第18話:兄弟喧嘩
その呼び方に、繋は何も返せなかった。
兄貴。
異世界の年下組や菊香から、兄のように慕われたこともある。
けれど、血の繋がった弟からそう呼ばれるのは、もちろん初めてで、色んな感情が一度に繋を襲った。
それは戸惑いであり、不安であり、そして悲しみ。
それらに交じって、喜びに似た何かが、形を定められないまま胸の奥でぐるぐると渦を巻く。
「どうして、キミがここに……」
「兄貴に会いに来た」
想は簡潔に答えた。
「蛇ノ目の命令か」
煌夜が二人の間へ割って入る。
その全身から黒炎が立ち上り、両腕を覆う炎の爪を形作った。先ほどまでとは異なる、明確な殺気が辺りを満たす。
「抜けてきた」
あまりに単純な答えに、三人は一瞬だけ言葉を失った。
しかし、煌夜はすぐに眼差しを鋭くする。
「それを信じろと?」
「別に、あんたに信じてくれとは言ってねえよ」
想の足元で地面がひび割れ、若木が芽吹く。
「ほいじゃったら、いねや」
繋を庇うように、冬吾も前へ出た。
地を這うような低い声とともに、霜柱が荒れた道路を侵食していく。
「そうカッカすんなよ。俺は兄貴に会いに来ただけだ」
想は肩をすくめ、朽ちかけた家へ目を向けた。
感情の読み取れない顔で、しばらく家を見据える。
やがて繋へ視線を戻したとき、その目は、はっきりと怒りに燃えていた。
「……なあ、兄貴。こんな家、ぶっ壊そうぜ」
突然の申し出に、繋はしどろもどろになりながらも、何とか口を開いた。
「……どうして」
「知ってるからだ。あんたに何があったのか、全部」
繋の喉が小さく鳴った。
嫌に、その音だけが耳へ響く。
トラウマが、記憶の底から吹き出した。
暗い部屋。肌へ触れる手。母親の声。
記憶に引っ張られ、身体が震えそうになるのを何とか堪える。
繋は縋るように、ヒョードルの顔を思い出した。
(母に言われるまま、知らない人に体を触らせていた……父さんが知るまで、何年も)
その事実を知っているのは、冬吾を始め、ヒョードルやスヴィグルたち。血の繋がらない家族だけだった。
彼らは繋の過去を知っても、何も変わらず共にいてくれた。
けれど、血の繋がった相手に知られたと思うだけで、身体の芯が冷えていく。
想とは、まだ二度しか会っていない。それなのに。血の呪いは、積み重ねてきた年月など易々と飛び越え、繋の奥底にある不安を引きずり出した。
「ニュースにもなった。あんたの母親が何をしてたのかも、親父がそれを知ったときには何もかも遅すぎたことも、俺は知ってる」
けれど、向けられる言葉も表情も、繋が想像していたものとは違っていた。
想は、悲痛に顔を歪ませながら怒っていた。
そこにあるのは憎悪ではない。悲しみによる怒りだった。
なぜ自分のためにそんな顔をするのか、繋には分からなかった。
「それで、兄貴は何しに来たんだ」
想は朽ちた家を睨みつける。
「まさか、ここに住み直すつもりじゃねえよな」
繋はゆるりと首を横に振る。
「なら、何する気だ」
「供養をしに」
繋は、できるだけ平静に答えた。
長い沈黙が落ちる。
「…………………………………………は?」
想の呆然とした声が、時間をかけて落ちた。
足元の根が、その感情へ呼応するように大きく脈打つ。
「……供養?」
「……うん」
「ふざけんな」
繋の返答を聞いた想の声は、低く震えていた。
繋と冬吾、煌夜が身構える。
「なんでだよ」
想は怒りのまま、朽ちた家を指差した。
「なんで、わざわざ戻ってくる。なんで、こんな場所を直そうとする」
「それは――」
「あんた、今、震えてただろうが!」
繋は息を呑んだ。
抑え込めていると思っていたけれど、想には見抜かれていた。
「その家を見ただけで震えて、昔のことを思い出しただけで、そんな顔になってんじゃねえか!」
