第15話:弟の願い、叔父の願い
蛇ノ目の研究室を出ると、重い扉が背後で閉ざされた。
想は振り返らず、大股で白い通路を、一人で歩いていく。
離脱を認められたからといって、信用できるはずがない。あの女が何も仕掛けてこない保証など、どこにもなかった。
それでも、足を止めるつもりはない。
蛇ノ目がクローンであることは、想を含む五人の最高幹部全員が知っている。
だが、その事実を問題視している者は、ほとんどいなかった。
もともと、忠誠心で集まった者たちではない。
世界を滅茶苦茶にしたい者。
己の力を試す場所さえあればいい者。
蛇ノ目の研究によって利益を得る者。
互いの目的が一致しているから、手を組んでいるだけだ。
覚醒者たちも、想を除けば蛇ノ目と利害が一致しているにすぎない。あの女が本物であろうとクローンであろうと、自分たちの望みを叶えてくれる限り、どうでもよいのだろう。
想も、これまでは同じだった。
蛇ノ目。いや、クローンの方には、複雑ながらも恩がある。
成り行きは偶然だったが、実験の過程で能力者となり、覚醒者へ至るための力を与えられた。
それがどのような目的で差し出された手であっても、当時の想には力が欲しかった。
理不尽に抗える力を。
逆境に立ち向かえる力を。
腹に渦巻く怒りを、世界へ叩きつけるための力を。
けれど、繋が生きていると知ってしまった。
死んだと思っていた兄が、十六年の時を経て帰ってきた。
その事実を前にしてまで、蛇ノ目の側へ残ることはできなかった。
「想君」
通路の角を曲がったところで、落ち着いた声に呼び止められた。
想は反射的に足を止める。
壁際に、一人の男が立っていた。
黒に近い灰色の髪を後ろへ撫でつけ、仕立てのよいスーツを隙なく着こなしている。四十二歳という年齢に相応しい落ち着きと、容易には内側を読ませない理知的な眼差し。
逢坂巳影。
蛇ノ目雫の叔父にあたる男だった。
「何の用だ」
想は警戒を隠さず、鋭い目で問いかけた。
「話は終わったようだね」
「あんた、聞いてたのか?」
「この場所には、私なりの情報網があるんだ」
巳影は壁から背を離し、想へ向き直った。
「ここを出るのだろう? 私の力で、君を福岡まで移動させよう」
想は怪訝そうな顔をすぐに敵意むき出しの目に変える。
だが、巳影は臆することもなく、動じないまま話を続けた。
「今、君の兄は広島から福岡へ向かっている。正確な位置までは把握できていないが、君の目的地は福岡で間違いないはずだ」
「……どうして、それを知っている」
「私にも情報網があってね」
穏やかな言葉の裏に、何があるのか想はそれを探るように、巳影との間合いを離した。
無言のまま見据え、いつでも攻撃へ移れるよう、右手をわずかに開く。
足元には、庭園を構成する樹木の根が幾重にも張り巡らされている。意識を向ければ、すぐにでも操れる。
「警戒するのも無理はないが、これは互いに利がある」
利がある。
その言葉を聞いた瞬間、想の全身から殺気が溢れ出した。
「……何が狙いだ。俺を兄貴に近づけて、何をさせるつもりだ?」
「君に何かをさせるつもりはない」
巳影は想の殺気を真正面から受け止めながら、表情を変えなかった。
ただ、その瞳の奥には、これまで想が見たことのない疲労が滲んでいる。
「私は、取り戻したいだけだ」
「何を」
巳影は、すぐには答えなかった。
無機質な白い天井を見上げ、それから研究室のある方角へ目を向ける。
「私の姪を」
想の眉が寄った。先ほどまで対面していた女のことではない。
その程度のことは、巳影の声音から理解できた。
「あんた……」
「……私が取り戻したいのは、ここにいるクローンじゃない」
巳影は声を潜めた。周囲に人影はない。それでも、どこで誰に監視されているか分からない場所だ。長く話せる内容ではないのだろう。
「……その言い方だと、本物は別の所で生きてるってことか?」
「その問いへ、今は明確に答えられない。生きているという言葉が、あの子の状態を正しく表しているかも分からないんだ」
「回りくどいな」
「すまない。だが、今の君は、知らない方がいい」
想は巳影の顔を睨みつけた。
この男もまた、蛇ノ目と同じように腹の内を見せない。
大人ってやつは、いつもこうだ。
