第21話:トラウマに立ち向かう
朽ちかけた家へ足を踏み入れる前に、繋たち四人は、荒れ果てた庭の一角へ両親のための簡素な墓を作ることにした。
遺骨はない。
それは墓というよりも、二人がこの世に存在し、繋の人生へ消えない痕跡を残したことを示す、小さな供養塔に近いものだった。
想が地中へ根を伸ばし、風雨に晒されて緩んだ地面を固める。冬吾は瓦礫の中から墓石に見立てられそうな石を選び、煌夜が細く操った黒炎で、表面の苔や汚れを丁寧に焼き払った。
最後に繋が魔力を凝縮してオレンジ色のバラを咲かせ、墓前へそっと供えた。
「これで、いいかな」
誰に問いかけるともなく呟き、繋は石の墓を見つめた。
二人の名前は刻まなかった。
そこまで整えるべきなのか、今はまだ分からない。
ただ、手を合わせる場所を作るだけで精一杯だった。
墓の前へしゃがみ込み、ゆっくりと両手を合わせる。
瞼を閉じれば、記憶の奥から両親の顔が浮かんできた。
母親が、ごく稀に見せた優しさも。
父親が最後の瞬間、自分を守ろうとしたことも。
それらを、すべて偽りだったと切り捨てることはできない。
けれど、優しくされた記憶があるからといって、傷つけられた日々まで受け入れなければならないわけではないのだ。
合わせた手へ、僅かに力がこもった。
「……父さん。母さん」
掠れた声が、冬枯れの庭へ落ちる。
「僕は、二人を許せないと思う」
冷たい風が吹き抜け、墓前のバラを揺らした。
「二人にも、二人なりの事情があったのかもしれない。僕が知らない苦しみも、あったのかもしれない。でも、それが分かったとしても、僕がされたことまで、仕方なかったとは思えないんだ」
声を荒らげることなく、繋は言葉を選んだ。
事情があったのなら。
ほんの少しでも、愛されていたのなら。
そんな理由を探しては、傷つけられた自分を納得させようとしてきた。
けれど今は、その必要がないことを、少しだけ知っている。
養父たちも、冬吾たちも、愛情を受け取る代わりに痛みへ耐えろとは言わなかった。
想は、傷ついた過去ごと繋を知り、それでも兄でいてほしいと願ってくれた。
愛されている。
そう分かったからこそ、幼い自分に与えられなかったものの輪郭まで、はっきりしてしまった。
助けてほしかった。
守ってほしかった。
何かの役に立たなくても、ただ傍にいていいと言ってほしかった。
今ある温かさを知るほど、あの頃の寂しさが胸へ刺さる。
「でも、憎み続けるために生きることも、僕にはできないんだ」
二人は、自分をどのように思っていたのだろう。
死者との再会を可能にする魔法を使っても、現れるのは繋の記憶や思念をもとに形作られた存在でしかない。本人たちの本心を確かめる術は、もうなかった。
それでも、答えが得られないからといって、自分の人生までここへ置いていく必要はない。
「僕は、これからも矛盾した感情を抱えたまま生きるよ」
口にした途端、胸の奥が鋭く痛んだ。
自分だけが生き残り、愛されて、幸福な未来まで望んでいいのだろうか。
染みついた問いは、まだ消えない。
けれど繋は、一度口にした言葉を取り消さなかった。
「僕と一緒に生きようとしてくれる人たちがいるんだ。何度離れても、僕のところまで迎えに来てくれる人たちがいる」
背後にいる三人の気配を確かめるように、僅かに顔を上げた。
「僕も、その人たちと一緒に生きたい。……そう思ってるんだ」
冬吾が小さく息を呑む。
煌夜は握り締めていた拳を緩め、想は唇を結んだまま、繋の背中を見守っていた。
「だから、さようなら」
最後にそう告げて、繋は目を開いた。
涙は出なかった。
胸の重さが消えたわけでも、何かが劇的に断ち切られたわけでもない。
ただ、別れを口にする前とは、ほんの僅かに立つ場所が変わっていた。
許せなくても、答えが出なくても、生きていく。
そう決めたのは、繋自身だった。
立ち上がり、しばらく墓を見つめる。
寂しいのか、ほっとしたのか、自分でも分からない。曖昧な微笑みを浮かべた繋へ、三人もすぐには声をかけなかった。
「繋」
やがて、冬吾が低く呼びかけた。
「家ん中、やっぱり入るんか?」
「……少しだけ」
「供養だけで終わりにしてもええんじゃぞ。二人に言いたいことも言うた。それだけでも、十分よう頑張ったじゃろ」
「うん。でも、もう少しだけ、確かめてみたい……」
半ば朽ちかけた玄関扉へ目を向ける。
それだけで指先が冷え、呼吸が浅くなった。
あの日々は、もう終わっている。
両親は、もういない。
自分は三十歳になり、異世界で十六年を生き抜いてきた。逃げることさえできなかった子どもではない。
(頭では分かっていても、身体は簡単に納得してくれない)
朽ちた家は、今もあの頃の檻に見える。
