第22話:魔法の始まり
行く手を塞いでいた幼い繋の輪郭が揺らぎ、その向こうへ、見覚えのある玄関が広がった。
『いってきます』
黒い花弁の向こうから、幼い繋の声が聞こえた。けれど、「いってらっしゃい」と返す者は、どこにもいない。
小さな繋は、誰にも見送られないまま、一人で家を出ていく。
冬吾は繋を抱え直し、出口へ目を向けた。
だが、玄関へ続いていた廊下まで記憶の景色に覆われ、出口の位置が分からなくなっていた。
黒い花びらが舞うたび、周囲の景色が切り替わる。
人の気配がなく、冷え切った部屋。
テーブルに置かれた金と、短い書き置き。
何を買い、何を食べればいいのかも分からず、空っぽの冷蔵庫の前で立ち尽くす子ども。
繋が言葉にできず、記憶の底へ押し込めてきた過去を、暴走した概念抽出魔法が次々と映し出していた。
次に現れたのは、母親に手を引かれ、見知らぬ建物へ連れていかれる幼い繋だった。
知らない部屋。
知らない大人たち。
母親へ差し出される金。
繋の手から離れていく、母親の指。
行かないでと声を上げる暇もなく、扉が閉ざされる。
そこから先は、激しいノイズに塗り潰されていた。
眩しい光と、遠くで重なる大人たちの声。
幼い繋は、意識だけを遠くへ逃がし、すべてが終わるのを待っていた。
それは、一度きりではなかった。
終わるたび、一人で身体を洗う。
身体に残る記憶まで、洗い流そうとするように。
『お母さんに迷惑をかけたくないでしょう?』
そう言われれば、幼い繋は頷いた。
泣くことも。
嫌だと拒むことも。
助けてほしいと叫ぶこともできないまま。
何も傷ついていないと伝えるために、小さな顔へ笑みを浮かべる。
「……繋くん」
掠れた声とともに、煌夜の全身から黒炎が噴き上がった。
虐待のことは、皐月から聞かされていた。繋の傷を理解し、同じように傷を抱える者として隣に立とうとしていた。
だが、言葉で知ることと、当時の光景を目の前へ突きつけられることは、まるで違った。
「こんなにも幼い子どもに、どうして……」
黒炎が巨大な狼の顎を形作り、すでにここにはいない者たちへ口を開ける。
「どうして、こんな惨いことを!!」
炎が爆ぜ、想の根に支えられた家が一瞬だけ振動する。
「俺なら、一人残らず――」
そこで、煌夜は息を呑んだ。
怒りのまま復讐を叫びたかった。でも、今自分がすべき事はそんな事ではない。
「……違う」
拳を握り、噴き上がる黒炎を押さえ込む。
「今、俺が見るべきなのは、過去の奴らじゃない」
冬吾に抱かれた繋を見つめた。
「ここにいる、繋くんだ」
許せるはずはない。
それでも、自分の怒りより、今ここで傷ついている繋を優先したかった。
煌夜は黒炎を収め、胸へ拳を当てる。
「俺は、キミの友達として、キミを守るから。……だから、戻ってきてくれ、繋くん!」
その声を押し流すように、花弁が渦巻いた。
「これが……兄貴の身に起きたこと……」
想の声が震える。
(親父ッ……!!)
奥歯を噛み締めた。
(遅すぎたんだよ!! 兄貴は、もう、こんなに傷ついていた!!!)