自分の都合で周りを振り回し、肝心なことは何も話そうとしない。
そう吐き捨てたくなった。
目の前の男が、本物の姪である雫を取り戻すために動いていようが、想にとってはどうでもよかった。
――そのはずだった。
けれど、巳影の表情に隠しきれない痛みを見つけ、胸の内で舌打ちをする。
てっきり巳影は、死んだ姪の面影をクローンへ重ね、その非道な実験へ手を貸しているのだと思っていた。だが、違ったらしい。本物がどこかにいると知りながら口を閉ざし、そのうえでクローンの協力者を演じていたのだ。
「とんだ狸だな」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
巳影は、曖昧な笑みで返した。
その笑みを見て、想は小さく舌打ちする。
戦闘時以外の自分の甘さが、嫌になった。
「それで、俺を福岡へ送る代わりに、何をさせたい」
「対価を求めるつもりはない」
「信用できるか。助ける理由がねえだろ」
「あるとも」
巳影は静かに答えた。
「君は、ここに残るべき人間ではない」
「俺の何を知ってる」
「少なくとも、君が彼らとは違うことは知っている」
空中庭園に集まった最高幹部たち。
己の欲望のためなら、世界が壊れることさえ厭わない者たち。
想とて、善人を名乗れるような生き方はしていない。蛇ノ目の側に立ち、彼女が何をしているのか知りながら、力を貸してきた。
それでも、彼らと同じつもりはなかった。
あくまで想がこの手で下したのは、自分へ向かってくる者だけだ。他の覚醒者のように殺しを楽しんだり、有り余る力を無闇に振るったりはしなかった。
「……勝手に分かったような口を利くな」
「気に障ったなら謝ろう」
巳影は素直に頭を下げた。取り繕った様子はない。
想は毒気を抜かれたように、開いていた右手を下ろした。
「ただし、厚かましいことを承知の上で、一つ頼みたいことがある」
やっぱり対価があるんじゃねえか。と内心毒づいていると巳影は察していると言わんばかりに言葉を続けた。
「強制するつもりはない。君が断ったとしても、福岡へは送る。だからもし──」
巳影はそこで言葉を切った。悩むように視線を彷徨わせ、そして意を決して想の目を見た。想も巳影の目を、見つめ返す。
それは懇願にも似た。もしくは一筋の光へ縋るかのような感情が瞳の奥底から見えた。
「……もし可能なら、君の兄に、力を貸してもらえないか頼んでほしい」
「兄貴に? ……何をさせる気だ」
「本物の雫を取り戻すため、手を貸してほしい」
想は目を伏せた。
自分が異能へ目覚めるきっかけを作ったのは、偽物の蛇ノ目だ。
しかし、地獄のようなゾンビとの殺し合いの果てに覚醒へ至ったことを考えれば、恩はあれど別に感謝することなどなかった。
なら、母ならどうする。
きっと、自分にできることがあるのなら、力を貸すだろう。
兄はどうだろうか。
初対面でさえ手を伸ばしてくれた、あの優しい兄なら。
――きっと、助けるのかもしれない。
「……俺からは、約束できねえ」
「そうか」
「兄貴が何を選ぶかは、兄貴が決めることだ。それに……」
想の声が、僅かに揺らいだ。
「俺たち兄弟は、そんなに単純じゃない」
死んだと思っていた兄。
幼い頃、一度も会うことができなかった人。
母親が亡くなったあと、想は父親への怒りと共に、何度もその存在を考えた。
自分とは違い、父親と共に暮らしていた兄。
選ばれたのは、兄の方だと思っていた。
父親が自分たちのもとへ戻らなかったのは、あちらに繋がいたからではないか。
自分と母を捨てさせたのは、兄の存在ではないか。
そんな身勝手な怒りを、会ったこともない繋へ向けたこともある。
けれど、想は知ってしまった。
父親と共に暮らしていたからといって、繋が愛されていたわけではない。
繋は母親から日常的に暴力を受け、尊厳を奪われ続けていた。
そして父親は、同じ家にいながら繋を顧みなかった。
守ることも、救い出すこともせず、母親による虐待を知ろうともしなかった。
繋は選ばれてなどいなかった。
すぐそばに父親がいるにもかかわらず、助けを求めることさえできない場所へ置き去りにされていた。
それを知ったとき、幼い想は吐いた。
何も知らず、父親に選ばれた子どもなのだと兄を恨んでいた。
