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『ゾンビだらけの世界でただ1人の魔法使い』  作者: mixtape
第5章:白熊ワンダーラスト

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第16話:冬の海

 北九州市へ入る頃には、空を覆う雲がいっそう低くなっていた。


 鉛色の雲の下、冬の海がどこまでも広がっている。


 陽光を失った水面は暗く、打ち寄せる波も冷たく沈んで見えた。夏の海のような華やかさはない。ただ灰色の空を映しながら、絶え間なく白い波頭を立てている。


 助手席からその景色を眺めていた繋が、小さく声を零した。


「あっ、海だ」


 ほんの独り言のつもりだった。


 けれど、その声音は思いのほか弾んでいた。


 冬吾は横目で繋を見る。


 窓の向こうへ顔を向けた繋の瞳は、先ほどまでとは違っていた。福岡へ近づくにつれて宿り始めた緊張が薄れ、純粋な好奇心が顔を覗かせている。


 それに気づいたのは、後部座席の煌夜も同じだった。


 福岡へ近づくにつれて強張っていた繋の顔が、海を見た一瞬だけ、年相応───いた見た目相応の無邪気さを取り戻していた。


「見たいのか?」


「ん?」


「海。近くで見たいんじゃないのか」


 尋ねられた繋は、しばらく瞬きを繰り返した。


 今は旅行の途中ではない。


 両親の供養へ向かい、実家と過去へ向き合うための道中だ。寄り道などしている場合ではないと考えたのだろう。


「いやいや、大丈夫。それよりも福岡へ――」


「白熊!」


 煌夜が後部座席から身を乗り出した。


「海に行くぞ!」


 冬吾はバックミラー越しに煌夜と目を合わせ、その提案の意味をすぐに察した。


「おう!」


 一秒も迷わず、力強くハンドルを切る。


「えっ、ちょっと待って。二人とも!?」


「善は急げじゃ!」


「そういう問題じゃなくて!」


 慌ててシートベルトを掴む繋を見て、煌夜が声を上げて笑った。


「諦めろ、繋くん。俺も白熊も、もう海へ行く気になっている」


「言い出したのは煌夜くんでしょ!」


「そうだったかな」


「そうだよ!」


 先ほどまで繋の過去を前に目を伏せていた男と、同一人物とは思えない。


 もっとも、冬吾も同じだった。


 鼻歌まで歌いながら、海岸へ続いているらしい脇道を進んでいく。


「冬吾、道は分かってるの?」


「海は見えとる。進めば着くじゃろ」


「まあ、そうだけどさあ。なんでいきなり……」


 自分の呟き一つで、ここまで話が進むとは思わなかった。


 二人が気を遣ってくれたのだろう。嬉しい反面、目的地まで変えさせてしまったことへの申し訳なさも込み上げてくる。


 すると、後部座席から身を乗り出した煌夜が、繋の横顔を覗き込んだ。口元には、彼にしては珍しい柔らかな笑みが浮かんでいる。


「繋くん。これは思い出作りってやつだ」


「急に!?」


「旅は行き当たりばったりというじゃろ?」


 その言葉も、こちらの都合などお構いなしに進路を決める強引さも、よく知る誰かを思わせた。


 セプネテスを旅していた頃の記憶が蘇る。


 犬歯を覗かせながら、似たような言葉を快活に言ってのけた魂の半身。


 その姿を思い出し、繋は苦笑した。


「……そうだね。これでこそ旅だよね」


 呆れたような声とは裏腹に、繋は楽しそうに笑っていた。


 その笑顔を見られただけで、寄り道を提案した意味はあった。


 冬吾と煌夜はバックミラー越しに視線を交わし、どちらからともなく口元を緩めた。


     ◇


 三十分ほど道に迷った末、三人は人影のない海岸へ辿り着いた。


 車を降りた途端、強い潮風が吹きつけてくる。


「寒っ……!」


 繋は長い髪を押さえ、思わず首を竦めた。


「そりゃ冬じゃけぇのう」


「……いや、これは本当に寒いな」


