第20話:兄へ手を伸ばす
想が異能を解くと、街を覆っていた樹木のドームが、低い軋んだ音を上げながら崩れ始めた。
幾重にも絡み合っていた枝がほどけ、アスファルトを突き破っていた太い根が、地面を鳴らしながら沈んでいく。
閉ざされていた十二月の空が、ゆっくりと姿を現した。
「繋!」
「繋くん!」
冬吾と煌夜が、崩れ落ちる枝の隙間を縫って駆け寄ってくる。
真っ先にたどり着いた冬吾は、繋の身体を抱き留めるなり、血の滲んだ脇腹を確かめた。
「じっとしとれ、繋」
傷口へ掌を添え、その周囲だけを薄く凍らせる。
冷気が傷の熱を奪い、流れ出ていた血を止めていった。
「これなら、繋の自動治癒も効きやすくなるじゃろ」
「心配をかけてごめんね、冬吾」
「ほんまにな。お前は、ちぃと目を離すとすぐ無茶をする」
呆れたように言いながらも、傷へ触れる冬吾の手つきは、どこまでも優しかった。
遅れてやってきた煌夜も、繋の傷を見て表情を強張らせる。想へ向き直ると、その全身から黒炎を滲ませた。
「繋くんを傷つけたな」
「煌夜くん、大丈夫だよ」
「だが……!」
「もう大丈夫だからさ」
繋が穏やかに告げると、煌夜はしばらく想を睨んでいた。
それでも最後には、繋の意思を尊重するように黒炎を収める。
「……繋くんがそう言うなら、俺は信じる。けど、何かあったらすぐに呼んでくれ」
「ふふ、ありがとう」
応急処置を終えたあと、繋と想は朽ちかけた実家の縁側へ並んで腰を下ろした。
少し離れた場所では、冬吾と煌夜が車に背を預けている。想への警戒は解いていないものの、兄弟の話へ割って入るつもりはないらしい。
荒れていた呼吸が落ち着いても、想は地面へ視線を落としたままだった。
先ほどまでの激情だけが行き場を失い、固く握られた拳の中に残っている。
長い沈黙のあと、想はようやく口を開いた。
「俺たちは、ずっと親父が帰ってくるのを待ってた」
「…………」
「母さんは、死ぬまであの人を嫌いになれなかった」
その声は、戦っていたときよりもずっと静かだった。
「親父がいつまで経っても家に戻ってこないのは、あんたがいたからだって思ったこともある」
胸の奥が鈍く痛んだ。
それでも繋は目を逸らさず、想の言葉を待った。
「親父を奪ったのは、あんただって……そう思ってた。兄貴の家で何があったのか、あのニュースで知るまでは」
想もまた、父親を待ち続けていたのだ。
どれほど待たされても。
約束を果たしてもらえなくても。
幼い頃に愛してほしいと願った相手を、簡単には嫌いになれなかった。
形は違っていても、その感情だけは繋にも分かった。
「……本当に、家族って難しいよね」
「ああ。難しいことばっかりだ」
想の視線に気づき、繋は困ったように眉を下げた。
すると想も、同じように眉を下げる。
まるで鏡を見ているようだと、少しだけ思った。
「想くんはさ。僕が両親を供養することに、反対?」
「反対だ」
ぴしゃりと、迷うことなく言い切った。
その瞳は、言葉にしきれない想いまで雄弁に語っていた。
想の言う通りだとも思う。
供養をしたところで、受けた傷は消えない。何もかも忘れて生きられるわけでもない。
けれど、それだけではないのだ。
「僕はさ……ずっと、自分を罰するために過去を抱えてきたんだと思う」
想が目を見開いた。
少し離れた場所にいる冬吾と煌夜も、口を挟まず、じっと耐えるように繋の言葉を聞いている。
「異世界で、自分が生き残るために戦った。勇者一行の一人として、人を救うためにも戦った。その十六年のあいだに、僕は大勢の人を殺した」
東京のデータベースにも残されていなかった過去を聞き、想は固く手を握り締めた。
「最後には、弟のように思っていた魔王を、この手にかけた」
繋は自分の掌へ目を落とした。
そこにはもう、あの日の血など残っていない。