けれど、その頃の繋は、子ども一人では逃げ出せない場所で、大人たちの身勝手さを一身に受けていた。
そのうえ、想は父親が母へ電話をかけていたことも知っている。
――君が許してくれるなら、繋を連れてきてもいいだろうか。
――今さらだと分かっている。けれど今度こそ、あの子の父親になりたい。
あまりにも遅すぎる言葉だった。
繋が傷つけられている間、何もせずにいた男が、すべてを失いかけてからようやく口にした願い。
それが本心だったのか。
本当に繋を救おうとしていたのか。
それとも、罪悪感から逃れるために、父親らしいことをしようとしただけなのか。
想には分からない。
確かなのは、その願いが叶わなかったということだけだ。
父親が繋を連れてくることはなかった。
兄弟が同じ家で暮らす未来も、顔を合わせて言葉を交わす未来も訪れなかった。
その直後、繋はこの世界からいなくなった。
事故によって亡くなったと報じられ、父親の後悔を知らないまま、弟が本当は会いたかったことも知らないまま、兄は死んだ。
少なくとも、想はずっとそう思っていた。
だからこそ、埼玉で繋を見たとき、すぐには信じられなかった。
死人が目の前に現れたような気がした。
それだけではない。
実際に出会った繋は、想が長い間思い描いていた人間とは、まるで違っていた。
憎しみで。
怒りで。
世界の理不尽を呪うような。
自分と同じように、怒り狂う存在だと思っていた。
けれど、実際は違った。
深く傷つけられた者だけが持つ危うさを抱えながら、それでも他人へ手を伸ばそうとする人だった。
戦いの最中でさえ、想を倒そうとはしなかった。
敵である自分の怒りを否定せず、その奥にあるものへ手を伸ばしてきた。
その姿を見て、似ていると感じた。
同じ父によって人生を狂わされながら、それでも誰かを憎みきることのできない人なのかもしれない。
自分と同じなのかもしれない。
そう思うほど、怖くなった。
「兄貴は、俺のことを憎んでるかもしれない」
「なぜ、そう思う?」
「俺がいるからだ」
想は自嘲するように笑った。
「俺は、親父が別の女との間に作った子どもだ。兄貴にとっては、親父の裏切りそのものだろ」
「それは君の父親が負うべき責任だ。君が背負うことではない」
巳影は考える素振りも無く否定した。
「俺がどう思うかと、兄貴がどう思うかは別だ」
想は言い切った。
繋が父親から愛されていなかったのなら、父親が別の女性との間に作った自分を見て、何も感じないはずがない。
「それに、親父は俺の母さんへ言ったんだ。今度こそ、兄貴の父親になりたいって」
想は拳を固く握った。
「兄貴は、そんなこと知らねえ。自分は最後まで捨てられたままだと思ってるはずだ。けど俺は、親父の最後の言葉を知っている」
もし、父親がもっと早く決断していれば。
兄が自分と母と共に暮らす未来も、あったのかもしれない。
だが、繋はその可能性さえ知らず、今も過去に苛まれているはずだ。
自分だけが父親の後悔を知っていることさえ、想には罪のように感じられた。
「埼玉じゃ、兄貴に攻撃もした。今までだって、あの女が何をしてるか知りながら、ここにいた」
蛇ノ目の実験へ、直接手を下してはいない。
そんな言い訳に意味はない。
止めることもせず、与えられた力を使ってきた。
繋から憎まれる理由なら、いくらでもある。
「だから、俺が頼んだところで、話を聞いてくれるかどうか……」
「君の兄は、君を殺すような人間なのか?」
「分からねえよ」
吐き捨てるように答えた。
だが、本当は分かっている。
兄はきっと、殺さない。
埼玉で向けられた眼差しを思い出せば、嫌でも分かってしまう。
それでも、もし憎まれていたなら。
もし、自分の存在が兄の傷を抉るだけなら。
「兄貴になら、殺されてもいい」
小さな呟きが、白い通路へ落ちた。
巳影の表情から、微かな柔らかさが消えた。
「それは、君が決めていいことじゃない」
低く、厳しい声だった。
想は酷く狼狽し、顔を上げる。
「殺されても構わないなどと、一人で結論を出すな。君がそう望んだところで、君を殺す側が何を背負うことになるのか、考えてみなさい」
「……俺は」
「兄に憎まれているかもしれない。自分の存在が傷つけるかもしれない。そう考えて、先に自分を罰しているだけじゃないのかい?」
