勇者はなぜ坊主になったのか
レオンが勢いよく立ち上がって言った。
「宿に戻るぞ」
その直後、ガルドは左手を押さえたまま立ち上がった。
指輪は赤く光っている。
長く。
しつこく。
「これ、外せねぇのか」
「外せるなら、もう外しています」
セシルが言った。
「壊すのは?」
「誓約魔術を力で壊すと、反動が来ます」
「どんな」
「相手に居場所が伝わるか、指が腫れるか、最悪の場合は約束の内容が強制執行されます」
ガルドは即座に手を離した。
「優しく扱う」
「賢明です」
レオンは扉へ向かおうとした。
だが、マダム・ヴェルダがその前に扇を差し出した。
「お待ちなさいませ」
「急いでいる」
「ええ。ですが、宿に戻る前に聞いておいた方がよろしいですわ」
ヴェルダの視線が、レオンの頭に向いた。
正確には、シーツで隠された頭に。
「昨夜、勇者様がなぜそのようなお姿になったのか」
レオンは無言でシーツを押さえた。
ガルドの目が、ぱっと輝いた。
「聞こう」
「お前、元気になったな」
「仲間の謎は大事だろ」
「笑う気だろ」
「少し」
「正直か」
セシルは額を押さえた。
「今は笑っている場合ではありません」
「でも必要な情報だろ?」
ガルドが言った。
「俺の時だけ散々聞いたんだから、レオンのも聞けよ」
それは正論だった。
嫌な正論だった。
レオンは深く息を吸った。
「分かった。話してくれ」
ヴェルダは満足そうに頷いた。
「女性専用区画で、戦士様は情報を得ました」
「走り回った結果ですね」
セシルが言った。
「走り回ったのは情報収集の一環だ」
ガルドが言った。
「違います」
「違いますわね」
レオンまで言った。
ガルドは黙った。
ヴェルダは続ける。
「イレーネ様から得た情報で、奥の保管金庫へ入るには、管理人の解除印と神殿系の質入れ記録が必要だと分かりました」
「神殿系」
レオンは低く呟いた。
さっきから頭の奥に引っかかっていた言葉だ。
神殿。
記録庫。
僧見習い。
剃髪。
つながってほしくない線が、少しずつ近づいてくる。
「裏カジノなのに、なぜ神殿が絡む」
「高価な聖遺物や祝福武具は、偽物対策のために神殿印で登録されます」
セシルが説明した。
「聖剣もその扱いです。普通の剣とは違いますから」
「なるほど」
レオンは頷いた。
そして、すぐに顔をしかめた。
「待て。つまり俺は、神殿に登録された聖剣を、裏カジノに質入れしたのか」
沈黙。
ガルドが小声で言った。
「罪が増えたな」
「増やすな」
「増えたのは事実です」
セシルが静かに言った。
「今、俺は何個怒られる予定なんだ」
「数えない方が心の平穏は守れます」
「宿の支配人みたいなことを言うな」
ヴェルダは扇で口元を隠していた。
とても楽しそうだった。
「神殿記録庫に入るには、神官か僧籍の者である必要があります」
「セシルがいるだろ」
ガルドが言った。
「私は昨夜、竜の封印維持で手が離せなかったのでしょう」
セシルは欠けた聖印を指で押さえた。
「それに、この聖印では正式な認証が通らない可能性があります」
「じゃあユージンは?」
レオンが聞いた。
「魔法使い様は管理人の解除印の方へ動いていましたわ」
ヴェルダが答える。
「同時に全部やらなければ、正午に間に合わないと判断されたようです」
レオンは嫌な予感を押し殺して言った。
「それで、俺が神殿記録庫へ?」
「ええ」
「勇者として入ればいいだろ」
ヴェルダはにこりとした。
「深夜でしたので」
「深夜だと?」
「正規の受付は閉まっております」
「なら、なおさら勇者の名で」
セシルが静かに首を振った。
「レオン。深夜に勇者本人が神殿記録庫へ来て、『自分が質入れした聖剣の記録を見せろ』と言ったら、どうなりますか」