想の怒りに戸惑いながらも、繋は言葉を探した。
この場所へ戻ってきたのは、両親を供養するためだけではない。
過去と向き合い、トラウマを乗り越えるため。
今よりも魔法を強くするため。
これから先も、大切な者たちを守れる自分でいるため。
「僕は……魔法を強くするために、過去を見つめに来た……んだ」
「ッそんなに震えてでもか?」
苦々しく問う想に、繋はうんと頷いた。
「一人じゃ無理だから、二人についてきてもらってる……」
想の視線が、冬吾と煌夜へ動いた。
「二人には、全部話してある。ここへ来る理由も、僕が何をしようとしているのかも」
「ワシらは、繋が一人で抱え込まんようについてきた」
冬吾が繋の前から退かないまま、低い声で告げる。
「繋が過去と向き合うと決めたから、支えるために来たんじゃ。無理をさせるためじゃない。ほんまに危ないと判断したら、ワシが止める」
「俺も事情はすべて聞いている」
煌夜も黒炎を纏ったまま続いた。
「繋くんが一人で苦しむことがないように、俺たちはここにいる」
想は二人を交互に見た。
それから、信じられないものを見るように繋へ視線を戻した。
「……支えてもらわなきゃ来られねえ場所だって、自分で分かってんじゃねえか」
繋はぐっと息を詰まらせた。
「一人じゃ無理だから、こいつらについてきてもらったんだろ」
「……そうだ……ね」
「だったら、なおさらおかしいだろうが!」
想の感情へ呼応し、若木の枝が大きく伸び始める。
「一人で来れねぇことを責めてんじゃねえ! 誰かに支えてもらわなきゃ立っていられねえほど苦しい場所で、なんでそこまでして強くならなきゃならねえのかって聞いてんだよ!」
「それは――」
「魔法を強くするために、過去と向き合う。それは分かった」
想は苦しそうに顔を歪めた。
「魔法ってのが異能と同じなら、精神の在り方で強さが変わるってのも、何となく分かる。俺だって、理不尽な世の中への怒りだけで、ただの異能者から覚醒者になったからな」
繋は黙って、想の言葉を聞いた。
「でも、だから何だよ」
想の声が震える。
「なんで、そこまでして強くならなきゃならねえ。なんで、震えるほど苦しい場所へ戻ってまで、自分を追い詰めなきゃならねえんだよ!」
「これから先も、大切な人たちを守りたいからだよ」
繋は自分の胸元へ手を添えた。これだけははっきりと言える。
「僕にできることを、増やしたいんだ」
「そのためなら、兄貴一人が傷を背負ってもいいのかよ!」
想の叫びに、繋の肩がびくりと揺れる。
「そいつらが傍にいたって、実際に昔のことを思い出して苦しむのは兄貴だろうが! 支えてくれる奴がいるからって、兄貴が傷つかなくなるわけじゃねえだろ!」
「平気だとは思っていないよ……」
「だったら!」
「それでも、僕には必要なんだ」
繋が静かに答えると、想の顔がいっそう苦しげに歪んだ。
想は、繋の言っていることを理解できないわけではなかった。
魔法が異能と同じように、使い手の精神に左右されるのなら。
過去と向き合うことが、繋の魔法を強くすることへ繋がるのなら。
ここへ来た理由そのものは、理解できる。
理解した上で、受け入れられないのだ。
初めて出会ったときは、素性など知らなかった。
ただ強い相手だったから、戦うことが楽しかった。
けれど、名前を知った。
自分がずっと再会したかった兄と、同じ名前だと気づいた。
それから、蛇ノ目のデータベースで全部調べた。
若返っていること。
異世界から帰還したこと。
魔法使いであること。
そして戸籍情報から、間違いなく自分の兄だということを知った。
どれだけ嬉しかったか。
その兄が今、目の前で震えている。
強くなるためだと理由を聞かされても、想の目には、傷つけられた場所へ自ら戻り、もう一度その傷を抉ろうとしているようにしか映らなかった。
