第4話:兄弟盃
東京での情報共有を終えたあと、繋はひとまず城の中にある自室へ戻っていた。
(ヒカルさん、菊香ちゃん、大丈夫かな……いや、二人とも強くなってる……もう僕がいなくても大丈夫だろう……)
そう思えるのは喜ばしいことのはずなのに、心がチクリと刺すように痛んで、繋はそれを見ないふりをする。
静まり返った部屋の中で、繋はぽすん、とベッドに背を預ける。
そのまま沈み込むように全身の力を抜いた。
窓の外は、夕暮れに呑まれかけていた。曇った空が鈍い灰色を広げていて、どこまでも重たい。東京拠点の上空に浮かぶ空中要塞は、ここからでは見えなかった。
落ちていく夕日をぼんやり眺めながら、右手を天井へ向かって持ち上げる。 繋の右手の親指。窓から差し込んだ夕陽が銀色の輪に当たり、きらりと小さく反射した。
繋は、その指輪を、親指にはまったサムズリングをじっと見つめた。
福岡にある実家。
頭に浮かんだその言葉をなぞるだけで、繋の身体がわずかに強張る。
胸の内側から湧き出る冷たさを振り払うように、人差し指でリングの縁をなぞった。
このリングを見れば思い出せる。
遠くにいても、スヴィグルは自分の傍にいることを。
だからこそ、指先の震えが全身へ広がりきる前に、どうにか息を繋いでいられた。
「それに、地球には冬吾もいる。……けど、それでも身体は震えてるんだよなあ」
身体が震える。記憶が震える。
喉の奥が詰まり、浅くなった呼吸が何度も途切れる。
あそこにあるのは、思い出したくもないつらい感覚ばかり。
言い争う声。フラッシュ音。閉ざされた扉。
息を殺す癖。自分が悪いのだと思い込むまでに刷り込まれた、長い長い時間。
「……それでも、行かなきゃ」
独り言は、自分でも笑ってしまいそうなくらいひどく弱々しくて、言い切ったあとで繋は口元を歪めた。
でも、行くべきだということは分かっている。
自分の魔法をもっと強くするには、もっと心の根っこの部分へ潜らなければならない。
来年四月までの猶予。その間に押し寄せるであろうゾンビの群れ。空に浮かぶ敵の本拠地。どれももう、技術的な強化でどうにかなる話じゃない。
魔法は生命エネルギーを消費して奇跡を引き起こす力。
その根源が強ければ強いほど、魔法の神髄は深くなる。
それは、願いであり、誓い。
「ぼくの願い……」
愛されているか確かめたくて、無理やり魔力回路を身に宿したあの日。
けれど結果は駄目で、絶望と痛みに苛まれた。
「でも、ヒョードルと本当の親子になれた日」
あの日の願いは打ち砕かれた。 なら、今の自分に残っている願いは何なのだろう。
供養をすることで、何かを見つけられるのだろうか。
そして僕は、見つめることができるのか。
過去を。痛みを。愛されていなかったという事実を。
今度は目を逸らさず、受け止めることができるのだろうか。
心が鉛のように重くなる。それでも、仲間の顔を思い浮かべるたび、止まりかけた足を無理やり前へ押し出した。
「死なせたくない、みんな。菊香ちゃんとヒカルさんだけじゃない、冬吾もシグルさんも、誠一君や晴斗くん、ユミルちゃんも、煌夜くんも、春臣くんも、皐月さんも」
「みんな。みんな──死なせたくない」
繋は手の甲で顔を覆う。
不安を遮るように、視界を塞ぐ。
その時、不意に部屋の扉が軽く叩かれた。
「繋~! 入るぞ!!」
返事を待つ気なんて最初からないみたいに、扉がガチャリと開く。
顔を出したのは冬吾だった。いつも通りの遠慮のなさに、繋は思わず口元を緩める。
「ノックの意味ある?」
「あるある。一応、礼儀じゃ」
「一応なんだ!?」
冬吾は軽口を叩きながら部屋へ入り、机の上に置かれたままの鞄と、ベッドに座り込んだままの繋を見て、状況をひと目で察したらしかった。
いつもの調子を崩さないまま、それでも少しだけ声のトーンを落として、冬吾が口を開く。
「なあ……」
「ん~、どうしたんだい?」
「やっぱり、福岡に行くのやめんか?」
どさり、と空いたベッドの端に冬吾が腰を下ろす。
重量感のある体格のせいでスプリングが軋み、その反動で繋の身体が少しだけ浮いた。繋は口をわずかに開けて「え?」と漏らす。冬吾もそのまま、倒れ込むように背中をベッドへ預けた。
そういえば昔、冬吾の家に泊まりに行った時も、同じ布団に転がってこうして天井を見つめながら、他愛のない話を延々としていたっけ。
そんな懐かしさに浸りながら、繋はころんと顔だけを向ける。
――ううん、行くよ。
そう言おうとしたのに、言葉が喉に引っかかるより先に、冬吾の言葉で全部吹き飛んでしまう。
「ワシはな、繋――虐待を受けてたこと、その身体に受けた精神的苦痛も含めて全部知っとる……」
その一言で、部屋の空気が静かに凍りついた。
◇
繋は固まった。
瞳が揺れる。喉の奥が震える。表情を凍らせたまま、ぴくりとも動けない。
なんで知ってるの、と問いかけようとして――やめた。
繋は目を閉じる。暗闇の中へ、心をゆっくり沈めていく。
(海に転落した事故だ……。あのあとニュースでも流れただろうし、警察の事情聴取もあったはずだ。そこで……冬吾にも僕の家のことが分かったんだろうな……)
虐待のことも。あの、他所の男を使って踏みにじられたことも。
報道されていたのなら、冬吾が知らないはずがない。