想は何も言い返せなかった。
目の前の男に、兄と自分の事情がすべて分かるはずはない。
それなのに、その言葉は胸の奥へ深く突き刺さった。
「君の兄が何を思っているのかは、君には分からない」
「だったら……だったら、どうしろっていうんだ」
「話をしてみなさい」
巳影は静かに告げた。
「言葉で足りないのなら、ぶつかり合ってみるといい」
「……なっ!?」
「怒りがあるなら、本人へ伝えればいい。聞きたいことがあるなら、直接尋ねなさい。殴り合わなければ分からないというのなら、それも一つの方法だろう」
理知的な外見からは、あまりにも似つかわしくない答えだった。
想は呆気に取られたあと、堪えきれずに小さく笑った。
「なんだそれ。あんた、意外と硬派だよな」
「そうだろうか」
「もっと、話し合いで穏便に解決しろとか言うのかと思ってたぜ」
「もちろん、できるならその方がいい」
巳影も、僅かに笑みを返す。
「だが、煮詰まった感情が、整った言葉だけで片づくとも思っていない。ただし、殺すためではない。互いを知り、生きて戻るためにぶつかりなさい」
「……大人らしいんだか、そうじゃねえんだか分からねえな」
「四十二年も生きていれば、綺麗な言葉だけではどうにもならないことも分かってくる」
「そういうもんか」
「そういうものだよ」
想はしばらく黙り込み、やがて顔を上げた。
繋が自分を憎んでいるのかは分からない。
自分もまた、繋へ向けてきた怒りを、まだ完全には整理できていなかった。
兄と呼びたい。
それでも、今さら弟として受け入れてもらえるとは思えない。
近づきたいのに、互いの傷へ触れるのが怖い。
ならば、そのすべてを抱えたまま、会いに行くしかない。
「ああ、そうだな」
想は肩の力を抜くように、息を吐いた。
「ぶつかってみる」
「それがいい」
「本物の蛇ノ目の件も、兄貴には伝える。ただ、手を貸すかどうかは約束できねえぞ」
「それで十分だ。ありがとう」
巳影は深く頭を下げた。
想はその姿を見つめたあと、居心地が悪そうに視線を逸らす。
「……礼を言うのは、まだ早いだろ」
「それもそうだね」
巳影は薄く笑うと身体を起こし、想から数歩離れた。
「これから、私の異能で君と福岡にある物体の位置を入れ替える」
「随分と簡単に言うんだな」
「君が想像しているほど、使い勝手のよい力ではないよ。福岡側の位置は把握しているが、正確に君のお兄さんのもとへ送れるわけでもない」
「福岡へ行けるだけで十分だ」
想は巳影へ背を向けかけ、ふと足を止めた。
「あんたはどうする」
「私はここへ残る」
「バレたら殺されるぞ」
「そうならないために、長い間、協力者を演じてきた」
巳影は穏やかな表情を崩さない。
「雫を取り戻すまでは、死ぬつもりもない」
「……そうか」
想は前へ向き直った。
この先に、繋がいる。死んだと思っていた兄。
憎んだことも、会いたいと願ったこともある人。
拒絶されるかもしれない。怒りをぶつけられるかもしれない。
それでも、今度こそ自分の口で確かめる。
「行ってくる」
「ああ。気をつけて」
巳影が右手を上げた。
一瞬、足元が揺らいだ。
床の感触が消え、視界を埋めていた白い通路が掻き消える。
次の瞬間、想の足が固いアスファルトを踏み締めた。
乾いた風が、髪を揺らす。
背後にあったはずの空中庭園は、もうどこにもない。
崩れた建物。長く放置された道路。
遠くに見える、荒廃した福岡の街並み。
振り返れば、想が立っていた場所には、小さな瓦礫が一つ転がっていた。
空中庭園にいた想と、福岡にあった瓦礫。
二つの位置が、巳影の異能によって入れ替えられたのだ。
想は息を吐き、顔を上げる。
この街の。父の家に恐らく兄は向かっている。
「福岡にわざわざ来るってことは実家に帰るってことだよな……」
白い息を吐く。
「なんでだよ……兄貴」
「なんで、自分を傷つけた人間の所の家に行くんだよ……」
想は目を強く閉じる。
十六年前、一度も会えないまま失った人。
悲しみも、後悔も、言葉にならない願いもある。
それらを全部、自分の口で伝えなければならない。
想は荒れ果てた道へ、一歩を踏み出した。
兄に会いに行くために。




