帝国なんか行かない
今回は長文です
区切る場所がみつかりませんでした
「お嬢様、お目覚めでございますか? 入りますよ。ずいぶん遅くまでお休みでございましたね」
メイドが部屋をノックして入ってくる。
身支度を整え、髪を梳かしてもらっている最中、メイドは嬉しそうに言った。
「お嬢様が隣国の皇帝陛下の娘君だったなんて……すごいことです。本当にようございました」
メイドは目に涙を浮かべている。
「今まで、ひどいことを言われ続けてきて……本当に心苦しく思っておりました。ですがお嬢様は凛として、それをはねつけてこられました。ご立派でございました。その日々が、やっと報われるのですね」
感極まったのか、メイドは手を止め、エプロンで顔を覆って泣き出してしまった。
「えっ? もうそのような話が伝わっているのですか?」
ターシャは目を見張った。
「はい。今朝、執事様からお達しがありました。ターシャ様は皇帝陛下の娘君であることが判明したため、帝国に引き取られる。その準備をせよ、とのことでした」
メイドは涙を拭いながら答える。
「わ、私……」
ターシャは口をぱくぱくさせた。
何ということだろう。
自分の気持ちなどまるで関係のないところで、もう話が進んでしまっている。
時間をくれるのではなかったのか。
父はあんなに反対してくれていたではないか。
――なんで?
ターシャはとっさに立ち上がり、髪を整えぬまま父のもとへ向かった。
階段を駆け下り、扉の前に立つ執事を押しのける。
そしてリビングの扉を自らこじ開け、父の姿を見つけるなり叫んだ。
「お父様! 私はどこにも行きたくありません!! 何を言われても平気です。私はお父様の娘です。絶対にどこにも行きません!」
「ターシャ、落ち着きなさい。客人が来ている」
父にそう言われ、はっとする。
そこには、フェルネス叔父様と、もう一人――昨日会った皇太子がソファーに座っていた。
ターシャは目を見開いたまま、三人を見つめて固まってしまう。
「ターシャ、こちらへ来なさい」
フェルネスに呼ばれた。
ターシャは思わず父のそばへ行こうとする。
だが父は、それを手で制した。
「ターシャ……私はもう、そなたの父ではない……」
父は力なく、遠くを見るような目でそう言った。
その言葉を聞いた瞬間、ターシャの足が止まる。
目から涙がどっとあふれた。
「な、なんで……」
フェルネスが立ち上がり、ターシャを抱き上げる。
そしてハンカチで涙を拭った。
「昨夜のうちに、隣国の皇帝陛下から『我が娘の帰還を待つ』という伝令が来た。そなたはもうこの家の人間ではなく、皇帝の娘となったのだ」
「私は知らない! わからない! 皇帝陛下なんて知らない! 私のお父様はお父様だけ! 帝国なんて行きたくない!」
皇太子が口を開いた。
「そうであろう。幼いそなたには理解できぬことだろう。だが、そなたを探し続けていた私の母の気持ちを、少しだけでも考えてみてくれないか?」
それを引き継ぐように、フェルネスが言う。
「ターシャ、皇国には私が供として一緒について行くことになった。少しは安心してくれ」
「え? 叔父様が?」
「しばらくは一緒にいられる。それで耐えてはくれぬか?」
「しばらく?」
「ああ。そなたが皇国の暮らしに慣れるよう尽力する。その間だ」
「なぜ叔父様まで私をここから追い出そうとするの?」
「私は、そなたを本来そなたがいるべき場所へ帰したいだけだ。それ以下でもそれ以上でもない」
「意味がわかりません!」
ターシャは抱き上げられたまま、フェルネスの胸を叩いた。
皇太子が静かに言う。
「ターシャちゃん。そなたは、母と私の命の恩人の娘なのだ」
ターシャは泣きながら皇太子を見た。
「七年前、我が国で内乱が起きた。監禁され、身重であった母と私を救い出してくれたのがクラウス殿だった。私は母のことだけで精一杯で、クラウスという名前以外はよく覚えていない」
皇太子は少し目を伏せる。
「城へ向かう途中で、母が産気づいてしまった。飛竜で移動していたが、それ以上飛ぶことができなくなり、我々は近くの村へ降り立った」