そこまで考えて、繋の呼吸が一度止まる。
別に今さら、自分が汚れているだとか、穢れているだとか、そんなふうには思わない。
もう子どもでもない。中身は三十歳だ。あれは自分の価値を損なうものじゃないと、頭では分かっている。
けれど。
それを知った冬吾が、自分をどう見ているのか。
そのことだけが、胸の奥に小さな棘みたいに引っかかった。
途端に身体が震え出す。まずい。思考を切り替えないと。
そう思って、閉じたまぶたにぎゅっと力を込めた――その時だった。
不意に、右手が温かくなる。
かさついた大きな手が、繋の右手をぎゅっと握っていた。
その手の主を確かめるように目を開ける。
けれど冬吾は何も言わず、ただ天井へ視線を向けたままだった。
そして次の瞬間、握る力がさらに強くなる。
「……あ」
その握った手から伝わる熱は、慰めるというより、ずっと傍にいることも、その不安ごと受け止めることも、黙ったまま伝えてくるようだった。
「……ははっ……なんか、懐かしいね」
「小学生の頃から、こうやって、どっちかが不安な時とか、大変な時とか、手を握り合ってたよね……って、中身三十のおじさんが何やってんだって感じだけどさ」
自嘲気味に笑うが、冬吾は何も言わない。
ただ、握った手を放さない。それだけで充分だった。
繋は小さく息を吐く。こわばっていた心臓が、少しだけ和らいでいく。
その温もりに縋るように指先へ力を返し、繋は一拍置いて口を開いた。
「……でも、行かなきゃ……僕は、みんなを死なせたくない……」
だから、今以上に強くならないと。
言い切ったはずの語尾だけが、かすかに揺れた。
「……………………うむ」
間の空いた返事。
納得したわけではないのだと、そのたった一言で分かった。
それでも止めずに受け取ってくれたことが、かえって冬吾らしい。
繋は「あは」と小さく笑った。
いや、笑ったというより、張りつめていた肩がわずかに落ちて、そこから空気が漏れただけみたいな声だった。
冬吾はすぐには言葉を続けなかった。
薄暗い天井を見つめたまま、一度だけ深く息を吐く。
冬吾の中で言葉を選んでいるのだ。
気休めでも綺麗事でもなく、繋に届く言葉を冬吾は探す。
やがて、低く落ち着いた声が静かに響いた。
「……繋、ワシはな、ずっとお前に救われてきた」
繋はわずかに目を伏せる。指先が冬吾の手の中でかすかに動いた。
「……そんなことないよ。それは僕もだ」
冬吾がいたから、あのつらい日々をやり過ごすことができた。我慢することができた。
心が完全に壊れることもなく、自分でいられた。
「それは、ワシもじゃ。小学生の頃、ずっといじめられとったからの」
臆病で、陰気で、体が大きくて、力が強くて、方言がきつくて。
砂だらけで校庭に蹲る自分。遠巻きに立つ子どもたち。
泣きべそをかいた自分の前に、繋はずかずかと割って入っていった。
他の子供が止める間もなく拳が飛んで、上級生が尻もちをつき、繋はその前に立ったまま一歩も引かなかった。肩で息をしながら睨みつける横顔は、あの年頃の子どものものとは思えなかったなと、ふと過去を思い出す。
「なら、お互い様だ」
そう笑って言う繋に、冬吾はそんなことはないと言いたかった。
何がお互い様かと。
いつも守ってくれたのはお前だった。
いつも手を引っ張ってくれたのはお前だった。
冬吾がつらい時、繋は誰より苦しい状況にいたはずなのに、それでも笑って傍にいてくれたのは誰だ。
でも、この男は、そんなことないと笑うのだ。
現に今も。
だから冬吾は、約束する。
遠い昔に交わした誓いを、ここで改めて。
「ワシは絶対に、お前の手を離さんからな」
繋はぱちりと瞬きをしたまま、しばらく言葉を失った。
ついこの間、遠い世界の自分の半身にも、まったく似たようなことを言われたばかりだったからだ。
「どうしたんじゃ? そんな目を丸くして」
冬吾はきょとんと首を傾げる。
繋は口元に小さな笑みを浮かべて「実はね」と話した。
遠い世界で、ただの友人から、魂の契りを交わすほどの存在になった男のことを。
そして、その彼から、一人で立ち向かう時も必ず心にいると言われたのだと。
それを聞いた冬吾は、ぴこん、と頭の上に電球が灯ったみたいな顔をした。
「ん? なんだいその顔?」
繋がくすりと笑うと、冬吾はおもむろにがばりと起き上がり、そのままダッシュで部屋を飛び出していく。
「え、ちょ、冬吾!?」
あまりの突然さに、繋はぽかんと口を開けたまま固まった。ばたばたと落ち着きのない足音が部屋の外から聞こえてくる。
何を思いついたのかと瞬きをしているうちに、その足音はまたすぐこちらへ戻ってきた。
そして、ほどなくして――
「待たせたの!!」
冬吾が勢いよく戻ってきた。
両手には酒瓶と盃、ではなく小皿が二枚。ずざーっと滑り込みそうな勢いで部屋へ飛び込んでくる。
「繋!!」
どん、と大きな声が響く。
「ワシとも兄弟盃を交わすぞ!」
有無を言わせない勢いで、ふんす、と鼻を鳴らす様はまるで大熊のようだった。
そんな熊みたいな図体になった幼馴染が、小皿をぐいっと差し出してきたのだった。
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