第6話:父性
※家庭内暴力をほのめかす描写あるため注意
2026/7/17 大改稿版投稿
繋の口から両親のことが出た途端、皐月の脳裏に十六年前の記憶がフラッシュバックした。
あの日、ベンチで隣に座っていた繋を思い出す。
世界の終わりのような気分で項垂れていた自分に、弁当箱を差し出しながら「どうぞ」と笑っていた顔。
「大丈夫ですか」と、子供らしからぬ声音で気遣ってきた顔。
自分のほうがよほど助けを必要としていたはずなのに、他人のことばかり見ていた、優しくて壊れかけていた子供の顔を。
◇
(思い出すだけで胸糞悪くなるばい)
皐月の喉の奥で、低い熱が燻った。
胸糞悪い――その感情は、単に彼の両親に対する、同じ子を持つ者としての嫌悪だけではない。
怒りだ。
やり場のない怒り。
あの時、自分はこの子から貰うだけ貰った。生きる気力も、未来も、全部。 それなのに、繋が抱えていた問題には、露ほども気づけなかった。
後になって、あの残酷なニュースを見て絶望した。
それから十六年。二十六歳で繋と出会い、四十二歳になるまで、皐月は貰った命を無駄にしないよう、何としてでも生き延びてきた。ゾンビパンデミックを越え、この異世界じみた現実も越えて、それでも生きてきた。
そして、小さな奇跡が起きた。
こんな世の中で、皐月はもう一度、繋を見つけた。
少年と青年の狭間にいるその姿は、あの時の君が生きていたら、きっとこうなっていただろうと思わせるものだった。
ほんとうは、すぐにでも再会したかった。
重すぎる役目なんて放り出して、君に会いに行きたかった。
でも、それは世界が許さなかった。
そうしてようやく再会できた君は、中学生の頃から何も変わっていなかった。
見た目の話じゃない。中身だ。
終末世界だの、スタンピードだの、覚醒者だの。そんな常識外れの言葉が並ぶ世界になってしまっても、繋の本質だけは少しも変わらない。
いや、変われなかったのかもしれない。
人に優しすぎる子供は、大抵、自分に残酷だ。
皐月はそれを知っていた。
だからこそ、腹が立つ。
どうして死にかけたというのに、何でもない顔で笑うのか。
どうして昔話でもするみたいに、自分の両親の死を語れるのか。
どうして今も変わらず、誰かを救えてしまうのか。
相も変わらず、春の風みたいな温かさを感じさせる笑顔を向けてくる。その優しさは、むしろ昔よりひどくなっているとさえ思う。
ふざけるな、とすら思った。
もう誰かを救う必要なんてない。皐月は心の底から、そう思っている。
皐月はぎり、と奥歯を噛み締めた。
(そげん甘かことば言えるくらいの力さえ、俺にあれば)
繋がいなければ戦況は変えられない。その現実は、嫌というほど分かっている。
今この場にいる誰よりも、あの青年の力が必要だ。彼がいなければ崩せない局面があり、彼だからこそ救える命がある。東京で情報を集めていた頃から、その異常さも希少さも何度も耳にしてきた。実際に行動を共にすれば、なおさら嫌でも理解させられる。
繋は要だ。
戦場の流れをひっくり返す切り札で、希望で、誰もが無意識に頼ってしまう中心だ。
だからこそ、それがたまらなく気に食わなかった。
頼もしいと思うたびに苛立つ。助かると思うたびに、同じだけ危うさを覚える。
この子がおらんとどうにもならん――その現実そのものが、腹立たしい。
繋個人に怒っているわけではない。
むしろ逆だ。怒りの矛先は、自分自身にも向いていた。
あの時も救えなかった。
事情に気づけなかったわけではない。
痩せた顔色、時折見せる妙な諦め、子供らしからぬ気遣い。今ならいくらでも拾える違和感が、あの頃の自分には「強い子だ」と映ってしまっていた。
大人のくせに。
救われた側のくせに。
自分は何を見ていたのか。
もし、もう少し踏み込めていたなら。
もし、もっと早く気づけていたなら。
あの日の結末は違っていたんじゃないか。
そんな後悔は、何十年経っても消えない。胸の底に沈殿して、再会した今になってまた泥のように掻き回されている。
ようやく生きていたと知れたその子は、今度は世界の終わりみたいな地獄の真ん中に立っている。
神様だか運命だか知らないが、あまりにも趣味が悪い。
昔からそうだった。 この子は、自分のことを後回しにする。自分がどれだけ苦しい立場にいようが、先に他人を見てしまう。助けを求める前に、助ける側へ回ろうとしてしまう。
何ひとつ変わっていないその性根が、嬉しくて、どうしようもなく苦しかった。