 三人は砂を踏みながら、波打ち際へ向かった。


 周辺にゾンビの気配はない。


 冬吾が念のため辺りを確かめている間、繋は海の前で足を止めた。


 灰色の水面を、静かに見つめる。


「海を見るのは、久しぶりか?」


 隣へ並んだ煌夜が尋ねた。


「夏ぶりだね。ヒカルさん、菊香ちゃんと三人で、一か月くらい祖父の家にいたんだ。僕の魔力が回復するまで、療養も兼ねてね」


 繋は目を閉じ、潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。


 まだ半年も経っていないはずなのに、ひどく遠い昔のことのように感じる。


「今度は、冬吾も煌夜くんも遊びに来てほしいな」


「お前に誘われたんなら、どこへでも行くぞ」


 冬吾は迷いなく答えた。


 相変わらず冬吾らしい返事に、繋は声を上げて笑った。


 だが、その笑い声が波音の向こうへ消えると、灰色の海の広さだけが三人の前に残った。


 過ぎ去った十六年も、この海のように、振り返っても果てが見えない気がした。


 胸の奥に、理由の分からない寂しさが込み上げてくる。


 冬吾は何も言わず、繋の隣へ立った。


 反対側には煌夜がいる。


 三人の前で、白い波が寄せては返していく。


 しばらく海を眺めていた繋だったが、やがて足元へ視線を落とした。


 波は届きそうで届かない場所を行き来し、濡れた砂の上に白い泡だけを残している。


 繋は何かを思いついたように瞬きをすると、突然、靴へ手を掛けた。


「繋?」


「せっかくだから、入ってみようかな」


「正気か?」


「足だけだよ」


「冬の海じゃぞ」


「分かってる、分かってる。だから足だけ」


 靴下まで脱いだ繋は、ズボンの裾を膝下まで捲り上げた。


 冷えた砂へ裸足を下ろし、恐る恐る波へ近づいていく。


 寄せてきた海水が爪先へ触れた瞬間、その身体が大きく跳ねた。


「冷たっ!」


「言わんこっちゃない!」


「想像してたより冷たい!」


 繋は慌てて後ろへ逃げた。


 しかし、濡れた砂に足を取られ、その場で危うく転びそうになる。


 冬吾が咄嗟に腕を伸ばしたが、繋はどうにか自分で体勢を立て直した。


 振り返った顔には、子どものような満面の笑みが浮かんでいる。


「二人も入ろうよ!」


「嫌じゃ。見とるだけで十分寒いわ」


「俺も遠慮しておく」


「三人で海に行くって言ったのに?」


「見るとは言うたが、入るとは言うとらん!」


「氷使いなのに?」


 挑発するような言葉とは裏腹に、繋は期待に満ちた目で冬吾を見ている。


 その顔を前に、冬吾が断れるはずもなかった。


「むむむ……」


 冬吾は難しい顔で腕を組んだあと、勢いよく靴を脱いだ。


「そこまで言うなら、付き合っちゃる!」


「やった!」


「ほら、煌夜。お前も参加しろ!」


「嫌なんだが!?」


 冬吾に背中を押され、繋から期待に満ちた目を向けられる。


 煌夜はしばらく抵抗していたものの、やがて諦めたように息を吐いた。


「……足だけだからな」


 念を押してから、自分で靴と靴下を脱ぐ。


 冷えた砂を踏んだだけで、「寒い!」と悲鳴を上げる煌夜を見て、繋は楽しそうに笑った。


 三人は揃ってズボンの裾を捲り、波打ち際へ並んだ。


「一斉に入るぞ」


「せえので行くんじゃ」


「うん」


 冬吾が二人の顔を確かめる。


「せえの!」


 三人は同時に海へ足を踏み入れた。


 直後、冬吾と煌夜の顔が凍りついた。


「つっめたぁ!?」


「これは、予想以上だな……!」


「冬吾、声が裏返ってるよ!」


「繋! お前、よう平気な顔しとったのう!」


「さっき僕も冷たいって言ったでしょ!」


 繋は腹を抱えて笑った。


 悔しくなった冬吾が、片足で海水を蹴り上げる。


 飛んできた飛沫をまともに浴び、繋が目を見開いた。


「冬吾!」


「冬の海へ引きずり込んだ仕返しじゃ!」


