魔法使いだけが勝ちすぎた夜
「まさか、あそこまで勝つなんて」
マダム・ヴェルダは、心底楽しそうに言った。
レオンは頭に巻いたシーツを押さえた。
ガルドは美少女の姿で腕を組んだ。
セシルは笑っていなかった。
一人だけ、まったく笑っていなかった。
「勝った?」
レオンが聞き返す。
「誰が」
「魔法使い様ですわ」
ヴェルダは扇を開いた。
「昨夜のお仲間の中で、あの方だけは少々、様子がおかしかった」
「ユージンはいつも様子がおかしいぞ」
ガルドが言った。
「黙ってください」
セシルが即座に刺した。
「今のは冗談だろ」
「今は笑う場面ではありません」
「俺の姿は笑う場面だろ」
「それも後で怒ります」
「後で怒る量が多すぎねぇか?」
レオンはヴェルダを見た。
「ユージンはここに来たのか」
「ええ」
ヴェルダは赤い革表紙の帳簿を閉じ、指先で卓を叩いた。
「勇者様が一度お帰りになった後、今度は四名でお戻りになりました」
「四名」
「ええ。勇者様、戦士様、僧侶様、魔法使い様」
セシルが静かに息を吐いた。
「やはり、私たちは来ていたんですね」
「大変目立っておりましたわ」
「変装していませんでしたか」
ヴェルダの目が、レオンのシーツ頭へ向いた。
「しておりました」
レオンは嫌な予感がした。
「俺は、どんな格好だった」
「上等な旅商人のふりをしておいででした。聖剣を失ったばかりのわりには、胸を張って」
「やめてくれ」
「ガルドさんは?」
セシルが聞いた。
ヴェルダはガルドを見た。
今の美少女姿ではなく、昨夜の男の姿を思い出すように目を細める。
「荷運びの用心棒、というところでしたわね。口を開かなければ、たいそう迫力がありました」
「口を開いたら?」
「『殴れば早い』と」
セシルがガルドを見た。
ガルドは目を逸らした。
「覚えてねぇ」
「覚えていなくても、言いそうです」
「言いそうだからって言ったことにすんな」
「言ったそうです」
「くそ」
レオンは口元を押さえた。
「セシルは?」
ヴェルダは少しだけ笑みを深めた。
「帳簿係ですわ。誰よりも場に馴染んでおりました」
セシルの眉がぴくりと動く。
「どういう意味ですか」
「借金の額を聞いた瞬間、真顔で計算を始めておりましたから」
「それは私です」
「認めたぞ」
ガルドが小声で言った。
「黙ってください」
「はい」
「ユージンは?」
レオンが聞いた。
それだけで、場の空気が少し変わった。
ヴェルダは扇を閉じる。
「魔法使い様は、最初からお一人だけ冷静でしたわ」
「それは分かる」
「レオン様の質入れ記録を確認し、返済額を計算し、本券を確認し、こちらの規則も理解した」
「本券はその時あったのか」
「ええ。勇者様がお持ちでした」
三人の視線がレオンに集まった。
レオンは両手を上げる。
「今はない」
「それが問題です」
セシルが低く言った。
ヴェルダは続けた。
「魔法使い様は言いました。『金を作る。余計なことはするな』と」
「ユージンだ」
レオンとセシルが同時に言った。
ガルドも頷いた。
「それはユージンだな」
「そして、皆様は賭場へ戻られた」
ヴェルダが手を鳴らすと、黒服の男が奥の卓に布をかけた。
そこには、昨夜のまま残されていたらしい札の跡があった。
赤と黒。
数字。
銀貨の擦れた跡。
そして、焦げたような細い線。
レオンはその焦げ跡を見た瞬間、少しだけ胸がざわついた。
「これは」
「魔法の跡ではありません」
ヴェルダが先に言った。
「うちは不正に厳しいので」
「なら、何だ」
「魔法使い様の指先から、何度か火花が落ちましたの」
セシルの顔色が変わった。
「禁呪の反動……」
「反動?」
ヴェルダが楽しそうに首を傾げる。
「詳しい事情は存じません。ただ、あの方は昨夜、賭ける前に必ず目を閉じていました」
レオンは、昨日の戦いを思い出した。
ユージンの黒いローブ。
魔王の核へ伸びた光。
世界の終わりを反転させた禁呪。
その直後のユージンは、立っているのがやっとだった。
それなのに昨夜、ここに来ていた。
「それで勝ったのか」
「ええ」
ヴェルダは卓に置かれた札を一枚つまんだ。