けれど、背後には三人がいる。
さっきまで握っていた手の温かさも、まだ覚えていた。
「僕は、もっと強くなりたい」
ぽつりとこぼれた言葉に、三人の表情が強張った。
それを見て、繋は口をつぐむ。
強くなるためなら、傷ついても構わない。
そんなふうに聞こえたのだと、少し遅れて気づいた。
「兄貴。ここへ来たのは、過去と向き合うためだけじゃなくて、魔法を強くするためでもあるんだよな」
想の問いに、繋は小さく頷く。
「うん。これから先、もっと強い敵と戦うことになる。そのためにも、自分の魔法の根源をもっと深く知っておきたい」
「じゃからといって、お前が傷ついてええ理由にはならん」
冬吾が正面へ立ち、その目をまっすぐ見つめた。
何度も言われてきた言葉だった。
誰かを守りたいのなら、自分もその中へ含めろ。
以前なら、分かっていると笑いながら、結局は自分を後回しにしていたかもしれない。
今も、その癖がなくなったわけではない。
「……そうだね」
繋は目を伏せ、冷えた指を握った。
「今も、みんなを守るためだって言えば、怖くても進めると思った。僕のためだけじゃ、立ち止まってしまいそうだったから」
冬吾の眉間に、深く皺が刻まれる。
「でも、それだけじゃないんだ。魔法を強くできなかったとしても、僕はここへ来たかった」
「繋くん」
煌夜の声は、苦しげに掠れていた。
「君の意思は尊重したい。けど、本当は今すぐにでも止めたい。君が怖がっているのも、無理をしようとしているのも、分かるから」
言葉を切り、浅く息を継ぐ。
「本当に、今じゃないと駄目なのかい?」
繋は、すぐには答えられなかった。
今日でなければならない理由はない。
家へ入らなければ、愛情を受け取れないわけでもない。
それでも、今の気持ちは伝えておきたかった。ただ苦痛に耐えようとしているわけではないのだと、三人にも分かってほしかった。
「……さっき、想くんが僕に兄でいてほしいって言ってくれて、嬉しかったんだ」
想が僅かに目を見開いた。
「養父たちも、冬吾も、煌夜くんも、僕を大切にしてくれてる。それが僕の思い違いじゃないんだって……やっと、少し分かった気がした」
胸へ掌を当てる。
「分かったらさ。昔のことまで、前より痛くなっちゃったんだよね」
三人は何も言わず、繋の言葉を待った。
「あの頃の僕も、こんなふうに心配してほしかったんだなって。怖かったら逃げていいって、言ってほしかったんだなって……今になって、思い知らされるんだ」
温かさと痛みが、胸の同じ場所にあった。
「みんなを疑いたいわけじゃないんだ。信じたいし、一緒に生きたい。でも、この痛みから目を逸らすために、また『僕なんかが愛されるはずがない』って考え始めたら……せっかく分かったことまで、自分でなかったことにしてしまいそうで」
声が僅かに震える。
「今日じゃなきゃ駄目ってわけじゃない。でも、今は、みんなと一緒に確かめてみたいんだ」
繋は玄関へ目を向け、それから三人を見た。
「一人だったあの頃のことを、みんながいてくれる今の僕で、見てみたい。怖くなくなるためじゃないよ。怖くても、ここから逃げられるんだって確かめたいんだ」
望んだとおりの結果になるとは限らない。過去へ触れることで、かえって傷が深く疼くかもしれなかった。
「だから……つらくなったら、逃げるから。そのときは、手を貸してほしい」
冬吾はしばらく繋を見つめていた。
やがて、深く息を吐く。
「最初から、そのつもりじゃ」
声には、まだ苦さが残っていた。
それでも繋は、取り繕って笑う代わりに、小さく頷いた。
最初に動いたのは、想だった。
玄関脇の外壁へ片手をつき、異能を発動させる。
地中から伸びた太い根が、家の基礎や柱へ絡みついた。低い軋みが響いたが、根が床下や天井を支えるにつれ、次第に収まっていく。
「崩れそうなところは支えておいた。中でも様子は見てるけど、危なくなったらすぐ出るからな」
「ありがとう、想くん」
家から手を離した想が、繋へ向き直る。
「怖くなったって、途中で逃げたって、負けたことにはならない。兄貴が歩けなくなったら、俺たちが連れて帰る」
「中へ入っても、ワシらはずっとそばにおる」
冬吾に続き、煌夜も頷いた。
「呼びかけに答えられなくなったら、返事を待たずに外へ連れ出す。それでいいね?」
「うん。……お願いするよ」
頼ると口にすると、三人の表情がほんの僅かに緩んだ。
繋は玄関の敷居の前へ立ち、恐る恐る家の中へ足を踏み入れた。
湿った木材と、積もった埃の匂いが鼻をつく。
記憶にある家の匂いとは、まるで違った。
「繋」
すぐ後ろから、冬吾の声が届く。
「ここにおるぞ」
繋は振り返った。
冬吾がいる。その向こうに、煌夜と想も。
