アジは刺身よりもアジフライの方が美味しいのか否か
隣の二階堂さんには変な癖がある。
考え事をして煮詰まってくると部屋の壁を叩くのだ。
最初はびっくりしたけど、変な癖だと知ってからは何も怖くはない。
最近では彼女が何かに煮詰まってきている時に自宅に招くことをあたしも夕凪も楽しみにしている。
どんどんどんどん…
今夜も壁を叩く音がする。
4歳になった夕凪はあたしを見る。
あたしは夕凪に言った。
『お姉ちゃん、呼んできてくれる?夕飯でもいかがですかって。』
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今日は仕事帰りに大船に寄ったので、ルミネの1階でアジフライを買ってきた。
そして駅の中にある大船軒ではアジの押し寿司を3つ購入して、自宅近くのスーパーでしっかりビールとポテトサラダを購入してから、帰ってきた。
寄り道をしてしまったので、いつもより帰る時間が遅くなってしまった。夏の空はなかなか暗くはならないが、家に着く頃にはすっかり星空になっていた。湿り気のある夏の夜は何をしていても空気がまとわりつくような気がしてどうにも気持ちが悪い。
あたしは買ってきたものをすべて冷蔵庫につっこむと、エアコンの電源を入れて、すぐにシャワーを浴びることにした。
風呂上りにはビールが待っているのだ。
そうそう……。
帰りに大家さんのお宅に寄ってアジの押し寿司を渡してきた。
先日のから揚げのお礼である。
あたしはアジには目がない。
大学に入って横浜にやってきた時に、大船駅で見つけたアジの押し寿司には感動した。酢の利き具合といい、あえて薄皮をつけたままにしている歯ごたえのよさといい、たまらなく美味しい。
『アジとは味なり、その美なるをいう』なんて言葉をどこかで聞いたことがあるが、とても美味しい魚である。
お風呂から上がるとエアコンの涼しい風が昼間の暑さにやられた身体を癒してくれる。
『ふううう』
部屋着に着替えてから、あたしは心地のいいため息をついた。
今日も良く働いた。
冷蔵庫から冷えたビールを出してコップに注いだ。
ベッドの隣の白い小さなテーブルにあたしは缶ビールを置いた。少し行儀が悪いけど、ビールは立ったままぐびぐびと飲んでしまう。
一気飲みなど強要されたことはないが、暑い日の風呂上りは、自然に一気飲みをしてしまうものだ。
『あ――!美味しい!!!』
ついつい独り言。
コップをテーブルに置いて、ベッドに横になってから少し目をつぶってみる。
眠くはないのだが、気分が落ち着くのだ。帰ってきてすぐにつけておいたラジオからはプロ野球中継が流れている。野球は分からないし、いつもなら野球中継がやっている時点でFMに変えてしまうのだが、めんどくさくてそのままにしている。
内容はよく分からないが、今日は珍しく阪神が勝っているようだ。
明日は相談室に行くのはやめにしよう。
さて……アジの押し寿司を食べようか……それともアジフライをかじろうか……。
迷うなあ。アジフライは刺身よりも美味しいと思う。押し寿司はまた別の味わいだし、刺身やなめろうだってすごく美味しいし好きだ。でもそれらにも勝ってアジフライは美味しい。
特にビールを飲むときはアジフライが一番だ。
できれば揚げたてをカリッとかじって食べながら、ビールをぐいっと飲むのは、何とも言えない。
ああ……もうダイエットのことなど忘れてしまいそうだ。そういえば最近、歩いていないけど……今日は大船の街を歩き回ったから良しとしよう。
アジフライの嬉しいところはそのお手軽さだと思う。
押し寿司が名物のように大船で売られていたので、ちょっと不思議で調べたことがある。というのも鎌倉ならまだ分かるが大船は少し海から遠い感じがする。
駅前を流れる柏尾川には春先から秋口にかけてボラが上がってきている。
ボラは海の魚なので、きっと大船付近は真水の中に海水が少し交じっている汽水域なのだろう。
そう考えると昔は、大船から海というのはもう少し近かったのかもしれない。開発が進むにしたがって遠くなってしまったのだろうか。その証拠に大船という土地の名前にはそこで船を作り海に運んでいたということに由来するらしい。
まあ……『大船は今より昔の方が海に近かった』という説は何の根拠もなく……あくまであたしの推測の域を出ない。
大正時代には鎌倉の海で美味しいアジがたくさん捕れたそうだ。そこから押し寿司が鎌倉や大船の名物になった。
押し寿司をこんなにも推すのなら、アジフライももっと推してくれてもいいのに……。
どうにもアジフライは刺身なんかに比べるとあまり高く評価されていないようで、あたしとしては寂しい。何もつけなくてもあんなに美味しいのに……。
う――ん……
考えが煮詰まったところで玄関のチャイムが鳴る。
あたしは我に返った。気が付けば壁の前に立っていた。
どうやらあたしはまたやらかしてしまったらしい。
そういえばアジの押し寿司を持っていかなければ。お隣の分もあるんだった。
『アジとは味なり、その美なるをいう』とは江戸時代中期の旗本で朱子学者でもある新井白石の言葉です。大船軒のホームページをご参照下さい。




