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閉館時間十五分前から流れ、利用者の退館を促す音楽が佳境に差し掛かっている。
オルゴール調にアレンジされたカーペンターズの「イエスタデイ・ワンス・モア」を思わず口ずさみそうになるのを思わず咳払いで誤魔化した。
私―東海林咲月がこの図書館に配属されてから五年も経っている。そのせいで、すっかりメロディを覚えてしまった。
(……そろそろ閉館準備しよう)
館内にいる利用者も数えられる程度で、カウンターに来る客もいなさそうだ。
周辺を見回し、稼働している端末を一台に減らそうと、マウスに手を伸ばす。まるで、それを阻むように黒い影が目の端を横切った。
カウンターに投げるように置かれたのは、DVDのケースが三つ。角度が良かったのかカウンターの上を軽い音を立てて滑っていく。慌てて手を伸ばし、落ちないように手で抑えた瞬間高い女の声が耳に響いた。
「あんな訳のわからない言語のDVDばかり入れないで! もっと英語の映画、アカデミー賞を獲った映画のDVDを入れなさいよ」
「はぁ」
突然攻めるような口調でそう言われ、思考が追いつかず気の抜けた返事を返してしまった。途端に女性の機嫌がさらに急降下していくのが手に取るようにわかり、慌てて笑みを浮かべて、誤魔化すように相槌を打った。
自分勝手なことを言い出したのは、低い身長にミリ単位で長さを切り揃えたような前下がりボブの髪、口元はマスクをしていて分からないが気の強そうな切れ長の目が印象的な女性は会いたくなかった常連利用者だった。週に一度、必ずと言っていいほど閉館間際に訪れては、何かと文句をつけてきてスタッフからの評判は低い。
おそらくDVDの棚が邦画、洋画、だけでなくアジア圏、ドイツ、フランス等国別で分けてあるのを誤解したのだろう。他国の映画のパッケージを見てもらえば、アカデミー賞ノミネートやらカンヌ国際映画祭やら耳慣れた文字が書かれていることもあるのだが、彼女の視界には映らなかったようだ。
ここでアカデミー賞に非英語作品賞もありますよ、など余計なことを言ってしまっては文句が次々と口から出てきて、帰る時間が遅くなるのが目に見えている。
話題の英語教材や英語学習のできる月刊誌とたまに映画を数本借りていく利用者だとは思っていたが、どうやら芸術作品としてではなく、英語教材として映画を見ている人だったようだ。そんな使い方もあるのかと、英語が中学生レベルのため素直に感心してしまった。
「予算に限りもありますし、他の館との兼ね合いもあります。ただ、担当には希望があったと伝えておきますね」
「英語の勉強で使ってあげているんだから、もっと考えて入れてって伝えて」
そう言ってカルトンに投げるように貸出カードを置いた。
世間がコロナ過になってから接触を防ぐため、カードは直接受け取らずカルトンに載せるか利用者が提示したカードを読むのが主流になっている。感染症対策が緩くなった今でも、何となく残ったやり方だ。正直言うとカードを返却した、しないのミスとクレームが減ってありがたい。バーコードリーダーの軽快な音が鳴り、パソコンのモニターに利用者の情報が映し出された。
手早くDVDを貸出し、防犯用の磁気を外す。返却期限が書かれた感熱紙と一緒に差し出せば、利用者は大きく眉間に皺を寄せた。
「予約、あるでしょ?」
「………予約の資料は届いていないようです」
画面をもう一度確認し、そう答えた。その言葉に利用者は驚いたように目を見開き、わなわなと唇を震わせたかと思えば、一拍置いて彼女の感情を爆発させた。
自動ドアの電源を切り、立て看板を"開館は九時から”に切り替える。急ぎ足で事務室へ向かえば、帰宅の準備を終えた同僚が気遣うように声をかけてきた。見た目は四十代にしか見えないが、再来年に定年を迎えるベテランスタッフの渡辺だ。若いスタッフの間では美魔女とあだ名を付けて心のなかで呼んでいる。
「お疲れさまでした、東海林さん」
「渡辺さんもお疲れ様です。閉館作業任せてしまってすみません」
「いえいえ、大丈夫ですよ。I夫妻は本当に面倒な人たちね」
「本当に……終礼は、終わりましたか?」
「ええ。先に済ませちゃった」
I夫妻とは先ほどの常連客だ。他館は知らないが区内の図書館では面倒な利用者はイニシャルで呼んでスタッフ間で情報を共有したり、注意を促したりしている。
「今回も、届いた予約は旦那さんのカードだったんでしょう?」
「当たりです。何が納得できなかったのか、自分が予約したと譲らなくて大変でした」
私の言葉に渡辺さんは困ったように笑った。
「あ、東海林さん終わったの?」
社内携帯電話を片手に奥の書庫から出てきたのは、館長の飯田だった。壮年の男性でいつもピシッと着こなしているスーツはこの時間にもなると少しヨレていた。いつも忙しなく電話をしたり、ノートパソコンに向かったりと休む暇のない年若い館長は困ったような笑みを浮かべると、小脇に抱えていたバインダーを差し出してきた。
「さっきのやり取り、簡単に日報にだけ書いてもらえる?」
「わかりました」
「残業もつけちゃっていいから、書き終わったら退勤して。渡辺さんは早く帰りな」
館長に促され、渡辺は微笑むと首を横に振る。
「若い女の子一人は危ないですから、急いでもないですし待ちますよ」
「おんなのこ、ね」
渡辺の言葉に館長は意外そうな顔をする。可愛らしい容貌の渡辺とは違って、身長も高く一七〇を超えている。スレンダーと言えば聞こえはいいが、肉の少ない体をしており、オーバーサイズのパーカーにリュックという通勤スタイルに胸元まで伸びた髪は頭の後ろできちっと団子にしているため、夜道では男性に見間違えられることが多い。自衛のために着ているが、はっきりと見えないと思われるのも癪に障る。
「私は二十六歳の女の子ですよ」
「そうだね」
「……渡辺さん、ありがとうございます。すぐ、書きますね」
含みのある言い方に思わず突っかかりそうになるのを堪え、バインダーを受け取ると手早くペンを走らせる。出来るだけ簡潔に日報を記入する。毎月提出が必要な報告書を手掛けている副館長の手を煩わせるわけにはいかない。脳裏に眉間に深い皺を刻みながら端末とにらめっこする副館長の顔が浮かんだ。
スタッフカードのバーコードを勤怠を管理している端末に翳し、素早くパーカーと荷物を持ってロッカールームから出た。
「お待たせしました」
「大丈夫よ」
柔らかく微笑みながら渡辺は椅子から立ち上がり、トートバッグを肩にかける。黒地に二匹の猫が並んだ絵柄は、目が合うたびに心が和んだ。
二人で並んで未だに作業をする館長を振り返る。
「館長、お先に失礼します」
「お疲れさまでした」
「お疲れ~」
まだ帰るつもりはないのか、ノートパソコンから視線も指も離さずに挨拶を返してきた。
図書館館長というのは中々に忙しい職種らしい。館長が定時で帰っているのを一度も見たことがない。何でも、守衛が最終の見回りに来る二十二時までは仕事ができるそうだ。
本人は仕事が恋人だと笑っていたが、正直笑えない。身体を壊さないことを祈るばかりだ。
スタッフ通用口から出ると、四月だというのに少し肌寒い風に頬を撫でられた。