「クラウス殿は村の女たちに母を任せ、子供で無力だった私を母につき添わせ、一人で追ってきた反逆者たちと戦った。だが、村を守りながらの戦いは、大空間での戦闘魔法を得意とするクラウス殿にはあまりに不利だった……」
皇太子の目から涙があふれた。
「何とか敵を全滅させたものの……致命傷を負ってしまった。そして赤ん坊は生まれたが、お腹の中ですでに息絶えていた」
その場にいた全員が息をのむ。
「母は監禁されていた疲労と出産で意識がもうろうとしており、命も危なかった。治療法もなく、ただ母の気力に頼るしかなかった。生まれた子のことをしきりに気にしていたが、村の女たちも私も真実を言えなかった」
皇太子は声を震わせながら続けた。
「その時、クラウス殿が母のそばへ来てこう言ったのだ。
『ご安心ください。かわいい女の子です。私の手の者が隣国へ逃がすべく連れて行きました。信頼できる者です。大丈夫です。だから気をしっかり持って、生きてください。生きてさえいれば、必ず再会できます』と」
「自分も重傷で、息も絶え絶えだったのに……」
皇太子は目元を押さえた。
「その直後にフェルネスが援軍を連れて駆けつけたのだが、間に合わなかった。クラウス殿は、私と妹を父のもとへ連れて行ってほしいと託した。そしてフェルネスに、自分のしていた指輪を外し、誰かに渡してくれと頼み……息を引き取った」
フェルネスもわずかに肩を震わせていた。
皇太子は少し息を整えてから、再び話し始める。
「軍医がいたから、母の警護を副官に任せ、私はフェルネスの飛行魔獣で城へ帰った。父に事情を話し、妹の亡骸を抱いてもらった……」
「父は弔いの準備を指示し、すぐに母のもとへ向かった。その時、私はフェルネスに頼んだのだ。あのクラウスという騎士を嘘つきにしないでほしい。妹は生きていて、あなたが連れて帰ったことにしてほしい、と」
フェルネスの目も少し赤くなっている。
「そして私は、自分の耳についていた耳飾りを外し、『妹の代わり』としてフェルネスに渡した。フェルネスは耳飾りとともに帰路についた。亡くなった赤子は、侍女が父の指示どおり埋葬してくれた。母が落ち着いたら真実を話すつもりだったが……結局……話せなかった……」
続けてフェルネスが口を開く。
「私は国へ帰り、クラウス兄上の死を知らせるため姉のところへ向かった。すると姉は身ごもっていた。そしてクラウス兄上の死を知り、衝撃で予定より早く産気づいてしまった」
「それで生まれたのが、そなただ。そなたの体が小さいのは、予定より早く生まれてしまったからなのだ」
皇太子が言葉を継ぐ。
「私はここへ来てフェルネスと再会し、その話を聞き、そなたは妹の生まれ変わりではないかと思った。だから伯父上からの提案にも乗った」
ターシャは涙に濡れた顔で尋ねる。
「では皇帝陛下は、私が本物の娘ではないと知った上で、娘にしようとしているのですか?」
「そうだ。どちらにしても、私たち親子を救ってくれた大恩人の娘だと、伯父上から内々に聞いていた。だから最初から引き取るつもりだった」
皇太子はターシャを見る。
「伯父上からは『親族で、孤児になってしまった皇族によく似た髪色と瞳の娘がいる』とも聞いていた。ターシャちゃんと会った時、あの耳飾りをつけていたのには本当に驚いた」
「それは、皇族の血が流れていない者にはつけられないのだ。現に、自分では外せないであろう? 外すには特殊な魔法が必要だ」
ターシャはとっさに耳に手をやった。
「なぜそなたがその耳飾りをつけられたのかはわからぬ。だが、とにかく帝国に引き取られることは確定していたのだ」
フェルネスが話を引き継ぐ。
「そなたにはまだ難しかろう。だが、そなたが皇族の血筋を持っていることは間違いない。行かねばならぬ」
「娘は生きている――それだけを頼りに生きてきた皇后陛下に寄り添ってほしいのだ。皇后陛下は内乱の時に大変な苦労をされた。その心の傷は今も残っておられる。娘に会えぬ苦しみも、ずっと抱えてこられた」
そして少し厳しい声になる。
「それも、そなたの実の父クラウス兄上の嘘の励ましが原因だ。そなたは父親の責任を取らねばならない」
自分が生まれる前に亡くなってしまった父の責任を?