もっと早く、父親としての責任を果たしていたなら。
何か一つでも違っていれば、この過去は起きなかったかもしれない。
けれど、父親が過ちに気づくより前に、兄は自分を大切にできなくなるほど傷ついていた。
膝から力が抜けかける。
想は歯を食いしばり、踏みとどまった。
父親の選択を、今から変えることはできない。
それでも、自分がこれから兄へ何をするのかは、まだ選べる。
血が繋がっているだけでは家族になれなくても、自分たちの意思で家族にはなれる。
先ほど、繋自身が教えてくれたことだ。
想は、映し出された記憶の中の繋へ手を伸ばした。
小さな肩へ触れようとした指が、その輪郭をすり抜ける。
目の前にいるのは、過去の幻だ。
分かっていても、想はその小さな身体を包み込むように両腕を回した。
温もりも、重さも返ってこない。
それでも、そこに兄がいるかのように抱き締めた。
何を言えばいいのか、分からなかった。
もう一人にはしない。
それだけでも伝わるよう、泣き出しそうな顔で優しく笑ってみせる。
幼い繋の姿が、黒い花弁となって崩れた。
記憶の景色が薄れ、その向こうに朽ちたリビングが透けて見える。だが、廊下はまだ花弁に覆われ、出口を見通すことはできなかった。
冬吾は俯いたまま動かなかった。
繋を抱く腕が震え、足元から白い霜が広がっていく。
――キン。
空気が冷え、床も壁も、家を支える想の根さえも白く染まった。
「……やっぱり、間違いじゃなかったのぉ」
低く、冷え切った声だった。
「白熊?」
煌夜が振り返る。
そこにいたのは、繋の前で朗らかに笑う幼馴染ではない。
仲間を傷つける敵へ一切の慈悲を向けない、亜獣会の組長だった。
「組長になってから、使えるもんは全部使うた。人脈も、情報網も、表には出せん手段もな」
冬吾は繋を抱いたまま、凍りついたリビングを見据える。
「皐月さんが先に始末しとった連中以外は、ワシが探し出して処理した」
「……何をしたんだ」
「二度と、誰にも同じことができんようにした」
それ以上の説明は、必要なかった。
それだけで、冬吾が何を行ったのか煌夜は気付くも、何も言わなかった。
「知らんかったと言い張る奴もおった。子どもじゃとは思わんかった、金を払ったんじゃから権利があったとな」
床の氷へ亀裂が走る。
「命乞いもされた。じゃが、聞かんかった」
冷たい笑みが浮かんだ。
「繋が嫌じゃと言うても聞かんかった奴らの言葉を、どうしてワシが聞いてやらにゃあならん」
冬吾は腕の中へ目を落とす。
「もう、おらん。お前を傷つけた奴らは、もう二度とお前へ触れられん」
その選択を、後悔してはいなかった。
けれど、報いを受けさせても過去は変わらない。記憶の中で笑顔を作る子どもを、今から助け出すことはできなかった。
「ワシは、ずっとお前の隣におったつもりじゃった」
声が、初めて震えた。
「毎日のように一緒におって、何でも分かっとるつもりじゃった。なのに……なんで、気づけんかった」
大丈夫。
何でもない。
心配しなくていい。
その笑顔を、優しさや強さの表れだと思っていた。
痛みを隠すためでもあったと、気づかなかった。
「すまん、繋」
冬吾は繋を抱いたまま、床へ片膝をついた。
「何もできんかったワシを……許さんでくれ」
腕の中の身体を、強く抱き寄せる。
「助けてやれんで、すまんかった」
謝罪を呑み込むように、黒い花弁が再び渦を巻いた。
次に映し出されたのは、地球ではない場所だった。
見知らぬ部屋で、十四歳の繋が小さな機械を手にしている。
異世界セプネテスへ渡り、ヒョードルと暮らし始めて、まだ数か月しか経っていない頃。
何もできない自分を受け入れてくれた養父の愛情を、当時の繋は信じられなかった。
何かを返さなければ。
役に立たなければ。
いつか失望され、捨てられてしまう。
そして、魔法が使えれば、離れ離れになった両親と再会し、愛されていたのかを確かめられるかもしれない。
その願いに縋り、外部から魔力を増幅させるための装置を、自分の身体へ埋め込もうとしていた。
「やめろ……」
冬吾の声は、過去には届かない。
装置が身体へ食い込み、人工的な魔力回路を形成していく。
床へ血が流れ落ちても、繋は止めなかった。
激痛に意識を失いかけながら、完成したばかりの回路へ魔力を流す。
今度こそ、確かめられる。
そう信じ、両親との再会を願う魔法を唱えた。
けれど、目の前には誰も現れなかった。
術式が未熟だったのかもしれない。
死者には届かない魔法だったのかもしれない。
当時の繋には、そんな可能性を考える余裕もなかった。
『やっぱり、僕は愛されていなかったんだ』
何もない空間を見つめ、崩れ落ちる。
押し殺してきたものが決壊し、血に濡れた床の上で、声を上げて泣いた。
「……繋」
冬吾の目から涙が溢れた。
繋を失った十六年間、どれほど苦しくても、ほとんど泣けなかった。
今は止めることもできず、腕の中の身体を抱く力を強める。
記憶の景色へ亀裂が走った。
「……そうだった」
冬吾の腕の中で、繋の唇が動く。その頬には冬吾の涙がぽたぽたと落ちていた。
「……僕は、父さんと母さんに愛されていたって、確かめたかった……」
黒い花弁が、灰のように降り積もる。
「ヒョードルにも、必要としてほしかった。役に立てば、ずっと傍に置いてもらえると思った」
異なる願いに見えて、根は同じだった。
「僕は……愛してほしくて、魔法を覚えたんだ」
繋の顔から、血の気が引く。
今、愛されていることを疑ったのではない。
ただ、誰かを救うために使ってきた魔法の始まりに、自分のための願いがあったことを、思い出してしまった。
誰かの役に立ちたいと願った、その奥で。
自分は、愛情を返してもらおうとしていたのではないか。
そう思った途端、自分がひどく気持ち悪く感じられた。
「そんな、浅ましい願いのために……」
「浅ましくねぇ!」
想の声が世界を貫いた。