それでも、忘れたことは一度もなかった。
「僕は、自分を罰したい気持ちに耐えきれなかった。でも、そこで思ったんだ。両親との確執を終わらせて、過去を整理できれば、いつか、養父たちからの愛情を素直に受け取れるようになるかもしれないって」
繋は自嘲するように笑った。
「でも、馬鹿だよね。向こうでできた家族を置いてまで、することだったのかなって。ふとした瞬間に、そう思うんだ」
忘れてはいけない。
苦しみ続けなければならない。
自分だけが幸せになることなど、許されるはずがない。
そう思い込み、罪を背負い直すために、地球に帰ってきた。
「今回のことで、分かったことがあるんだ。供養をしたって、明日から急に両親を許せるわけじゃない。自分を罰したい気持ちも、そう簡単にはなくならない」
それでも――。
「一歩。一歩だけでもいいから、前に進みたい」
繋はどんよりとした雲を見上げ、次に実家へ目を向けた。胸に溜まった不安を、息と共に小さく吐き出す。
想は奥歯を噛み締めた。
「僕はもう、あの頃の子供じゃない。ここに閉じ込められているわけでもない。今度は、僕を連れて逃げてくれる人たちもいる」
冬吾の肩が僅かに揺れた。
煌夜も何も言わず、繋の背中を見つめている。
「そのことを、あの頃の僕に教えてあげたいんだ」
この家に囚われ、今も震えている幼い自分の手を取って、外へ連れ出すために。
「でも……俺は、それでも供養なんかしてほしくねえ」
想の声には、まだ拭いきれない怒りが残っていた。
「俺には、兄貴を傷つけた奴らに手を合わせるなんてできねえ。何度でも言う。俺は、反対だ」
「うん」
繋は困ったように微笑む。
「兄貴が、また傷つくかもしれねえから」
繋は静かに目を閉じた。
「こんな家、全部壊した方がいいって、今でも思ってる」
想はそこで言葉を切ると、固く拳を握った。
「だから、そんな顔で笑うなよ……」
吐き捨てるような声だった。
繋は眉を下げて「ごめんね」と謝る。
「謝らないでくれ」
間髪を容れずに返され、繋はそれ以上、何も言えなくなった。
想は俯いたまま押し黙り、思案した。
兄が自分を罰するためではなく、過去から自分自身を連れ出すためにここへ来たのなら、自分は付き合うしかないのだろう。
やがて、握られていた拳から僅かに力が抜けた。
「……困った兄貴だ。それに、頑固すぎる」
この頃、同じようなことを言われるなと思った。思い浮かぶ人たちの顔があまりに多くて、繋は苦笑した。
想は深々と息を吐く。その横顔からは、先ほどまでの険しさが僅かに薄れていた。
少し安心したものの、繋の胸には別の不安が湧き上がってくる。
やがて躊躇いがちに想へ顔を向けた。
「その、想くんは……気持ち悪くないの?」
「何がだ?」
「僕の過去を、知ったんだろう?」
「ああ」
「だったら……」
繋は穏やかに微笑んだ。まるで、至極当たり前のことを確認するように。
「こんな穢れた人間が兄で、気持ち悪いだろう?」
静寂が落ちた。
想の表情から、あらゆる感情が抜け落ちる。
少し離れた場所で話を聞いていた冬吾は「あちゃあ……」と顔を覆い、煌夜は痛みに耐えるように表情を強張らせた。
「……あ”?」
地の底を這うような声だった。
繋は、その反応を拒絶だと思った。
冷たいものが胸中を駆け巡る。それでも想を困らせないように、何でもないことのように笑おうとした。
「無理に僕を兄だと思わなくていいんだよ。血が繋がっているからって、家族にならなきゃいけないわけじゃない。僕みたいな人間を兄にするのは、キミも――」
「誰が」
想の声が、繋の言葉を断ち切った。
「誰が、兄貴を穢れてるなんて言った───兄貴の母親か?」
想の足元で、地面がひび割れる。
「親父か? ニュースを見た連中か? それとも今、ここで兄貴をそんなふうに呼んだ奴がいるのか?」
「違うよ。誰かに言われたわけじゃ――」
