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それからひと月ほどは、とても平和だった。王立学院の女子生徒たちはびっくりするくらい何もしてこなくなり、カシアはエリシアに一度謝ってきてからというものの、顔を見るなり青ざめて逃げ出すほどだった。
これじゃあどっちが嫌がらせをしてたのか分からない。
「怪我を負ったと聞きましたが、大丈夫ですか」
図書室で調べ物をしていたところに声を掛けてきたのは、意外にもマルティーナだった。
デリックの事が好きそうな素振りをしていたのに…。
「心配してくださるのですね。
お気遣いありがとうございます」
諦めたように小さく息を吐いたマルティーナは、先日のような覇気はなかった。
「デリック先輩の変わりようを見ていたら、嫌でも実感しますよ」
「え…?」
マルティーナは淑やかにエリシアの向かいに腰掛ける。髪を耳に掛ける仕草さえ、貴族らしく様になっていた。
「デリック先輩にとって、先生が大事な人なんだって」
…大事、なのだろうか。
「…先生は地味すぎですから、王族の威厳溢れるデリック先輩には不釣り合いだとは思いますが」
「…私ってそんなに地味ですか?」
「令夫人のような色の服装ばかりで、首元まで隠してたらそう思いますよ。宝石の一つも着けてないですし」
「教師ですし、教壇に立つ者として相応しい服装かと思ったのですが…」
「ティンダル先生のように花が歩いているような華々しさがあるならまだしも、リンデン先生はそうではないでしょう。せめて装飾品の一つや二つは着けてはいかがですか。それか、首元をもう少し開けるか。
手首が見えるデザインは良いと思います」
どうやらパトリツィアに合わせた服装にしたことが間違いだったらしい。
このドレスも仕立ててもらってから一度も手直ししてもらってないから、今度見てもらおうかな…?
「助言をありがとうございます」
「…いえ。…それを言いに来たわけではなくて。
それより注意してくださいね。
王立学院の女子生徒たちは元々私たち魔法学園の生徒の事も乱暴で野蛮だと罵ったりして、いざこざが絶えなかったんです。
神の咆哮の件があってからは、エストランテに負い目のあるバルティーナの一国民として先生たちも強くは出られず、向こうの女子生徒たちはつけ上がっているようですから。
次は怪我を負うどころでは済まないかもしれませんよ」
エリシアを見つめるマルティーナの瞳は、本気でエリシアを案じていた。
「…そうですよね…。気を付けます」
なるべく大事にはしたくない。
そう思っていたのに、王立学院の女子生徒がエリシアに怪我を負わせてデリックを怒らせた話は魔法学園の生徒たちの間で瞬く間に広まった。
職員たちに心配されるだけでなく、心なしか魔法学園の生徒たちの態度も優しくなっていた。
♢♢♢
「生徒たちの間でも、王立学院の生徒らとはすっかり壁ができてしまったようです。何もしてないエリシア先生に故意に手出しをするような輩ですからね。
元からエストランテの奴らは口うるさくてお高く止まっていると煙たがられていたのですが、今回の件でさらに印象が悪化したようです」
「……」
何だか、私が仲違いさせてるみたいで嫌なんだよね…。
エリシアは副菜のサラダをフォークで突き刺すというマナーの講師らしからぬ振る舞いをして項垂れた。
向かいで切ったお肉を口に入れたヨハンは、納得いかない様子のエリシアに笑いが溢れる。
「そんなに落ち込まないでください。今回の件がなくとも何かしら問題は起こっていたでしょうから。
元々国民性が合わなかったので仲良くはなかったんですよ。近隣国だから交換留学生を送り合っているだけで」
ヨハンはワインをグイッと飲み干す。何だか今日はペースが早い気が……。
「……そんなに仲が良くないならどうして交換留学生を送り合うんでしょうか」
「社会勉強を兼ねてますから。特にエストランテに行って帰ってきた生徒たちは多少理不尽な目に遭っても辛抱強く対処できるようになります」
ワインを見つめていたヨハンは悩ましげにそれを傾ける。
「でも悩んでいるエリシア先生の表情も素敵です」
「……ヨハン先生、酔ってます?」
「今日のワインが美味しすぎるせいですかね」
ヨハンは恍惚としてエリシアに見とれていた。
「エリシア先生は食べ方もお綺麗ですよね」
「一応、作法の講師ですから」
「一応じゃありませんよ。エリシア先生は立ち上がっても歩いてもお美しいです」
「完全に酔ってますね?」
段々とヨハンの目が据わってくると、エリシアは確信していた。
「あはは、酔っていませんよ」
「酔ってます」
この無駄な押し問答がまさに酔っている証拠。
「ん…暑い…」
顔の赤らんだヨハンがタイを緩めてボタンを外すと、途端に色気が増す。
み、見ちゃだめなやつ……!
エリシアはサッと顔を逸らした。
「エリシア先生」
「はいっ!?」
攻略対象者らと並んでも違和感のない造りの良い顔立ち。パーマがかったマロンブラウンの髪。普段は涼しげな目元だが、表情筋柔らかでいつもエリシアに笑顔を向けてくれる。
穏やかで優しく教師らしいヨハンが、酒で鈍ったようにクールな顔付きになっていた。
頬を染めて息を荒げ、額は汗でキラキラと光っている。
その変わりようはエリシアをやけにドキドキとさせた。
「エリシア先生は、彼のことが好きなんですか?」
「は、はい?彼って…」
「とぼけないでください。その厳重な防御魔法を掛けた張本人ですよ」
じいと見つめるその表情は、エリシアの知る優しいだけのヨハンではなかった。
「付き合ってないんですよね」
「…そういう関係じゃ……」
「じゃあ、僕とそうなっても問題ありませんよね」
“そうなっても”?
