8
「あー、病院からの詳しい検視はまだ上がっていないのですが、ざっと見た限り体に虐待の跡が見られまして……最近のものではなく、大分昔のものになるそうですが」
「虐待?」
「はい。御本人から、何か聞いていませんか?」
私は首を横に振ることしかできなかった。
彼は夏場でもカーディガンやパーカーを着ていた。エアコンが効いた部屋で生活しているし、これと言って違和感を覚えたこともない。裸の彼と鉢合わせするようなことは、この五年の間になかった。
男にしては薄い体を思い出す。寒い夜にふざけるように一緒に眠ったとき、抱きしめた彼は驚くほど細く、腕に当たる骨が痛かった。あの時はいっぱい食べて、いっぱい太ってもらいたいとぼんやりと思った。
ああ、彼は逃げてきたのだ。
生まれ育った場所から、東京へ、きっと、逃げてきたのだ。
理不尽な暴力から、向けられる視線から、逃げるために。
「東海林さん?」
名前を呼ばれ、眼帯に覆われていない目と目があった。吸い込まれそうなほど深い目に見つめられて思わずたじろいだ。
「あ、す、すみません……考え事をしてしまって……」
「いえ。何か気になることでも?」
「……服の件は、あの、彼の検死結果で所見で分かると、事情聴取の方が言っていたと思います。それと、この人、見えづらいですが肩口に刺青がある気がするんです」
「え?」
テーブルに画像を広げ、肩口を指さす。画質は荒いが、肩口に黒い線のような物が見えた。
「画質のズレか、服の影かと思ったんですが……なんだか、肩に沿って湾曲しているように見えませんか?」
「……言われてみると、確かに」
伊達刑事は何度か画像を確認すると、横にたつ御子柴刑事へ視線を向ける。
「解析班に確認します」
「とりあえず、東海林さんから見るとこの画像の男は佐藤太郎ではないってことでいいかい?」
「はい」
「ありがとう。店長さんはどう思う?」
流れるように受け取った店長はマジマジと画像を見つめ、分からないと首を横に振った。
「タロにも見えなくはないし、別人にも見える。オレじゃーわかんねぇっすわ」
「佐藤太郎がここで働いていたのは?」
「あー、マスターが死んでからすぐは手伝って貰ってましたよ。コロナ禍でもちょこちょこ、ここ二年くらいはふらりと一杯飲みに立ち寄ってくれてましたね……あー、そういえば」
ふと、店長は何かを思い出すように顎を撫でながら視線を泳がせた。
「去年、かな、飲みに立ち寄ってくれた時にあいつの顔見知りとここでばったり出くわしたみたいで、その人と話しながら手帳かスケジュール帳に何か書いていたかも」
タロは手帳を持っていない。私の脳裏を過ったのは、いまも鞄の中にある文庫本だった。彼が愛用している黒革のカバーは一見手帳に見える。古籠火に記されていた電話番号を、もしかしたら書いたのかもしれない。
「佐藤太郎の私物は全部提出してあるのか?」
「あ、はい。警察の方が来られた時に、すべて渡しました。ただ、彼の持ち物の中に手帳はなかった気がします」
「まぁ、なかったらその時さ。聞きたいことは以上だ、ご協力感謝します」
そう言って伊達刑事はにこやかに微笑んで小さく頭を下げた。
ふわりと彼から線香の香りがした。もしかしたら、喪服を着ていると思ったのは勘違いではなくどこかの葬儀に参加した後なのかもしれない。警察官という仕事の大変さを思うと頭が下がる思いだ。
「そうだ、東海林さん。念のため、連絡先を伺っても?」
「ああ、はい。大丈夫です」
差し出された手帳に、電話番号を書く。
それから私たちは別れた。
彼らに文庫本のことを伝えることが出来なかった。帰り道を進む度、タロのこと、初めて刑事事件の事情聴取をされたこと、様々な出来事が頭をめぐり不思議な高揚感に包まれる。
浮足立っている、というのはこういう状態のことなのかもしれない。
案の定、アスファルトでつまずいた。
「大丈夫?」
「だ、大丈夫です……あ、こ、こんにちは」
親切に声をかけてきたのは、町内会長の奥さんだった。救急車を呼んだ際、騒ぎを聞きつけて駆けつけてくれた。現在大家さんは旅行中で、帰ってくるのはゴールデンウィークの終わりになるため代わりに事情を聴きに家に来てくれた。同居人とは言えなかったため、遊びに来ていた彼氏が急死したと伝えてある。
「こんにちは、ケガはない?」
「はい。大丈夫です。ありがとうございます」
緊張と羞恥で何度も頭を下げてしまう私に奥さんは穏やかに笑ってくれた。
「そういえば、最近不審者が出るらしいから気を付けてね」
「不審者?」
この辺りは小学校や中学校が近く、登下校の時間にはそれを見守る大人の目が多い。しかし、度々児童への盗撮や声かけ事案が発生している。夜は閑静な場所になるため、不審者の情報には皆敏感だ。