「だったら、なんでそんな顔で言えるんだよ!」
想の声が震えた。
「なんで、空が青いとか、冬は寒いとか、そんな当たり前のことみたいに、自分は穢れてるなんて言えるんだ!!!」
繋はやっとそこで、自分の発言が間違いだったことに気付く。
「悪いのは、兄貴にそんなことをさせた奴らだろ!!」
想の叫びが、静まり返った住宅街へ響き渡る。
「兄貴は子供だった。逃げる場所もなかった。母親に逆らえなかった。生きるために、従うしかなかったんだろ!」
「でも……」
「でも、じゃねえ!」
感情に引きずられ、想の足元から若木が芽吹いた。
細い幹が急激に成長し、冬の空へ向かって枝を伸ばしていく。
「無理やりさせられたことを、自分のしたことみたいに背負うな!」
想が立っている地面に染みが増えていく。涙だ。
「兄貴が傷つけられた証拠を、兄貴自身の罪にするなよ!」
繋の唇が僅かに震えた。
冬吾たちにも、同じような言葉を何度もかけられてきた。
それでも、心のどこかで受け入れきれなかった。
優しい彼らが、自分を傷つけないように、そう言ってくれているだけなのではないか。
自分が都合よく解釈し、その言葉へ縋っているだけではないか。
そんな疑いを、どうしても捨てきれずにいた。
けれど今、同じ父親の血を引く弟が、繋の過去を知ったうえで怒っている。
繋ではなく、繋を傷つけた者たちへ、怒りを向けている。
「俺は……」
想は拳を握り、苦しそうに俯いた。
「俺は、兄貴を気持ち悪いなんて思ってない」
「想くん……」
「思うわけねえだろ……」
荒々しかった声から、少しずつ力が抜けていく。
「むしろ、怖かったのは俺の方だ。兄貴を恨んでた。蛇ノ目の側にもいた。何も知らなかったとはいえ、兄貴を傷つける側に立ってたんだ」
繋は胸を締めつけられながらも口を挟まず、その続きを待った。
「今さら弟だなんて名乗っても、拒絶されると思ってた」
想の視線が、朽ちた家へ向けられる。
「それでも、兄貴が生きてるって分かったとき……嬉しかった」
その声はひどく頼りなく、初対面した時戦いを楽しんでいた男のものとは思えなかった。
「会いたかった。どんな人なのか知りたかった。俺と似てるのか、何が好きなのか、何をしたら笑うのか……そういうことを、知りたかった」
それは、あまりにも普通の願いだった。
血の繋がった兄弟なら、幼い頃から当たり前に知っていたかもしれないこと。
けれど二人には、その当たり前がなかった。
「許されるなら、これからは兄貴と一緒に生きていきたい」
掠れた声が落ちる。
「子供の頃から兄貴が傍にいたらって、何度も考えた。親父が帰ってくるなら、いつか兄貴も一緒に来るんじゃないかって」
父親は、繋を連れて戻るつもりだった。妻から受けていた虐待を知り、今度こそ父親として繋を守ろうとしていた。
けれど、その決断はあまりにも遅かった。
旅行先で起きた事故によって、父親も繋の母親も帰らぬ人となった。
唯一生き残った繋も、異世界へ迷い込んだことで、この世界から姿を消した。
想と母親は、真実を知るまで、父が必ず帰ってくるという約束を信じて待ち続けるしかなかったのだ。
「一緒に暮らしてみたかった。くだらないことで喧嘩して、同じ飯を食って、朝になったら同じ家から出て学校にいって」
もう戻らない時間を惜しむように、想の声が震える。
「そういうことを、兄貴としてみたかった」
繋は伏し目がちに、その言葉を受け止めた。
「やっと会えた兄貴は、俺が思ってたよりずっと優しくて……自分のことだけ、何も大事にしてねえ」
想は唇を噛んだ。
「それなのに、自分は穢れてるから俺の兄にはなれないなんて、勝手に決めるなよ!」
繋の胸の奥が、鋭く痛んだ。
「俺から、二度も兄貴を奪うな!」
それは怒りの形を借りた、弟から兄への、初めての願いだった。