レオンは口を閉じた。
想像した。
神官が叫ぶ。
記録官が走る。
王城に伝令が飛ぶ。
朝には王都中に広まる。
正午の表彰式では、聖剣を掲げる前に自分が掲げられる。
さらし者として。
「……変装が必要だな」
「はい」
セシルが言った。
「そして神殿記録庫に怪しまれず入れる身分は?」
ヴェルダが楽しそうに言った。
「夜番の僧見習い」
ガルドが噴き出した。
レオンは振り向いた。
「笑うな」
「まだ笑ってねぇ」
「今、息が漏れた」
「衝撃で呼吸が」
「それは禁止した」
ガルドは肩を震わせていた。
美少女の肩が震えているだけなら、可憐だった。
笑いをこらえている戦士だと思うと、腹立たしかった。
「それで」
レオンは自分の頭を押さえた。
「僧見習いになるために、なぜ剃る必要がある」
セシルが少し目を逸らした。
レオンはその反応を見逃さなかった。
「セシル」
「はい」
「なぜ目を逸らした」
「祈っていました」
「何を」
「説明が穏便に終わることを」
「最近そればかり祈っていないか」
「必要なので」
ヴェルダが答えた。
「神殿記録庫の夜番は、厳格な小修道会の管轄でした」
「小修道会?」
セシルが頷く。
「王都大神殿の中でも、古い規律を守る一派です。見習いは全員、頭を丸めます」
レオンは固まった。
ガルドが机に突っ伏した。
肩が震えている。
「ガルド」
「笑ってねぇ」
「顔を上げろ」
「無理だ」
「笑ってるじゃないか」
「少し」
「正直か!」
セシルが続けた。
「昨夜の私たちは、髪を隠す方法も考えたはずです」
「では、なぜ」
「おそらく、ユージンさんが言ったのでしょう」
ヴェルダが楽しそうに頷く。
「ええ。魔法使い様はこうおっしゃいました」
そこで、少し黙った。
嫌な間だった。
「『帽子でごまかすな。検査される。剃れ』と」
ガルドが耐えきれず吹き出した。
「はっはっはっはっは!」
レオンはモップを持ち上げた。
「殴るぞ」
「聖剣じゃなくてモップなのが余計に面白ぇ!」
「殴るぞ!」
「二人とも」
セシルの声が落ちた。
二人は黙った。
ヴェルダは満足そうだった。
「勇者様は最初、当然拒否なさいました」
「当たり前だ」
「『俺は勇者だぞ』と」
「言う」
「魔法使い様は、『だからバレたら終わるんだろ』と」
「正しい」
セシルが言った。
「仲間なら少しは俺側についてくれ」
「つきたいのですが、ユージンさんが正しいです」
「正しさが敵だ」
「そして僧侶様が、剃刀を持ちました」
レオンはゆっくりセシルを見た。
セシルは、さらに目を逸らした。
「セシル」
「はい」
「君が剃ったのか」
「状況から考えて、おそらく」
「おそらく?」
「記憶がありません」
「ずるい」
「ですが、見てください」
セシルはレオンのシーツを少し持ち上げた。
「やめろ!」
ガルドが覗き込もうとした。
「見るな!」
一瞬だけ露出した頭は、完璧だった。
ムラがない。
後頭部まできっちり。
職人技だった。
セシルは静かにシーツを戻した。
「私ですね」
「認めた!」
「この仕上がりは、旅の途中で傷口の周りを剃った時の手つきに近いです」
「もっと嫌な認め方をするな!」
ガルドは腹を抱えていた。
「だめだ、無理だ、完璧な坊主って言葉だけで笑える」
「お前も完璧な美少女だぞ」
ガルドの笑いが止まった。
「やめろ」
「どうだ」
「効く」
「だろう」
セシルは無表情で言った。
「二人とも、同じくらい悲惨です」
「俺の方が悲惨だ」
レオンとガルドが同時に言った。
そして睨み合った。
「俺は髪だぞ」
「俺は全身だぞ」
「俺は勇者の威厳が死んだ」
「俺は性別が迷子だ」