「最初は少額でした。勇者様の負けを取り返すだけのつもりだったのでしょう」
「その言い方やめてくれ」
「事実ですわ」
「はい」
「一度目、勝ち。二度目、勝ち。三度目も勝ち」
ヴェルダは札を一枚ずつ置いていく。
軽い音が、やけに大きく聞こえた。
「そのうち周りの客が騒ぎ始めました。けれど魔法の不正は見つからない。札にも盤にも手を触れない。ただ、選ぶ。選んだ方が、必ず当たる」
ガルドがぽかんとした。
「なんだそれ。未来でも見えてたのか?」
「違います」
セシルが言った。
「たぶん、終末反転の余波です」
「なんだよそれ」
「昨日、ユージンさんは世界の終わりを一度見ています。終わるはずだった流れを、無理やり曲げた。そのせいで、短時間だけ“悪い結果を避ける感覚”が残っていたのかもしれません」
「それ、賭けで最強じゃねぇか」
「だから危ないんです」
セシルの声が硬くなる。
「そんなもの、本人の身体に負担がないはずがありません」
レオンは卓に残った焦げ跡を見つめた。
「ユージンは、どんな様子だった」
ヴェルダは少し考える。
「顔色は最悪。手は震えていました。ですが、口だけは達者でしたわ」
「何て言っていた」
「『お前たちは座るな。飲むな。喋るな。特に勇者、お前は何も持つな』と」
ガルドが吹き出した。
レオンは黙った。
反論できなかった。
セシルが小さく頷く。
「的確です」
「仲間だろ、少しは庇え」
「庇える材料をください」
「ない」
「では無理です」
ヴェルダは楽しそうに笑った。
「けれど、勇者様は黙っておりませんでした」
「俺か」
「はい。『俺にも挽回させてくれ』と」
レオンは両手で顔を覆った。
シーツが少しずれた。
セシルが無言で直した。
やはり強かった。
「痛い」
「反省してください」
「している」
「足りません」
ガルドが卓を覗き込んだ。
「で、どれくらい勝ったんだ」
「最初の負け分を取り戻し、聖剣の受け戻しに必要な額を超え、さらに倍」
「倍?」
「ええ。最終的には、昨夜の店の卓一つ分を空にしましたわ」
「すげぇじゃねぇか!」
ガルドの目が輝いた。
セシルがその足を踏んだ。
「痛っ!」
「そこで感心しない」
「でも勝ったんだろ」
「勝ったから問題が大きくなったんです」
「勝って問題が大きくなることあるか?」
レオンとセシルが同時に言った。
「ある」
ガルドは黙った。
ヴェルダが赤い扉の方へ視線を流す。
「皆様、本来ならそこで帰れました」
その言葉で、三人の表情が変わった。
「金はあった」
レオンが言う。
「本券もあった」
セシルが続ける。
「聖剣を返してもらえた」
ガルドが最後に言った。
ヴェルダは頷いた。
「ええ。本来なら」
沈黙が落ちた。
カジノの奥で、寝ていた客の一人が寝返りを打った。
空の杯がかたりと鳴る。
レオンは、喉の奥に苦いものが広がるのを感じた。
そこで帰っていれば。
聖剣は戻っていた。
ユージンも消えていなかったかもしれない。
ガルドは男のままだったかもしれない。
中庭にドラゴンもいなかったかもしれない。
そして自分は。
いや、髪はどうだろう。
そこは少し分からない。
「なぜ帰らなかった」
セシルが聞いた。
声が低かった。
ヴェルダは扇で赤い扉を指した。
「理由は二つあります」
「二つ?」
「一つ目は、勝ちすぎたこと」
「勝つと何が悪い」
ガルドが聞いた。
ヴェルダは笑った。
「人は勝つと、自分が賢くなったと勘違いしますの」
ガルドが黙った。
レオンも黙った。
刺さった。
かなり刺さった。
「二つ目は」
ヴェルダは赤い扉へ歩き出した。
「昨夜、この奥で特別競売がありました」
ガルドの顔が少し上がる。
セシルがそれを見逃さなかった。
「ガルドさん」
「まだ何も言ってねぇ」
「顔が言っています」
「この顔は俺のじゃねぇ」
「その言い訳は一回までです」
ガルドは唇を噛んだ。
美少女の顔でそれをやると妙に悔しそうに見えた。
レオンは赤い扉を見た。
金の縁取り。
重そうな錠前。
赤い鳥の紋章。
昨夜、自分たちはその扉の向こうへ行った。
聖剣を取り戻せる金を持って。
本券も持って。
