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これは夢だと気づくことがある。
呼吸をするたびに少しじめっとした、喉に張り付くような重い空気が肺に満たされていく。
いつもならば夜の静寂を切り裂くように自動車の走る音と気配がするはずなのに、不自然なほど静かだ。
歩きなれた通勤路。
右手に出来てまだ十年も経っていないマンションの明かりが見える。
外廊下を照らす柔らかなオレンジの光のせいだろうか、遊歩道に落ちる影と闇が一段と深い黒に見えた。
横断歩道を渡り、街路樹が生い茂る遊歩道を進む。
深い闇が落ちた赤い煉瓦タイルの小道を、心もとない街灯の淡い光が照らしている。
おかしい。
代り映えのしない道を、進んでいく。
おかしい。
音はない。
自分の呼吸する音だけが聞こえる。
おかしい。これは、夢だ。
夢だと分かっているのに、目が覚めない。
両手足がまるで錘でも付けているかのように重い。
視界の片隅で光が終わりを告げるように最後の明滅をしてふっと消えていく。
闇が一つ深くなる。足首の錘が増えたような感覚に襲われる。地面についた足が沈んでいくような感覚に、足を上げるのが億劫になる。足の裏にぬるりとした感触がした。
幼いころ、川で遊んだ際に底の生ぬるい泥を踏んだ時と似ている。がくり、と身体が一段落ちた。
意識の片隅で警鐘が鳴り響いている。
街灯がまた一つ、また一つ、消えていく。
消えていくたびに闇が深くなる。体が闇の中に沈んでいく。
終わりのない闇の中に。
沈んでいく。
「さっちゃん」
肩に触れた手の感触に、目を見開いた。
目の前を塞ぐように広がるのは、薄暗闇の中に浮かぶ白い壁紙だ。耳元でドクドクと血が脈打つ音が響く。いつの間にか詰めていた息を小さく吐いた。
同時にまた小さく肩を揺すられる。
「……さっちゃん」
「タロ? どうしたの?」
浅い呼吸と、苦し気な声に慌てて飛び起きた。
明かりもつけず、ベッドの横にぬっとタロが立っている。咄嗟に枕元のスマホに触れて起動すれば、青白い光りにタロの姿が照らされる。ぎゅっと胸元を手で掴み、苦しそうに顔を歪めている。
「どうしたの? 苦しいの?」
「……うん」
腕を掴めば、驚くほどじっとりと冷や汗で濡れていた。
タロは小さく呻き、力なくその場に膝をつく。
救急車だ。頭で理解する前に私の体は動いていた。慌てて番号を押し、救急車を呼ぶ。
この怒涛のような出来事は、一生忘れないだろう。
冷静な私がまるで第三者のように静かな目で、私の行動を見つめていた。
彼を引きずるように玄関に運び、自分の鞄にタロが出かけている時に使っているボディバックを詰め込む。アパートから消防署は目と鼻の先だからだろうか、ストレッチャーと共に救急隊員が現れたのは早かった。
運ばれていくタロの表情は苦痛に歪み、顔色は青白く、段々と白くなっていく。
救急車の中で、タロは痛みから唐突に解放された。
彼の心臓のバイタルは小さな音を立てて、動いていると知らせていたはずなのに不快なほど長い音を奏で始める。
心肺蘇生を始める救急隊員の必死な声も虚しく、四月十六日の午前一時四十二分に、タロは死んだ。
春の陽気が嘘のように冷たい夜に、急性心筋梗塞による突然死。
医師から告げられた言葉に、目の前が真っ暗になるのが分かった。ふらつく足で病院の廊下に置かれた長椅子に力なく座る。
どれくらいそうしていただろうか、目の前に見覚えのある制服姿の警察官が二人現れた。
感情の浮かんでいない静かな表情の二人に、段々と頭の中が冴えてくる。
「亡くなられた方に関してお伺いしたいのですが、ご家族ですか?」
「……いえ、同居人です」
「では、亡くなられた方の身分証などは今お持ちでしょうか?」
鞄の中から持ってきたタロのボディバックを取り出す。中には私が契約している二台目のスマホと革製のミニ財布が入っていた。日がな一日家にいるので、スマホは毎日充電しなくてもいいからとボディバックの中に入れっぱなしなのだ。
「……あれ?」
財布を開いて思わず眉間に皺が寄った。入っているのは千円札が数枚、交通ICカード、彼がハマっているオンラインゲームのコンセプトカフェのポイントカードだけ。
免許証も、保険証も、彼を証明するものは何一つ入っていない。
「……彼……いまは、働いていなくて……マイナンバーカードも作っていなくて……」
「ご家族の連絡先に心当たりは?」
スマホの電源を入れ、電話帳を開く。載っているのは、私のもう一つのスマホの番号と今は亡きバーのマスターの番号だけだ。
「……すみません、分からないです」
私の言葉に警察官二人は顔を見合わせた。
「詳しいお話をお伺いしたいので、ご同行願いますか?」
どこか痛々しいものに触れるような声でそう言われ、私は力なく頷いた。
あれから、私の心はぽっかりと穴が空いてしまったようだった。
職場に事情を話し、有給を使って一週間の休みを貰ったが今が何日なのかも分からなくなりつつある。
ベッドから起き上がるのも億劫で、ただスマホの写真フォルダを眺めた。
行旅死亡人、それがタロに新しく付けられた呼び名だった。
警察の調べで、佐藤太郎という行方不明者はいないことがわかった。
現在、似た年齢の行方不明者と照らし合わせている最中だが結果は芳しくない。彼の身元を特定するために、私が貸していたノートパソコン、ロフトに置かれていた彼の私物――殆どが服だ――が警察に回収された。
これから彼の遺骨は自治体の預かりとなり、情報がまとめられたら官報や区のウェブサイト等に掲載される。今だとSNSでの発信も行われていて、行方不明者の情報は昔よりも目につきやすくなっている。
彼の家族が名乗り出れば、タロはきちんとした葬儀を挙げてもらえる。
――引き取り手がないまま行政の保管期間が過ぎた場合、ご遺骨は無縁仏として区内の寺に納められるかと。知人ですと、葬儀を挙げることは出来ますが費用が掛かりますよ。
行政の担当者から言われた言葉を頭の中で反芻する。数か月、長くても一年、遺族が見つからなければタロの遺骨は共同墓地に埋葬される。
葬儀をあげることも、タロの遺骨を引き取り墓を建てることも貯金がない私には無理だ。このまま、家族が名乗り出なかったら、彼の遺骨は本当の名前も刻まれず、数多の数の遺骨とともに埋葬される。
「……タロ」
画面をスクロールして一番新しい写真を開く。近所のお寺の桜が満開の時に一緒に撮ったツーショットだ。照れてはにかみながら、私に頬をくっつけて笑顔でカメラレンズを見ている。
彼の口から家族のことは聞いたことはない。お互いの好きなもの、嫌いなものの話をよくしていた――彼は驚くほどの火恐怖症でコンロは勿論、ライターの火すら見れない事から幼少期に何かあったのだろうな、とは察してはいたが深くは聞かなかった。
こんな事になるなら、もっと、話をしておけばよかった。
後悔の念が浮かんできては、目の前が滲む。涙を払うように瞬きを繰り返しながら、いつまでもうじうじとしている自分を振り払うように起き上がった。