「俺は、あんたのことなんか全然知らねえ」
想は吐き捨てるように言った。
その言葉で傷ついたのは、繋ではなく、口にした想自身のようだった。
「何が好きなのかも、今までどうやって生きてきたのかも、兄貴が俺のことをどう思ってんのかも分かんねえ」
「想くん……」
「知らねえから、余計に腹が立つんだよ」
想の声が震える。
「やっと会えた兄貴が、目の前で自分を傷つけようとしてんのに、俺だけ何も知らねえ。何も知らねえ俺には、止める資格もねえっていうのかよ」
「キミが心配してくれていることは――」
「そんな綺麗な話で終わらせんな!」
想の叫びが、荒れ果てた住宅街へ響き渡った。
「俺の兄貴だから止めたいんだよ!!」
繋は息を呑んだ。
冬吾と煌夜も、僅かに目を見張る。
想自身も、口にしてから驚いたように固まった。
けれど、もう止まれなかった。
「血が繋がってるだけだ。まだ二回しか会ってねえ。そんなの俺だって分かってる!」
足元のひび割れから、幾本もの根が這い出してくる。
「でも、兄貴だって知った! 生きてるって分かって嬉しかった! だったら、傷ついてんのを黙って見てられるわけねえだろうが!」
繋は答えられなかった。
胸の奥で、形を持たずに渦巻いていたものが、僅かに輪郭を得る。
想の怒りは、自分を拒絶するためのものではない。
自分を気遣い、傷ついてほしくないと願うがゆえのものなのだ。
そう知って、喜びに似た感情が胸の奥で息づいた。
そんなふうに思ってしまう自分へ、戸惑いもした。
けれど、ここで引き返すことはできない。
繋もまた、覚悟してここへ来たのだ。
「傷つくことが分かっていても、僕は強くならないといけない」
その答えに、想の顔が歪む。
冬吾と煌夜もまた、苦い表情を浮かべた。
二人は繋の目的も、覚悟も知っている。その上で支えると決め、ここまで来た。
けれど、「強くならなければならない」と自分を追い立てるような繋の言葉まで、何も思わず受け入れられるわけではなかった。
二人の表情を見て、繋は自分の言葉が足りなかったことに気づく。
「……違う。強くならなきゃいけないからだけじゃない。僕自身が、強くなりたいんだ。そのために、過去と向き合いたい」
「……もういい」
想は朽ちた家を睨みつける。
苦しそうに顔を歪め、次いで繋を真っ直ぐに見据えた。
「兄貴が自分の意思を曲げないのなら、俺も俺のやり方で止める」
「……想くん?」
「こんな家があるから、あんたは戻ってくるんだろ」
想の足元で、大地が低く鳴る。
「この家があるから、向き合わなきゃならねえなんて思うんだろ」
「待って。想くん」
「だったら、こんなもん、なくなればいい」
繋と冬吾、煌夜が身構える。
「ふざけんなよ……」
想の声が震える。
怒っている。
けれど、それ以上に、泣いていた。
涙を零さず、ただ、表情だけで泣いていた。
「こんな家、跡形もなく壊せばいいだろ! あんたを傷つけた奴らの墓なんか作って、何になる!」
想が地面へ掌を叩きつけた。
「――グロウ!!!」
大地の奥深くから響いた地鳴りが、住宅街全体を揺らす。
「何をする気じゃ!」
轟音とともに大地が割れた。
冬吾が繋の腕へ手を伸ばす。その直前、二人を引き裂くように巨大な根が噴き上がった。
「繋!」
「繋くん!」
冬吾と煌夜が後方へ飛び退く。
無数の根が絡み合い、分厚い壁となって二人の前へ立ちはだかった。
地中から現れた大樹の根が廃墟の間を縫い、住宅地一帯を囲みながら、冬の空へ迫り上がっていく。
左右から伸びた幹が遥か頭上で激突し、編み込まれていった。
枝と根が隙間なく組み合わさり、鉛色の空を塞ぐ。
やがて姿を現したのは、街の一角を覆い尽くすほど巨大な樹木のドームだった。
朽ちた実家は、ドームの外側に残されている。
