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スタッフ通用口から出ると、四月だというのに少し肌寒い風に頬を撫でられた。
「さむーい」
「今日は冷えますね」
「私ももう少し厚いカーディガン着て来ればよかった」
「出勤する時は暑かったから仕方ないですよ」
「気温が安定しないお天気って嫌ね~そういえば、今日はなんてごねていたの?」
「DVDです。アカデミー賞を獲った作品をもっと入れろって」
「うちは沢山入っている方だと思うけど……」
「多分、他の館が所蔵しているのは見てないんじゃないですかね?」
「えぇ? 予約もできるのに?」
自治体によって違うが、DVDを入れている館で予算を調整してジャンルに偏りが出ないように購入している。利用者が観たかったアカデミー賞を獲った作品は他の館にあるかもしれない。
図書と同じく、冊数の制限はあれど予約して取り寄せることもできるのだが、あの様子だと知らないのかもしれない、と思い立った。
「もしかしたら、予約を知らないのかも知れないですね。また、何か言われるようなら伝えるように周知しておきますか」
「それはいい考えだと思うわ。対応してくれたのが東海林さんで良かったわ。伊藤君だったら、もっと揉めていたわよ」
「あー……確かに……」
男性スタッフの顔を思い出し、思わず乾いた笑いが漏れた。四つ年上の男性スタッフの伊藤は言葉がきつく、自分を正当化しすぎて利用者に寄り添った言葉選びができない人だ。
度々クレームに発展しているのだが、改善が見られない。今日来ていたI夫妻と一度大きなトラブルを起こし、顔を見せるなと怒鳴られて以降はI夫妻が来館した時にはカウンターから外れるようになっている。他館に異動させられていないのは、本人が拒んでいるためそれを汲んで現在の館長が彼の面倒を見ると言っているからだと噂されている。
暇なときはいいのだが、忙しい時間帯に人が減るようなことになると中々大変なことも多く、他のスタッフからの愚痴も絶えない。
(そう考えると私が対応できたのは良かったのかも……)
スタッフや利用者の話をしていると、あっという間に新宿駅へと辿り着いた。
本来ならば四谷三丁目駅から丸ノ内線を使って移動しても良いのだが、スタッフの多くは徒歩で移動している。思った以上に新宿の地下は繋がっているため、信号につかまること無く徒歩で移動でき、二十分程度歩くだけで駅に着ける。
都営新宿線に乗る渡辺と別れ、JRの乗り口へと向かう。乗降客数世界一位の新宿駅は、二十一時も近いというのに、テーマパークの閉演時間並みに混みあっていた。
行く人全員がマスクを着けていた光景が嘘のように素顔の人が多く、観光目的の外国人の姿も多くなっている。
公共施設のマスクの着用は任意になったとはいえ、不特定多数の人間が出入りしているため、感染が怖くていまだに外せないでいる。世間を席巻した新型コロナが五類に移行してからあと二か月ほどで二年が経とうとしている。図書館の業務委託スタッフという薄給にとっては羅漢したリスクを考えるとどうにも外す気は起きないのだが、世の中はもうマスクをしない元の生活へと戻り始めている。
最初は息苦しくて嫌だったが、存外マスクをする生活が嫌いではなかった。外見にコンプレックスはないが、化粧をするのがただ面倒だった。マスクを外すとなると、朝から肌に塗りたくる日々が始まると思うと億劫でたまらない。
(……化粧品の消費期限ってあるのかしら)
思い切って新しいものを買いに行くのも気分転換になって良いかも知れない。ぼんやりとそんなことを考えながら、湘南新宿ライン小金井行きに飛び乗った。
あわよくば座りたかったが、目的地までは空くことはない混み具合だった。出来るだけ吊り革が掴まれる位置に移動し、スマートフォンを取り出しニュースサイトを目で追う。
誰か著名な人物の訃報が出ていたら、特集コーナーにその人関連の本を並べようと思ったが残念なのか良かったのか一つもなかった。
今月の頭に大物司会者が亡くなったのは記憶に新しい。関連本は数冊しかなく、追悼特集の案は消えてしまった。
頭の中に顔が浮かび、昔見ていた番組の記憶が蘇ってくる。あの人の番組が存外嫌いではなかった。小学生の頃にテレビをつけると必ずと言っていいほど見た顔だ。
ニュースサイトを眺め、思考を巡らせていると最新のニュースに見慣れた地名が出ていて驚いた。
赤羽駅近くの事務所から出火 東京都北区