皐月は想像するだけで胃が軋んだ。
君の父親の代わりとして守りたいと思う。友人として、もうこれ以上傷ついてほしくないとも思う。
なのに現実は、その真逆を強いてくる。
守るべき相手を最前線に立たせなければならない。止めたいのに止められない。休ませたいのに休ませる余裕がない。もう背負うなと言いたいのに、どうか背負ってくれと状況が迫ってくる。
そんな理不尽に歯噛みしながら、皐月はふと後ろへ視線をやった。
肩越しに、背中の繋へちらりと目をやる。隣で歩く煌夜と楽しそうに談笑する姿を見て、ああ、やっぱり戦わせたくないと強く思う。
(安全な場所に閉じこめとければよかとやけど)
一瞬、そんなことを思う。だが、この子なら壁を壊してでも自分達を助けに来るだろうと容易に想像できて、皐月はくっくっと小さく笑いを零した。
(でも、それでも、っておいちゃんは思うったい)
君が戦わないといけない選択を、自分だけは外したいと。
皐月は息を吐いた。吐いたはずの息が、妙に熱い。
「ほんっと……無茶ばっかしよるっちゃんねぇ」
ぽつりと漏れた声は、自分でも驚くほど低かった。
「ん? 皐月さん、何か言いました?」
背中から、繋がきょとんとした声を返す。
「いや、なんもなかよ」
軽く笑って短く返しながら、皐月は視線を前へ戻す。
これ以上口を開けば、余計なことまで言ってしまいそうだった。
――もう誰かのために戦わなくていい。
――少しは誰かに寄りかかれ。
――助ける側ばかりに回るな。
――おまえがおらんごとなったら、悲しかとよ。
そんな言葉が、喉元までせり上がっている。
だが、今言うべきではない。こんな戦場の只中で言ったところで、繋を困らせるだけだ。あの子はきっと、困ったように笑って、それでも前に出る。そういう子だと知っている。
知っているからこそ、歯痒い。
しかも皐月の中にあるのは、同情なんて綺麗なものだけじゃない。
救われた恩がある。
守れなかった悔いがある。
再会できた安堵がある。
また失うかもしれない恐怖がある。
その全部がないまぜになって、重く沈んでいる。
皆が繋の強さを信じる。
皐月も、もちろん信じている。信じているから戦えるし、生き残れる可能性も上がる。
だが、それとこれとは別だ。
強いことと、傷つかないことは違う。
戦えることと、戦わせていいことは違う。
皐月は繋を支える手に、じわりと力を込めた。
爪が掌に食い込む感覚だけが、どうにか感情を外へ溢れさせずに留めてくれる。
せめて今度こそ。
今度こそ、この優しい友人を守り抜きたい。
たとえ繋が誰より強くても。
たとえ繋が最前線に立つしかなくても。
その背中に全部を押しつけるような真似だけは、絶対にしたくなかった。
この子に世界を救わせるのではなく、この子が安心して暮らせる世界にしたい。
その思いだけが、皐月の胸の奥で静かに、けれど激しく燃えていた。
そして、胸の内で吐き捨てるようにそう呟いた、その時だった。
まるで、その願いを嘲笑うように、前方の空気がひどく張りつめた気がした。
――ドガンッ!!
地面そのものが爆ぜたような衝撃が、繋たちを足元から突き上げた。
「ッ!?」
足元が跳ねる。ひび割れた道路が縦に裂け、土とアスファルトの破片が宙へ舞い上がる。兵士の何人かが悲鳴を上げ、後方の戦車が急停止した。耳がきんと鳴る。衝撃波が頬を打ち、繋は咄嗟に腕で顔を庇った。
視界が土煙で茶色く濁る。
息を吸えば、砂と硝煙の匂いが喉を刺した。
「繋っ!」
「うぇッ?」
煌夜の声と同時に、ぐいと腕を引かれる。体勢を崩しかけた繋は、そのまま煌夜に庇われる形で一歩後ろへ下がった。反対側では皐月が、鋭い目で前方を睨んでいる。
兵士たちも一瞬の混乱から立て直し、銃口を土煙の中心へ向けた。
張りつめた静寂が、その場を満たす。
土煙の向こうに、何かがいる。
ひとつ、ゆらりと立ち上がる輪郭が見えた。
ただそこにいるだけなのに、空気が変わる。逆立つ産毛が、土煙の奥にいる怪物の放つプレッシャーを敏感に感じ取っていた。
皐月が低く呟く。
「ちっ……こんなタイミングで来たとね……!!」
その声に、いつもの飄々とした調子はない。珍しく苛立ちが前面に出ている。
「覚醒者のお出ましばい」
土煙の奥で、その影が一歩、こちらへ踏み出す。
割れた地面を靴底で鳴らしながら現れたその存在を見て、繋は直感する。
久しぶりに、強敵との戦いになる――と。