「それなら、言い出した煌夜くんにも!」


「待て、繋くん。話し合おう!」


 繋はいつか聞いた養父の言葉を思い出し、にやりと笑った。


「言葉で足りないなら、ぶつかり合えばいいらしいよ!」


「誰に教わったんだ、そんな乱暴な解決方法!」


 繋が海水を蹴り上げる。


 煌夜は咄嗟に身を翻したが、その代わり、飛沫が冬吾へ直撃した。


「なんでワシに当たるんじゃ!」


「食らえ、冬吾!」


「覚悟せぇ、繋!」


「二人とも、俺を挟んで争うな!」


 逃げる繋を、冬吾と煌夜が追いかける。


 冷たい水も、足裏へ張りつく砂も、今だけは気にならなかった。


 三十歳の男が三人、冬の海ではしゃいでいる。


 端から見れば、さぞ奇妙な光景だろう。


 けれど、見咎める者は誰もいない。


 聞こえるのは波の音と、三人の笑い声だけだった。


「待たんか、繋!」


「嫌だよ。捕まったら絶対、海に投げるつもりでしょ!」


「そんなことはせん!」


「今、煌夜くんと目配せしたよね?」


「気のせいだ!」


「繋くん、後ろだ!」


「え?」


 煌夜の声に、繋が振り返る。


 少し大きな波が、すぐそこまで迫っていた。


「わっ――!」


 逃げる間もなく、波が三人の足元へ打ち寄せる。


 膝近くまで海水に呑まれ、繋は大きく体勢を崩した。


 冬吾と煌夜が同時に手を伸ばす。


「繋!」


「繋くん!」


 二人の手が届く寸前、繋は両腕を広げ、どうにか自分の足で踏みとどまった。


 捲り上げていたズボンは、すっかり濡れてしまっていた。


 長い髪も潮風に乱れ、頬には冷たい飛沫が張りついている。


 ひどい有り様だった。


 繋は自分の姿を見下ろしたあと、堪えきれないように笑い始めた。


「あははっ……びしょ濡れだ」


 灰色の海を背に、明るく笑っている。


 引いていく波が繋の足元をさらい、その輪郭だけを広い海の中へ取り残していく。


 ほんの一瞬。


 波の中に立つその姿が、どこか遠くへ攫われてしまいそうに見えた。


 大切な者は、何の前触れもなく目の前から奪われる。


 冬吾も煌夜も、そのことを嫌というほど知っていた。


 また失うのではないか。


 目の前で笑っているこの人が、いつか自分たちの手の届かない場所へ行ってしまうのではないか。


 二人の胸を過ぎった恐怖を、繋は知らない。


 それでも、差し出された二つの手と、その向こうにある表情を見れば、何を恐れているのかは分かった。


「大丈夫だよ」


 安心させるための言葉を口にしてから、繋は一度止まった。


 大丈夫だから、手を借りなくてもいい。


 これまでなら、そう続けていただろう。


 だが、繋はもう一度、二人の手を見る。


 右には冬吾。


 左には煌夜。


 どちらの顔にも、隠しきれない不安があった。


 繋は両腕を伸ばし、その手を一つずつ取った。


「でも、二人とも離さないでね」


 口にした途端、三十にもなって何を言っているのだろうと、急に恥ずかしくなった。


「……なーんてね」


 照れ隠しの笑いで誤魔化そうとする。


 けれど、冬吾と煌夜は笑わなかった。


 二人は同時に、その手を強く握り返した。


「当たり前じゃ……」


「……ああ」


 硬く、真剣な声が返ってきた。


 三人の足元へ、再び波が寄せてくる。


 今度は誰も逃げなかった。


 冷たい海水に足を取られながら、それでも互いの手を握って立っていた。


 冬の海は暗く、空はどこまでも曇っている。


 これから向かう場所に、何が待っているのかも分からない。


 それでも、繋は一人ではなかった。


 帰ってきた地球の海で。


 失ってしまった十六年の先で。


 繋は二人の手を握ったまま、もう一度、明るく笑った。



いつも読んで頂いてありがとうございます!

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