ターシャは納得できなかった。
「責任なのですか?」
「そうだ。責任だ」
「おいおい、そんな言い方はあるまい。この子にはあずかり知らぬことではないか」
皇太子が口をはさむ。
するとエリアスがそっとレオンハルトの肩に手を置き、耳元でささやいた。
「そういう説得をしないと、この子は聞かない。連れて帰りたいのであれば、あれに任せなさい」
皇太子はターシャに向き直った。
「その耳飾りは、誰につけてもらったのだ?」
「えっと……」
ターシャは下を向く。
「覚えていません。自分で勝手につけてしまったようです。母やメイドたちが『他国の姫君の形見だから』と必死に外そうとしたそうですが、どうしても取れなくて、そのままだったそうです……」
「それなら、やはりそなたの責任だな。帝国へ一緒に行こう。私はそなたの兄になる。妹として大事にすると誓う」
兄。
その言葉に、ターシャは思わず叫んだ。
「私の兄はお兄様だけです! 他に兄はいません!」
フェルネスが「しまった」という顔をする。
「お兄様?」
皇太子が怪訝そうに眉をひそめた。
「この子には兄がいるのか? 聞いていないぞ。その子もクラウス殿の子供か?」
フェルネスとエリアスは顔を見合わせる。
「その話はまた後ほど……。ターシャ、何度も説明しているだろう。あの子はあと数年帰ってこられない。ここにいても、すぐに会えるわけではない」
「帰ってくるもん! 約束したもん! 絶対に休みには帰ってくるって! 約束した!」
大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
もう皇族の血筋だとか、帝国だとか、そんなことはどうでもよかった。
フェルネスの腕を振りほどき、床に立つ。
そして地団駄を踏んだ。
「みんな大嫌い! お父様も叔父様も! 嫌い! 嫌い! 嫌い!!」
握りこぶしをぎゅっと握りしめ、顔を真っ赤にして叫ぶ。
あまりの騒ぎに、屋敷の者たちが駆け寄ってくる音がした。
その泣き叫ぶ姿を見て、皇太子がふっと笑った。
「年の割にずいぶん大人びた子だと思っていたが……やはりまだまだ幼いのだな。何だか安心したぞ。かわいいではないか」
そう言って目を細める。
「申し訳ありません、皇太子殿下。兄のこととなると、どうしても聞かなくて……。こうなると手がつけられません。しばらく放っておくしかありません」
フェルネスが皇太子に頭を下げる。
そこへ、年配のメイドが傍に寄り、優しくターシャの髪をなでながら声をかけた。
「お兄様はご事情があって、今は帰ってこられないのです。ターシャ様のことを忘れるはずがございません。どうか落ち着いてくださいませ」
そして、やんわりと諭す。
「そんなふうにだだをこねて泣いているところを、お兄様に知られたらどう思われますことやら。お約束なさいましたでしょう? いい子で待つと」
しゃくりあげながら、ターシャの体から力が抜けていく。
そしてメイドに寄りかかったまま、うとうとと眠り始めた。
「あの魔法が男の私には使えぬ……残念だ」
フェルネスが小さくつぶやく。
そのままメイドはターシャを抱きかかえようとした。
だが、その場へ公爵夫人が現れ、三人をきっとにらみつけた。
「しっかりしているようでも、まだまだ小さい子なのですよ。大の男が三人がかりで、一体何をしているのです!」
白髪交じりのこげ茶の髪を上品に結い、薄い茶色の瞳をした夫人は、どことなくエリアスに似た顔立ちをしている。
「この子には母親が必要です。お母様ができたのだと言い聞かせなさい。フェルネス様、よろしいですね?」
フェルネスは何も言えなかった。
「あなたがこの子をとても大事にしてきたのはわかっています。ですが、男のあなたでは限界があるのです。今回のことでもわかったでしょう?」
フェルネスは素直にうなずくしかなかった。
――私にもこういう母が欲しかったな。
そんな思いが胸をよぎる。
姉上も厳しかったけれど……義兄上はうらやましい。
ふと、その顔に笑みが浮かんだ。
「本当にわかっていらっしゃるの?」
「はい。男の私にどこまでできるかはわかりませんが、できる限りのことはいたします」
フェルネスは姿勢を正し、神妙な面持ちで答えた。
そして、メイドにもたれてうとうとしているターシャを抱き上げる。
小さな手がフェルネスの首の後ろへ回ってきた。
「この子は絶対に幸せにします。私の命をかけて」
フェルネスはターシャの寝顔を見つめながら、心の中で誓う。
――姉上、クラウス兄上。どうか見守っていてください。
フェルネスは夫人に頭が全くあがりません




