第17話:傷の根源
海の残り香が、車内に漂う。
暖房は強めに入れている。
海水に濡れた服は少しずつ乾き始めていたが、ズボンの裾だけはまだ湿り、肌へ張りついていて少し気持ち悪い。
けれど、それも海で遊んだ余韻だと思えば不思議と嫌ではなかった。繋は魔法で乾かすこともせず、そのまま自然に任せることにした。
「僕はいいとして、二人は平気? 濡れたままだと気持ち悪くない?」
「これも海で遊んだ醍醐味じゃろ」
「俺も平気だ」
二人の答えに、繋はくすりと笑みをこぼした。
それから、北九州を越えた。
他愛のない会話に笑い声が広がる。繋が時間を見つけて焼いておいた菓子を三人で分け合い、一つひとつのやり取りが、新しい思い出となって積もっていく。
少し前まで、福岡へ向かっていることを意識するたび、繋の表情は強張っていた。
けれど今は、北九州の海ではしゃいだおかげか、心を占めていた不安も幾分か薄らいでいる。
冬吾は運転を続けながら、助手席へちらりと視線を向けた。
繋の長い髪は軽く拭いただけで、まだ毛先に湿り気が残っている。頬も冷たい海風に晒されたせいか、ほんのりと赤かった。
視線に気づいた繋が、屈託のない笑みを返す。
十六年前には、見ることのできなかった笑顔だった。
子どもの頃の繋も、笑わなかったわけではない。
だが、いつもどこかで周囲の顔色を窺っていた。
冬吾の前では気丈に振る舞い、悲しみや苦しみを感じさせまいと、いつも明るく笑っていた。
あの頃の冬吾が知っていたのは、繋が自分を守るために浮かべる笑顔だけだった。
奈良で再会してからも、そうだった。
繋は常に前線へ立ち、戦い、無理をして、傷つきながら冬吾たちを守ってきた。
穏やかな笑みを向けてくれても、それは誰かを安心させるためのもので、自分自身の喜びから生まれたものではなかった。
でも、今日は違った。
冬の海で、大の大人が少年のように冷たいと叫び、仕返しとばかりに水を蹴り返し、心から笑っていた。
ただ、それだけのことが冬吾には、たまらなく嬉しかった。
「お、煌夜くん、やっと寝たね」
繋が声を潜め、後部座席を覗き込む。
冬吾もバックミラーへ目を向けると、そこには煌夜は背もたれへ深く身体を預け、静かな寝息を立てていた。
長い間、責任者として気を張り続けてきたのだ。海ではしゃいで疲れたこともあり、常に張りつめていた糸が、ようやく緩んだらしい。
「よかった」
繋が安堵したように口元を緩める。
相変わらず優しい男だと冬吾が思っていると、その眼差しが今度は自分へ向けられた。
「僕のことが終わったら、少しでもいいから冬吾もゆっくり休もうね」
「……おう」
短く答えながら、冬吾は前を向いた。
本当に。
本当に、生きてくれてよかった。
そんな言葉が胸の奥から何度も込み上げ、涙になってあふれそうだった。
◇
目的地まで、残り十数キロ。
周囲の景色は、緩やかに変わり始めていた。
崩れた建物が増え、道路の至るところには、蔦の絡みついた車両が放置されている。窓ガラスは砕け、車体は雨風に晒されて錆びついていた。
大通りの一部は瓦礫で塞がれていた。
そのたびに三人は車を降り、冬吾の氷や煌夜の黒炎で瓦礫を崩し、繋も身体強化だけを使って撤去を手伝った。
やがて、車窓の向こうに公園の跡が見えてくる。
かつて子どもたちの遊び場だった場所には、錆びつき、壊れた遊具が墓標のように並んでいた。
「その公園、覚えとるわ」
冬吾が呟く。
「小学生の頃、二人で遊んだところじゃろ」
「そうそう。冬吾、あそこの鉄棒で逆上がりの練習をしてたよね」
「懐かしいのう」
「この道を真っ直ぐ行けば、学校だったよね」
繋は窓の外を見つめたまま言った。
「儂らが通っとった中学校じゃな」
「うん」
「寄っていくか?」
繋は少しだけ迷い、余裕が無くなった声で緩く首を横へ振った。
「……今日は、いいかな」