東京消防庁によると、十五日午後二時三〇分頃、東京都北区赤羽一丁目のビルの三階部分から出火していると一一九番があった。捜査関係者によると午後五時四〇分現在、事務所が入る五階建ての建物を含め二棟が全焼。出火元の事務所の焼け跡から一人の男性の遺体が発見されている。現在身元を確認している。
自宅最寄り駅の近くだ。三度ほど記事を読み、別のニュースサイトも開いて確認する。間違いなく、降りる駅近くで起きた火事だ。
嘘みたいな事件を肯定するように、赤羽駅で電車のドアが開くとひどい悪臭が鼻腔を刺激する。ただ、建物が焼けただけの臭いとは思えなくて、込み上げてきたものを吐き出さないように堪えた。
消し止められてから随分と時間が経っているはずなのに、いまだに燃えているのではないかと思うくらい生々しい臭いが残っている。
降車するためドアの方へと動き出した人の何人かが、そわそわと落ち着きを無くしていくのがわかった。大学生らしき男の子たちが笑いながら煙臭さに文句を言うのが遠くから聞こえてくる。
たまにボヤは起きるが、飲み屋街で大きな火事が起きたのを目にするのははじめてだった。
火事現場を見たくなるのを堪えながら、前の人に続いて、のそのそと駅のホームに降りる。鼻をつく臭いがさらに増したのが分かった。帰宅ラッシュも一段落した時間だというのにホームには人が多く、この悪臭のただ中、威勢良く叫ぶ酔っ払いが目についた。
まるで喧騒を切り裂くように、エレファントカシマシの「今宵の月のように」が軽快に鳴り響く。JR湘南新宿ラインが発着する六番線に立つと聞こえてくる駅メロだ。
東京都北区赤羽。北に荒川を挟んで埼玉県との県境に位置する街だ。東京二十三区北部有数の繁華街らしく、飲み屋街と昔ながらの商店街が有名でよくテレビや雑誌に取り上げられている。
一時期は著名な雑誌で住みやすい街ランキング一位を獲得したこともあり、公共交通の便もよく、駅を挟んで繁華街の反対側は大規模な都市開発が進み、閑静な住宅地が広がっている。
飲兵衛の聖地「赤羽一番街商店街」の治安は若い女性にとって不安が残るものではあるが、住宅街の方へ足を向ければ概ね住みやすい所。
速足で改札を出ると金曜日ともあって繁華街の方から帰ってくる人や、これから飲みに繰り出そうとしている人たちでごった返している。火が消された後とはいえ臭いも酷いというのに、彼らには関係がないらしい。喧騒から逃げるように、私は住宅地の方へと急いだ。
早く帰ろう。
自分が関係ないことに深く関わりたくはない。凄惨な現場など見たら、気持ちが塞ぎこんで仕事が手につかなくなるのが目に見えている。
心が乱れるのはあまり好かない。物心がついた頃から事件や事故などの悲惨なニュースに触れると被害者や遺族に共感してしまい、涙が止まらなくなるのだ。
坂の上にある団地に向かう急こう配の階段を登ると、真新しいUR住宅地と東洋大学の赤羽台キャンパスがドンと両脇に聳え立つ。
この辺りに住んで五年になるが、昔は老朽化した区営住宅が立ち並ぶ場所だったそうだ。開発が進み綺麗になり、街灯も多く配置されたため女の独り歩きには安心感を覚える。
緑の街路樹を潜り抜け、さらに北へ進めば閑静な住宅街が広がっている。細い路地をいくつも抜けた先に私が暮らすアパートが建っている。
大家さんの家と同じ敷地内に建てられた、築三十六年の木造二階建て。一階角部屋ワンルームロフト付きで風呂トイレ別のひと月五万弱。女性限定で初めての一人暮らしに不安だった二十一歳の私にもってこいの賃貸物件だった。不動産屋で紹介された瞬間、これだと思い飛びついてからあっという間に五年経つ。
周囲に人気がないことを確認し、隠れるように部屋の中へと滑り込んだ。
「ただいま」
狭い玄関の先には黒いサンダルが一足、綺麗に並べられている。その横に揃えてスニーカーを脱いで並べた。
玄関先は左手に風呂場、右手にキッチンと言ったらお洒落だが流し台と二口コンロがある。風呂場の前の床に置いてある珪藻土のバスマットが濡れていた。
それを横目で確認し、急いで流し台で手を洗い、うがいをする。コロナ過で身についた習慣だ。
「おかえりー、さっちゃん」
うがいをしていると、キッチンと部屋を仕切るアコーディオンカーテンが開き、顔を覗かせたのは白い歯が眩しい人懐こい笑みの青年だった。
染めていないのに明るい茶褐色の髪に瞳、少しサイズが大きめのユニクロのスウェット上からでもわかるほどすらりと長い手足をしている。
私には秘密がある。
女性単身者限定のアパートで彼――タロと一緒に暮らしている。