「え…?」
その解釈に手間取ったエリシアが固まると、それまで饒舌だったヨハンが黙り込む。
すると電池の切れた機械のようにゆっくりとテーブルに伏せていった。
「え、あ、ヨハン先生!?」
“そうなっても”ってどういうことですかー!?
♢♢♢
デザートを食べる間も無くヨハンが潰れてしまい、従者たちに「どうされましたか!」「珍しいですね」と馬車に連れられていくのを見送った。
今まで何回も食事に行って、ワインくらいじゃ酔ったりしない人だったのに。
なんで今日はあんなに酔い潰れてるんだろ…。
「エリシア先生」
ふと声を掛けられて振り向くと、制服姿ではないシルクの装束とトラウザーズ姿のシンプルな装いをしたベンジャミンが微笑んでいた。
「王国の王太子殿下にご挨拶申し上げます」
「堅苦しい挨拶はいらないと申し上げたはずですよ」
「ここは身分平等な学園の外ですから」
頑なに規律を守るエリシアに、ベンジャミンは諦めたように笑った。
「エリシア先生もこちらでディナーを?」
「はい。殿下もでしょうか?」
「奥に部屋を用意してもらいました」
なるほど。王太子殿下がディナーをしていたらそれだけで目立つもんね…。
「よろしければお送りしますよ」
その日は初めて見かけた時のド派手な馬車ではなく、お忍びにも使われそうな国章のない控えめな馬車だった。
「私のことはお気になさらないでください。家が遠いのです」
「それは好都合です」
時間が掛かると仄めかしたのだが、ベンジャミンは食い下がらなかった。
「エリシア先生と過ごせる時間がたっぷりあるということですね」
腰に手を添えられてびくりと震える。
また魔法が発動するのではないかと思ったが、今日のベンジャミンは手袋をしていた。
馬車の乗り降りの時に不便なため、布越しに触れることはできるようにしてもらっていたのが幸いだった。
「どうぞお手を」
目前に整った美貌がありギョッとする。
きめ細かい肌も、ライトに照らされて輝きを放つ黄金の瞳も、その髪色や表情を除いたらデリックそっくりだ。
…ああ、私も酔ってるなこれ…。
頬を染めたエリシアはその手を取り、御者に町の名前を告げた。
その様子を、出てきた店の中からじっと窺う人影がいた。
「………あの女、まだベンジャミン様のことを……!」
♢♢♢
ここで酔っていたのはヨハンだけではなかった。エリシアもまた頭がクラクラして、馬車の窓に頭を預ける。
「具合が悪いのですか?」
「…少し、飲み過ぎまして…」
そんな感覚はなかったのだが、話に夢中になっていたエリシアは何杯飲んだのか正確に覚えていない。
今までこんなになるほど飲んだのは初めてワインを飲んだあの日だけなんだけどな…。
今日そんなに飲んだっけ…?
「膝を貸しましょうか?」
「いえ。お気持ちだけ有り難く頂戴致します」
「…今は二人きりですから。互いの立場や身分などは気にしなくても良いのですよ」
あくまでベンジャミンは紳士的な対応だった。
「そうではなく…」
頭が、ボーッとしてくる。
「異性の方が私に触れると、弾かれてしまうんです」
「あの日の魔法ですか?」
「はい。あれは私のものではなくて、デリックが私に掛けた防御魔法で…」
エリシアはまるで取り憑かれたように考えることなく言葉が出てきた。しかし頭が重いせいか口の周りは遅い。
「…そうだったのですか?」
「私は、魔法は使えませんから」
「そうだったのですね。学園にも魔力のない教師がいると知ってはいましたが、まさかこんなに身近にいたなんて」
頭がふわふわとして、何も考えられなくなる。
視界がぼんやりとして、口だけが自分のものではないように勝手に動いていた。
「バルティーナ出身の方は魔力持ちが多いのに、珍しいのですね」
「……いえ、私は……バルティーナの出身ではなくて…」
「では、どちらの?」
「…エストランテです…」
「…それは、また意外ですね」
ガタンっと馬車が揺れてハッとする。
あれ、私、今何を………。
「い、今のは忘れてくださいっ」
「他の方には秘密なのですか?」
「そういうわけではないのですが…」
何であんなことベラベラ喋っちゃったんだろう。
出身のことはこっちにきて自分から話したことなんてないのに…。
エリシアは視線を彷徨わせながら膝の上の拳を握り締める。その様子を見つめていたベンジャミンは、それ以上声を掛けてくることはなかった。
♢♢♢
「昨日はあのような失態を晒してしまい申し訳ございませんでした。自分でもあんなに酔い潰れるなんて信じられなくて…」
翌朝、廊下でばったり遭遇したエリシアに、ヨハンが恥ずかしげに頭をかきながら謝って来た。
「お気になさらないでください。私も昨日は、何だかぼんやりしてしまって…」
「話に夢中で飲み過ぎてしまったのかもしれませんね」
昨夜のことを思い出し、互いに照れ隠しに笑う二人を、物陰からじっとミカエルが窺っていた。
次の休みの日、エリシアはさっそく仕立て屋に寄りドレスの新調と一部ドレスのお直しをした。
胸元にサファイアやルビーのブローチを付けたり、少し胸元を開いたドレスに、真っ先に気が付いたデリックは「首も肩も他の奴に見せたくない…」とエリシアを抱きしめて離さなかったのだった。
「宝石は黄色が良いと思う」
「どうして?」
「…エリシアの髪と同じだろ(俺の瞳と同じだから…)」
「…確かに。その方が合うかも…」
乗せられたエリシアが黄色を身につけるようになると、周囲はデリックの牽制だとすぐに気が付いたのだった。