「そうか」
冬吾はそれ以上、何も言わなかった。
繋の指が、膝の上で固く組まれる。
見覚えのある景色が増えていく。
学校から帰る途中、冬吾と別れた交差点。
家に帰る時間を少しでも遅らせるため、一人で立ち寄った図書館。どの場所も荒れ果てていた。それでも、記憶の中に残る景色が現在の廃墟へ重なっていく。
指先へ、さらに力が入った。
少し前まで海で笑っていたことが、遠い昔の出来事のように思える。
切り替えろ。と繋は自分に言い聞かせる。
大丈夫だ。自分は強い。
これくらいなら耐えられる。
繋は胸の中で、何度もそう繰り返した。
「繋くん!」
後部座席から、煌夜の強い声が飛んできた。いつの間にか目を覚ましていたらしい。
繋は肩を跳ねさせ、ここではないどこかへ沈みかけていた意識を、車内へ引き戻した。
大丈夫だよ。
いつものように答えようとして、言葉を止める。
海で二人の手を取ったときも、同じだった。
助けなど必要ないと退けることだけが、強さではない。
「……少し、怖い」
繋は正直に答えた。言葉にした途端、心臓が強く脈打った。
「近づくほど、昔のことを思い出すんだ」
「繋……止めるか?」
冬吾が静かに尋ねた。
繋は窓の外を見つめる。実家までは、もう遠くない。
「ううん。今日は、行ってみたい」
「分かった。じゃが、途中で気が変わってもええからのう」
「うん」
繋は少しでも気持ちを奮い立たせようと、両手で頬を軽く叩いた。
乾いた音が、車内に響く。
もう一度前を向いた繋の目には、無理やり作ったような決意が宿っていた。
冬吾と煌夜は、その横顔を見つめる。
やめてもいい。
逃げてもいい。
そう何度伝えても、繋は自分を奮い立たせて前へ進もうとする。
冬吾は眉をひそめ、煌夜は奥歯を噛みしめながらも、今は何も言わなかった。
◇
「久しいのう……繋の家」
冬吾の覇気のない呟きと共に、ブレーキが踏まれた。
ランドクルーザーが、荒れ果てた住宅街の一角で停車する。
三人は車を降りた。
曇天の下、冷たい風が吹き抜けていく。
目の前にあるのは、二階建ての瀟洒な家だった。
この辺りは、比較的裕福な家庭が集まる住宅街だったと、冬吾は思い出す。
しかし今では外壁の一部が崩れ、窓ガラスも砕けている。屋根は傾き、庭には人の背丈に届きそうなほど雑草が伸びていた。
かつての面影は、ほとんど残っていない。
冬吾は、繋に助けられていじめがなくなり、少しずつ自分に自信を持てるようになった頃、何度もここまで繋を送り届けていた。
家から離れるときの繋は、いつも安心したような顔をしていた。
反対に、この家へ帰るときには、その目が恐怖に染まっていた。
当時は、厳しい家庭なのだと思っていた。
繋が何を恐れていたのか、理解できなかった。
もっと強引についていけばよかった。
母親や、ほかの大人へ相談すればよかった。
何度繰り返したか分からない後悔が、冬吾の胸を締めつける。
だが、今は自分を責めるときではない。
冬吾は、繋の隣へ並んだ。
繋は黙ったまま、自分が暮らしていた家を見つめている。
足は動かなかった。
頭の中に、記憶が浮かんでは消えていく。
玄関の扉。階段を上がった先にある、自分の部屋。
廊下に近づいてくる母親の足音。
父親が帰宅しても、繋のために開くことのなかった書斎の扉。
この家の中に、逃げられる場所はどこにもなかった。
「……冬吾、煌夜くん」
二人が同時に繋を見る。
「傍にいてくれる?」
声が震えていた事は自身が良く分かっていた。
あれだけ恐怖で動けない時は一緒に逃げてくれると言ってくれていたのに、結局言葉に出せたのは一緒に戦ってほしいという願いだった。
「お願いされんでも、そのつもりじゃ」
冬吾が力強く答える。
「ああ。俺もだ」
煌夜も続いた。
繋は二人の顔を見つめ、安堵したのかゆっくりと息を吸った。