なのに帰らなかった。
「ユージンは止めなかったのか」
レオンが聞いた。
ヴェルダは振り返った。
「止めておりましたわ」
「だよな」
レオンは少しだけ安心した。
少しだけ。
「どんなふうに」
「『帰るぞ。今すぐ帰るぞ。お前ら本当に帰るぞ。聞け。聞けと言っている』と」
三人は黙った。
「なのに帰らなかったのか」
「ええ」
「誰が言い出した」
ヴェルダの視線が、ゆっくりガルドへ向いた。
ガルドが一歩下がる。
「俺か?」
「正確には、戦士様が最初に扉を見ました」
「見ただけだろ」
「そして、こうおっしゃいました」
ヴェルダは口元を扇で隠す。
「『特別ってなんだ。見るだけならタダだろ』」
レオンが目を閉じた。
セシルも目を閉じた。
ガルドは天井を見た。
「……言いそうだな」
「言いそうではなく、言ったのです」
セシルが言った。
「記憶にねぇ」
「都合の悪い記憶だけ消えていますね」
「全部消えてるだろ!」
「都合の悪いものしか残っていない状況です」
レオンは赤い扉から目を離せなかった。
「見るだけならタダ」
その言葉ほど信用できない言葉はない。
魔王軍の罠にも似たような文句があった気がする。
「それで中に?」
「ええ。最初は見るだけでした」
ヴェルダは扉の前に立つ。
「この扉の向こうでは、表の市に出せない品を扱います。危険なもの、珍しいもの、誰かの秘密、誰かの失敗」
「失敗も売るのか」
「高く売れますわ」
レオンは嫌な汗をかいた。
自分の失敗も、今まさに高く売られている気がする。
セシルが一歩前に出た。
「その競売に、私たちは何を買いに行ったんですか」
「最初は、何も」
ヴェルダは静かに言った。
「ただ、聖剣の保管先が変更されると聞いたのです」
レオンの目が鋭くなった。
「保管先?」
「ええ。聖剣のような高価な担保品は、通常金庫ではなく奥の保管金庫へ移されます。競売場の向こう側にある、特別保管庫へ」
セシルが質札を握る。
「それで中に入る必要があった」
「そうですわ。魔法使い様は、保管経路だけ確認して帰るつもりでした」
「ユージンらしい」
レオンは呟いた。
「でも帰らなかった」
「ええ」
ヴェルダは扉に指を添えた。
「その夜の特別競売には、目玉がありましたから」
ガルドが喉を鳴らした。
「目玉」
「ガルドさん」
セシルが言う。
「黙ってろ。俺は今、何も言ってねぇ」
「喉が鳴りました」
「腹かもしれねぇだろ」
「さっき肉を食べました」
「消化が早い身体なんだよ」
レオンは額を押さえた。
「それで、目玉は何だった」
ヴェルダは答えなかった。
代わりに、黒服の男に目配せする。
男が赤い扉を少しだけ開けた。
隙間から、奥の空気が流れてくる。
香油と金貨の匂い。
そして、焦げた獣のような匂い。
レオンの背筋が冷えた。
ガルドの目が、はっきり輝いた。
セシルがそれを見て、頭を抱えた。
「ガルドさん」
「俺は知らねえ」
「もういいです」
「くそ」
ヴェルダは楽しそうに笑った。
「ですが、そのお話は次にいたしましょう」
「待て」
レオンが言った。
「ユージンの勝ち分はどうなった」
「それも、次の話に含まれますわ」
「本券は?」
「競売場に入る時点では、勇者様がお持ちでした」
「その後は?」
ヴェルダは扇で口元を隠した。
「皆様が調子に乗ってから、少し話がややこしくなりますの」
セシルの目が冷たくなった。
「誰が調子に乗ったんですか」
ヴェルダは微笑んだ。
「全員ですわ。僧侶様以外は」
セシルは目を閉じた。
「でしょうね」
「いや待て」
ガルドが抗議した。
「俺はまだ何も認めてねぇ」
「では、認める準備をしておいてください」
「何のだよ」
ヴェルダは赤い扉を閉めた。
重い音がした。
その音だけで、昨夜の自分たちが戻れないところへ足を踏み入れたのだと分かった。
レオンは唇を噛む。
魔王は倒した。
世界は救った。
聖剣を質に入れた。
それを取り返せるだけの金も、昨夜一度は手にしていた。
なのに、まだ聖剣は戻っていない。
理由は、あの扉の向こうにある。
ヴェルダは扇を閉じた。
「昨夜の目玉は、S級竜種でした」