内側へ隔離されたのは、繋と想だけだ。
家を壊すと言いながら、想はそれをドームの形成範囲から外した。
繋を巻き込んだまま、破壊するつもりはないのだろう。
まず繋を家から遠ざける。
そして二度と戻らないと約束させたあとで、あの家を壊すつもりなのだ。
少なくとも、今の想が真っ先に排除しようとしたのは、家そのものではない。
繋と、あの家との繋がりだった。
冬吾と煌夜まで隔てたのは、誰にも邪魔をさせず、自分の思いを繋へぶつけるためだ。
背後の木々の壁、その向こうから、こちらを案じる声が聞こえる。
冬吾の冷気を浴びた箇所が白く凍りつき、煌夜の黒炎に焼かれた箇所が炭化する。
しかし、破壊された端から新たな枝と蔦が生え、瞬く間に穴を塞いでいった。
繋は空間から念話用の花の栞を一枚取り出すと、木々の隙間へ滑らせるように投擲した。
「冬吾! 煌夜くん! 大丈夫かい!?」
『繋!? 大丈夫か!? すぐにそっちに行く!』
『何とかこの壁を消し炭にしたいが、なんだこれ。生命力が凄いな!』
二人の無事を確認し、僅かに安堵する。
だが、その隙を狙うように足元から蔦が伸び、繋の身体へ絡みつこうとした。
繋はその場から跳ねるように飛び退く。
「……それだよ」
想の声が、低く落ちた。
「え?」
「なんで、そんな顔ができんだよ」
繋は想へ視線を戻す。
「俺が勝手に二人を締め出して、あんたの邪魔をして、力ずくで止めようとしてんのに。なんで怒らねえ」
想の周囲で、太い根が持ち上がる。
「なんで、また俺の気持ちまで受け止めようとしてんだよ!」
繋は否定せず、ただ静かな表情を向けた。
似たような言葉を、以前にも向けられたことがある。
スヴィグルと初めて出会ったときだ。
繋はふと、サムズリングをなぞった。
けれど、あのときとは違う。
ただ痛みをなかったことにして、笑っていた頃とは違う。
今は、想の怒りも、その奥にある心配も困惑も、きちんと見えている。
そのすべてを受け止めた上で、繋は自分の意志を曲げない。
「なんだよ、その顔……」
想は一度、顔を伏せた。
「俺は、あんたを止めたい。あんたは、それでも進んで強くなりたい」
次に顔を上げたとき、その目には、怒りと悲しみが入り交じっていた。
「だったらもう、言葉だけじゃ決まらねえ」
ドームの内側から太い枝が迫り出し、想の足元へ伸びる。
想がその枝へ飛び乗ると、枝は一人でに動き出し五メートルほどの高さまで上がった。
足元から伸びた木を絡ませ、編み込み木の槍へと変形する。
巨大な広葉樹の枝へ足をかけ、木槍を構えた。
「俺が勝ったら、供養はやめろ」
木の槍の穂先が、繋へ向けられる。
「二度とこの家には近づくな。そう約束しろ」
「……家は、どうするつもりだい?」
「ぶち壊す。跡形もなく」
想は木の槍を強く握り締めた。
「兄貴が自分で決めたことを曲げられねえなら、俺にも俺の我が儘を押し通させろ」
こちらを見据える顔は、怒っているというより、泣くのを堪えているようだった。
(なんで、そんなに苦しい顔をして戦おうとしてるんだい?)
考えても分からない。想がなぜ、出会ったばかりの自分をここまで気遣うのか。
なぜ、こんなにも苦しそうな顔を向けるのか。
(キミの方が、苦しんできただろう)
本当なら、父親は想の父として、ずっと傍にいるはずだった。
自分がいたから――。
(だめだ。冬吾に言われただろ、僕。それは僕の責任じゃない)
サムズリングをなぞりながら、深呼吸をして、血の繋がった弟を見据えた。
「そうだね。戦おう」
三十年生きていれば、言葉だけでは届かない思いがあることも知っている。
互いの言葉を聞いても、譲れないものがあることも。
ならば、ぶつかり合いながら対話をすればいい。
繋は虚空から長杖を出現させ、構えた。




