隷となっていた。
日当たりのよい静かな部屋の中で、地獄が完成した。