「俺は表彰式で冠を取る」
「俺は婚約者が来る!」
セシルが手を叩いた。
「どちらも最悪です」
二人は黙った。
正論だった。
ヴェルダは楽しそうに続ける。
「剃髪後、勇者様は僧見習いの服を着せられました」
「似合っていたか」
ガルドが聞いた。
「なぜ聞く」
レオンが睨む。
「情報確認だ」
ヴェルダは微笑んだ。
「たいへん清らかに見えましたわ」
ガルドが再び机に沈んだ。
「やめろ、絵が浮かぶ」
「俺だってお前の応接室三周が浮かんでいる」
「相打ちにすんな!」
「では、昨夜の僧見習いレオンは神殿記録庫へ?」
セシルが聞いた。
「ええ」
ヴェルダは帳簿を閉じた。
「ここから先は、私が直接見たわけではありません。ただ、戻ってきた時の様子と、残された書類で分かります」
「何があった」
「神殿記録庫には入れたようです」
レオンは少しだけ息をついた。
「よかった」
「ですが、そこで一つ問題が」
「またか」
「僧見習いの証が必要でした」
「服だけでは駄目だったのか」
「ええ。記録庫の中に入るには、夜番用の仮聖印が必要でした」
セシルが顔をしかめる。
「仮聖印は、神殿内部の見習いしか持ちません」
「どうしたんだ」
ヴェルダはセシルを見た。
「僧侶様が、自分の聖印から一時的に祝福を分けたようです」
セシルは胸元の欠けた聖印を握った。
「……それで欠けた」
「竜の封印維持に、変身補助に、仮聖印の作成」
ヴェルダは指を折る。
「昨夜の僧侶様は、実によく働いておられました」
セシルは笑わなかった。
レオンもガルドも、そこで少し黙った。
セシルの聖印が欠けた理由は、まだ全部ではない。
けれど、その一部は見えた。
彼女は昨夜、誰よりもまともに後始末をしていた。
たぶん、ずっと。
「セシル」
レオンが言った。
「すまない」
ガルドも小さく言った。
「俺も、すまん」
セシルは二人を見た。
そして、にっこりした。
「謝罪は後でまとめて受け取ります」
「後で何があるんだ」
ガルドが怯えた。
「説教です」
「今じゃ駄目か?」
「時間がありません」
「説教の予約って怖ぇな」
レオンは話を戻した。
「記録庫で何を得た」
「質入れ記録と、保管解除に必要な印の所在ですわ」
ヴェルダが答える。
「それで聖剣は戻せるのか」
「いいえ」
「いいえ?」
「それはまだ、手順の一部です」
レオンは頭を抱えた。
「一体いくつ手順があるんだ」
「聖剣ですもの」
「便利に言うな」
「まず、質入れ記録を確認する。次に保管解除印を得る。さらに管理人の認証を受ける。そして最後に、勇者本人の聖剣として再認証する」
「最後の再認証?」
セシルが反応した。
「表彰式の祭壇ですね」
ヴェルダは頷いた。
「魔法使い様は、そう判断していたようです」
「なぜユージンがそこまで」
レオンが呟く。
「いや、分かる。あいつはそういうやつだ」
説明は足りない。
口は悪い。
だが、手順だけは正しい。
そして今、いない。
「昨夜の俺たちは、記録庫から戻った後、どうした」
ヴェルダは少しだけ笑みを消した。
「聖剣の本体は、まだ奥の保管金庫にありました。解除印も完全ではない。表彰式まで時間もない。そこで魔法使い様は、二つの対策を取りました」
「二つ?」
「一つは、朝までに本物を取り戻すための単独行動」
「ユージンが消えた理由か」
「おそらく」
「もう一つは?」
ヴェルダは、レオンの隣に置かれていたモップを見た。
正確には、いまもレオンがなぜか手放せずに持っているモップを。
「聖剣がないことをごまかすための、偽装品ですわ」
レオンはモップを見た。
軽い。
少し湿っている。
あまりにも頼りない。
「これか」
「はい」