「……怖いですね。いざとなったら、交番まで走らないと」
「十分気を付けて出歩いてね」
優しい声をかけてくれる奥さんに丁寧に礼を言って家に帰った。
「ただいま」
なんとなく声を出して入ったけれど、アコーディオンカーテンの向こうから人が出てくる気配はない。手洗いうがいをすませ、部屋に入る。
何かに惹かれるように、気づいたらロフトに掛かった梯子に足をかけていた。
ロフトの上はタロが使っていた布団とビーズクッションだけが残されている。なんとなく買ったアースカラーの小さいクッションに顔を埋めると、なんとなくタロの匂いがした。
私も使っている、同じ柔軟剤の香りだ。
胸いっぱいにそれを吸い込むと、目の前が滲む。
「……もっと、話をすれば良かったね」
声に出しても、返事をくれる人はいない。それが寂しくて、空いてしまった胸の穴を埋めたい衝動にかられ、クッションを抱きしめた。
瞼を閉じると、彼の声が聞こえる。
「さっちゃん」
彼がそう呼びはじめたのは、ここに住みだしてすぐだ。今思うと、彼は随分人たらしだった気がする。人懐っこくて、気が利いて、程よい距離感を保つのが上手だった。
その距離がとても居心地がよくて、幼い頃の愛称をすんなりと許してしまった。今の私には似つかわしくない、呼ばれ方だ。
「さっちゃん」
今年見た桜の下で、タロは屈託なく笑う。
「桜の樹の下には屍体が埋まっているんだって」
梶井基次郎の有名な短編小説の冒頭だ。彼の読んだ本の中に、あっただろうかとぼんやりと考えながら、薄紅色というよりは白に近い花色の桜を見上げる。
こんなに美しく咲く理由は、屍のすべてを吸収しているからに違いない、と言われれば納得してしまいそうだ。
古来から鎮魂の意を込めて植えられてきた歴史もある。桜のある場所には、どうしても人の死という影がついて回った。
「お寺に咲いてるし、確かに埋まっているかもね」
「え、怖い。なんでそんなこと言うの」
「あんたが言い出したんでしょ」
案の定何も考えずに口にしたようだ。タロは境内へ向かう足を止め、こちらへと戻ってくる。その顔は明らかに青白く、今にも泣きそうだ。
「やっぱ、桜が綺麗に咲くのには死体がいるのかな?」
「死体が土に分解されて養分になるのは自然の摂理でしょう。その死体が人間か動物かなんて、土になったら分からないわよ」
「そうだけどさー」
「花は綺麗なんだから、それでいいでしょう」
「さっちゃんはさ、死んだら桜の樹の下に埋葬されたい?」
「えー? 樹木葬ってこと?」
駅構内の広告で見たことがあった。お墓を持つのが面倒な人たちにはちょうどいい葬り方なのだろう。
「どうせなら、海に灰を撒いてほしいかも」
「えぇ!? なんで?」
「その方が後腐れなくていいでしょ」
「そんな、お墓に入らないとお盆に帰ってこられないよ?」
その話は初めて聞いた。死んだ後の話など、死んだ人間には関係ない。
「海と一緒になったら、世界中どこまでも行けていいじゃない。死んだあとくらい、お金も時間も気にせずに世界中を旅できるわ」
めそめそするなと意味を込めて、軽く背中を叩いてやった。さほど痛くもなかっただろうに、痛いなーとタロは笑う。
「……そうだね」
「?」
「海と一緒になったら、自由になれるね」
噛みしめるようにタロはそう呟くと、ヘラりと笑って見せた。
「そういえば、さっちゃんは誕生日に何か欲しいものある?」
もう少しで誕生日がやってくる。五月四日のみどりの日だ。去年はタロの手作りケーキと百均で揃えた道具で作ったバースデーカードを貰った。ヒモだからお金がないのだ。
「何も」
「えー?」
「ヒモから何か貰おうなんて思わないわ」
「それまでには日雇いのバイトでもして稼ぐよ~お馬さんにも頑張ってもらうしね」
「競馬で収入得ようとしないでくれる?」
「お金が手に入れば細かいことなんて気にしない、気にしない」
思わず白い目で見ると、その視線を跳ね返すようにタロは白い歯を剝き出しにして笑った。
一陣の風が吹く。石畳の上に広がっていた花弁が風に巻き上げられてクルクルと私たちの周りを踊った。
タロの歓声が響く。
「すごい、花吹雪だ!」
「下から巻き上がってるのに?」
「地吹雪とかあるじゃん、あれと同じだよ」
目の前が、淡い色の花弁で埋め尽くされる。
私とタロを阻むように。
思わず伸ばした手を、タロは嬉しそうに握ってくれた。
「ずっと、春だといいのにね」
そう言って彼は笑う。
この時間がずっと続くと思っていたのにね。
夢を引き裂くように、防災無線から午後四時三十分を知らせる夕やけこやけのメロディが鳴り響く。