そして、鉛になったかのような足を動かし歩き始める。二人は繋の両側へ並んで歩き始めた。
繋は門扉へ手を伸ばそうとして、錆びついた取っ手へ触れる直前で、指が止まった。微かに震えている手を片方の手で抑える。
冬吾は何も言わず、すぐ隣に立っている。煌夜も周囲への警戒を続けながら、繋から離れなかった。
繋はしばらく門扉を見つめたあと、意を決して取っ手を握る。
鈍い音を立て、錆びついた門が開いた。伸び放題の雑草を踏み分け、庭へ入る。冬吾と煌夜も、その後へ続いた。
玄関まで、ほんの数メートル。
「中へ入るのは危険そうだ」
煌夜が、傾いた屋根を見上げる。
「柱も相当傷んでいる。いつ崩れてもおかしくない」
「供養はどうする。庭でするか?」
冬吾が繋へ尋ねた。
返事はなかった。
繋はどこか遠くを見るような目をして、右手を持ち上げている。
何もない空間から、杖が現れ、指先が柄を握る。
「繋?」
家を取り囲むように、花弁を模した巨大な魔法陣が展開された。
淡い橙色の光が輝き、無数の花弁型の魔力が、魔法陣から吹き上がっていく。
修復魔法だ。
繋が何をしようとしているのか悟り、冬吾が背後からその身体を抱き締めた。
「待て! この家を綺麗にしてやる義理なんぞ、お前にはない!」
冬吾の言う通りだった。
それでも、直さなければならないと有りもしない脅迫概念が繋を襲う。家を直したいのは、両親のためなのか。それとも、自分のためなのか。元の姿へ戻せば、ここで起きたことまで綺麗な思い出に作り替えられると、どこかで期待しているのか。
自分でも分からない。
考えようとしても、思考が霧の向こうへ遠ざかっていく。
意識とは無関係に、身体だけが動いていた。
「お前はもう、十分すぎるほどあの二人に傷つけられたんじゃぞ!」
煌夜も繋の腕を掴み、杖を下ろさせようとする。
しかし、びくともしない。
身の危険を感じた繋の身体が、ほとんど反射的に身体強化を発動している。煌夜一人の力では、その腕を下ろすことができなかった。
それでも、このまま自ら傷口を開こうとする繋を放ってはおける訳がなかった。
冬吾と煌夜が視線を交わす。二人がかりで繋を抱え、この場所から連れ出そうとした、その瞬間だった。
地面が大きく隆起した。
「繋!」
冬吾が叫び声で、弾かれるように繋の瞳に光が戻る。
「……ッ!! 二人とも、離れて!」
次の瞬間、大地を突き破って太い根が飛び出した。
家を取り囲む修復術式へ、槍のように突き刺さる。
魔法陣に亀裂が走った。
さらに何本もの根が庭を割り、玄関前で絡まり合いながら、一本の巨大な樹木へ成長していく。
張り出した太い枝が家の軒先を突き破り、屋根瓦が激しい音を立てて崩れ落ちた。
同時に、繋の右腕へ地面から伸びた蔦が巻きつく。杖と指先を絡め取り、修復魔法の制御を強引に阻害した。
術式が砕かれ、集められていた魔力が、光の粒となって霧散した。
それでも繋の身体は反射的に動いた。
冬吾と煌夜だけを守るように、シャボン玉の防壁が展開される。
崩れた瓦礫が、その表面へぶつかって弾かれた。
「そんな家を直して、どうするつもりだ」
聞き覚えのある声だった。
その声に引かれ、繋の意識が急速に現実へ引き戻される。顔を上げる。巨大な樹木の枝、その上に一人の青年が立っていた。
ツーブロックの髪。
鋭い目。
そして、繋とよく似た目元。
埼玉で戦ったときと同じ、好戦的な不敵の笑みを浮かべている。
「君は……」
呼びかけようとして、繋は言葉を止めた。
右腕には、まだ蔦が絡みついており、繋は強引に腕を引き、身体強化を乗せた力で蔦を引きちぎった。解放された杖を握り直し、青年を見上げる。
「この間ぶりだな」
想は太い枝から飛び降り、地面へ降り立った。
「いや、改めて初めましてか」
繋と同じ色を宿した目が、真っ直ぐに向けられた。
想は、ゆっくりと繋を見据えた。
「兄貴」