ガルドが眉を寄せた。
「でも、ただのモップだろ」
「ただのモップではありません」
ヴェルダはにっこりした。
「魔法使い様が、聖剣に見えるよう偽装をかけたモップです」
三人はモップを見た。
どう見てもモップだった。
「見えてないぞ」
ガルドが言った。
「今は魔力が切れていますので」
「大事なところで切れるなよ」
とレオンが言った。
セシルが眉を寄せる。
「でも、それなら宿の侍従や王城の確認を一時的にごまかせます」
「それで部屋に置いてあったのか」
「ええ」
ヴェルダは言った。
「昨夜、魔法使い様は『朝までこれで持たせろ。俺が本物を取りに行く』と」
レオンは息を止めた。
ユージン。
逃げたわけではない。
自分たちが寝落ちした後、あいつは一人で動いた。
聖剣を取り戻すために。
そして、まだ戻っていない。
「なぜ、俺たちに説明しなかった」
ガルドが言った。
「説明しても、あなた方は覚えていないでしょう?」
ヴェルダが言った。
誰も言い返せなかった。
「それで」
セシルが静かに言った。
「ユージンさんは、今どこに」
「それは私にも分かりません」
ヴェルダは答えた。
「ただ、魔法使い様は奥の保管金庫へ向かったはずです。そこから先は、裏カジノの通常の管理外です」
「通常の管理外?」
「旧搬送路ですわ」
レオンは顔を上げた。
「旧搬送路」
「かつて神殿と王城の保管庫をつないでいた地下通路。今はほとんど使われておりません」
セシルの表情が険しくなる。
「危険な場所です」
「ええ」
ヴェルダは頷いた。
「だからこそ、隠し物には向いている」
その時、廊下の奥から慌ただしい足音が響いた。
黒服の男が駆け込んでくる。
「マダム」
「何事です」
「《白銀の鹿亭》より使いが」
三人が同時に振り向いた。
宿。
中庭のドラゴン。
イレーネの使い。
嫌なものが全部そこにある。
黒服の男は息を整えて言った。
「宿の中庭で、竜が暴れかけています」
セシルの顔色が変わった。
「グラニスが?」
「さらに、オルフェリア侯爵家の使者が宿に到着したと」
ガルドの左手の指輪が赤く光った。
「来た」
レオンはシーツ頭を押さえた。
「戻るぞ」
「待ってください」
セシルが言った。
「ユージンさんの手掛かりは旧搬送路。でも宿では竜とイレーネ様。両方同時には無理です」
「ではどうする」
一瞬、三人は黙った。
窓のない裏カジノの奥で、時間だけが進んでいる。
正午の表彰式まで、もうあまりない。
レオンはモップを握りしめた。
「まず宿だ。ドラゴンが暴れたら、表彰式どころじゃない」
ガルドも頷いた。
「あと、俺の婚約者もいる」
「認めたんですか」
セシルが言った。
「違う! 言葉の綾だ!」
「今のは記録しておきます」
「するな!」
ヴェルダは扇で口元を隠し、楽しそうに言った。
「勇者様」
「なんだ」
「頭の布、少しずれていますわ」
レオンは慌ててシーツを押さえた。
ガルドが笑った。
「坊主が出るぞ」
「お前は婚約者が来るぞ」
ガルドの笑いが止まった。
セシルが二人の背中を押した。
「走ります」
「どこへ」
「宿です」
「その後は?」
セシルは欠けた聖印を握りしめた。
「その後で、旧搬送路へ向かいます」
レオンは頷いた。
ユージンを探す。
聖剣を取り戻す。
表彰式までに、すべてを戻す。
ただし、髪だけはもう戻りそうになかった。
三人は裏カジノを飛び出した。
背後で、マダム・ヴェルダの笑い声が響く。
「またのお越しを」
レオンは走りながら叫んだ。
「もう来ない!」
ガルドが叫ぶ。
「俺も来ない!」
セシルが言った。
「その言葉、昨夜も言っていそうですね」
二人は何も言い返せなかった。