「……うん」
返事をしても、指先の震えは止まらなかった。
それでも、怖がる自分を叱りつけることはせず、三人分の足音を聞きながら奥へ進んでいく。
廊下を抜けた先は、かつて家族が集まる場所であったはずのリビングだった。
繋の部屋は二階にあった。
けれど両親がほとんど帰ってこなかったため、幼い繋は、いつしかここで眠るようになっていた。
わざと目につく場所にいれば、帰ってきた二人が気づいてくれるかもしれない。
こんなところで寝てはいけないと、叱ってくれるかもしれない。
風邪を引くのではないかと、心配してくれるかもしれない。
叱られることさえ待ちながら、冷たい床で何度も夜を明かした。
繋は足を止めた。
今なら、引き返したいと言えば、三人は頷いてくれる。
あの頃の自分は、その一言を言える相手さえ持っていなかった。
「……ここで、寝てたんだ」
気づけば、声がこぼれていた。
「部屋はあったんだけどね。帰ってきたとき、気づいてもらえるかと思って」
すぐ後ろで、煌夜と想が息を詰めた。
繋は床を見つめる。
寂しかったのだと、今なら分かる。
それを認めた途端、胸の奥に置き去りにしていたものが、ゆっくりと顔を上げた気がした。
そのとき、崩れかけた棚の傍に、伏せて倒れた写真立てが目に入った。
繋は屈み、恐る恐る拾い上げる。分厚い埃に、指の痕が残った。
曇ったガラスを親指で拭うと、三人家族で写った写真が現れた。
父親と、母親と、その間に立つ幼い自分。
誰一人、笑っていない。
幼い繋は、身体を小さく強張らせて行儀よく立っていた。
「……………………ははっ」
なぜ笑ったのか、自分でも分からなかった。
ただ、写真の中の自分が、あまりに小さかった。
こんなに幼かったのかと思った。
冬吾たちへ何かを言おうとして、息がつかえた。写真を持つ指へ、力がこもる。
今の自分は愛されている。帰る場所も、手を差し伸べてくれる人もいる。
なのに、写真の中の子どもは、まだ何も知らない。
───その顔からは、何の感情も読み取れなかった。
色褪せた写真が、不意に鮮やかな記憶へと塗り替えられる。
剥がれていた壁紙が元へ戻り、朽ちた家具がかつての姿を取り戻した。
すぐ後ろにいたはずの三人の気配が、遠ざかる。
違う。
今は、一人じゃない。
そう思ったはずなのに、目の前のリビングから冬の光が消えていく。
長いあいだ閉じ込めていた過去が、濁流となって繋へ襲いかかった。
「兄貴……?」
「繋くん?」
想と煌夜の呼びかけに、返事はなかった。
繋は写真を握り締めたまま、微動だにしない。
真っ青になった顔から表情が抜け落ち、焦点の合わない目は、ここではないどこかを見つめていた。
冬吾は迷わず腕を伸ばした。約束どおり、外へ連れ出すために。
その瞬間、繋の全身から膨大な魔力が噴き出した。
橙色の光がリビングを照らし、無数のバラの花弁が何もない空間から生み出されていく。
けれど、普段のものとは明らかに違っていた。
温かなオレンジ色が、内側から滲み出す何かに侵食され、光さえ呑み込みそうな漆黒へ染まっていく。
言葉にできなかった記憶も、表へ出すことを許されなかった感情も、堰を切ったように溢れ出す。
黒い花弁が激しく渦を巻き、床も壁も、四人の視界さえ埋め尽くしていった。
「繋!」
冬吾は花弁を払い除けて踏み込み、繋の身体を横抱きにした。
抵抗はなかった。
けれど、その手は写真立てを固く握り締めたままで、呼びかけにも応えない。
「外へ出るぞ! 想、道を確保せえ!」
「ああ!」
想が即座に振り返り、根で支えた柱や天井を確かめながら、玄関への退路を開く。
煌夜は冬吾の前へ出て、黒炎を薄く纏わせた。
現象の正体は分からない。
ただ、繋の概念抽出魔法が、記憶や感情へ反応しているのかもしれなかった。
ならば、繋への影響も分からないまま、花弁を焼き払うことはできない。
まずは、繋をここから連れ出す。
冬吾が歩き出そうとした、そのときだった。
荒れ狂っていた花弁が、不意に止まる。
無数の黒が宙へ縫い留められ、次の瞬間、玄関へ続く廊下の手前に集まり始めた。
重なり合った花弁が、輪郭を作る。
頭が生まれ、細い肩が形作られ、短い手足が床へ伸びていく。
そうして現れたのは、行く手を塞ぐように立つ、一人の幼い子どもだった。
「……っ」
想と煌夜にとっては、初めて目にする姿だった。
けれど、冬吾だけは違った。
少し長く伸びた癖毛。
小さく華奢な身体。
十六年ものあいだ、記憶の中で繰り返し見続けてきた幼馴染の姿だった。
それは、最後に会った十四歳の繋よりも、さらに幼い。
かつて、いじめられていた冬吾の前へ何度も立ち、自分も傷つきながら手を差し伸べてくれた――小学生の頃の渡繋だった。




