第五話<逃走>
手足を縛られた状態で僕は椅子に座らされていた。
などということはなく。
僕はベッドの上に寝ていた。もちろん、自宅のものではなく見知らぬベッドの上で、だが。
「お目覚めですか」
デジャブを感じる。ちょっと前にもこんな状況になった。そのときは病院だったがここはどこだろう。
時間がどれだけ経ったかも分からない。閉め切られたカーテンから光が零れている。まだ夕方にはなっていないはずだがはっきりとは分からない。
もう体も動くし、声を出すことにも問題はなさそうだった。
僕は体を起こして目の前の老紳士に警戒態勢をとる。この部屋の脱出口であるドアは老紳士の向こう側だ。どうやって逃げたものか。
「少々手荒な真似をしてしまい、申し訳ありません」
「僕をどうするつもりですか」
「どうするって、どうもしませんよ。ただ、貴方に真実を教えて差し上げよう。そう思っただけです」
「真実?」
目の前の男が、人柄の良い老紳士から胡散臭いペテン師に変貌を遂げる。僕にはそうとしか見えなかった。
「胡散臭い、とでも思っているのでしょう。たしかに突然真実などと言われればそう思ってしまうのも仕方ないかもしれません。そこを見てみてください」
ペテン師は後ろで手を組み、窓に近寄ってカーテンを少しだけずらして外が見えるようにした。
彼が移動したことで、僕とドアを結ぶ直線上に邪魔者はいなくなった。隙を見て逃げ出す方法は何かないだろうか。
「逃げたければ、逃げて下さい。ただ、別の人が君を拘束するでしょうがね」
「さっきの奈都美とかいう女の子ですか。ドアの外で待ち伏せしているんですか」
「違いますよ。奈都美くんは今外を見張ってくれています。ほら、そこにいる人からね」
もし万全を期するのであれば、間違いなく先ほどの奈都美という女性をこの部屋もしくは部屋の外に置いておくはずだ。
彼が言葉の駆け引きで僕をこの部屋に留めておく必要はない。それ以前に寝ている間に僕を拘束することだって出来た。
そうしてないことを考えると、彼の言葉が嘘ではないように思えてきた。
僕は松葉を信じ、その横に立って彼の指差す方向を見る。この真夏の時期だというのに、スーツ姿で木にもたれかかっている二人組が見えた。タバコの煙をぷかぷかと浮かばせながら、こちらをちらちらと窺っている。
川と石垣も見えた。僕は先ほどのカフェから移動させられたわけではなかった。高い位置から川が見えるということは二階もしくは三階であろうか。
「あの二人組は?」
「警察ですよ。国の人間」
「警察がなぜここに? 何か悪いことでも?」
「貴方をずっとつけていたんでしょう。気付きませんでした。私の落ち度です」
松葉は頭を抱えて首を振る。
なぜ僕がつけられているのか。その理由が分からなかった。
「なん――」
「貴方が『観察保護対象』だから、ですよ」
僕が問いかけようとしたその声に被せるようにして、松葉はきっぱりと言い切る。
ここに連れて行かれるときもそうだった。まるで彼は僕の心を読んだかのように、先に言葉を紡ぐのだ。
「おや、気付いたようですね」
「……心を読めるんですか」
「読むという大層なものでもありません。基本的な感情だけです。人よりも他人の感情を受け取りやすいというだけですよ。感受性が豊かというのをもっと強くした感じですかねえ」
強くした。強くなったではなく。
「お察しの通りです。強く『した』のです。遺伝子操作でね」
「つまり」
「はい。私は『アブノーマル』です」
アブノーマル。
銀行強盗。テロ事件。ノーマルを駆逐し、アブノーマルの世界を創りあげようとしている。危険分子。
「どうやらアブノーマルに対してあらぬ偏見を抱いているようですね」
「だって、テレビでもあんなに」
「国が主体になって、アブノーマルを一括管理しようとしていますからね。テレビ局だって圧力をかけられているに違いない」
「つい最近、銀行強盗をしたって聞きました」
「あなたは――そうですね――どこかの国の人間がテロを起こしたら、その国全員がテロを起こすとでも思っているんですか?」
「国のまとまりと、アブノーマルは別だと思いますが」
「あなただって、『アブノーマル』なんですよ」
一瞬、時間が止まった。息ができない。苦しい。
空間が再び動きはじめ、僕の肺は酸素を求めてはあはあと息を吸ったり吐いたりする。
僕がアブノーマル。そんなはずはない。
もしアブノーマルだとしたら病院で隔離されているはずだ。検査だってあんなにしたのだから間違えるわけがない。
がらがらと自分の立っている地面が崩壊してゆく感覚。浮遊感。内臓を持ち上げられたような、特有の気持ち悪さ。
「おっと。もう少しゆっくりと順を追って説明をするつもりだったのですが。とにかく、君には二つの選択肢があります」
一気に情報が頭の中になだれ込んできたせいで、処理が追いつかない。
松葉の口が動いた数秒後に声が聞こえてくる。脳のオーバーフローのせいか。このような体験は初めてだった。
「一つは、ここから逃げ出して国に保護してもらうという選択肢」
国に保護。国に拘束、の間違いではないだろうか。
あの二人組の雰囲気を見れば分かる。あれは丁重に人を扱おうとするときのものではない。強制連行だ。
「もう一つは、私たちと一緒に来て、国を変えるために闘うという選択肢」
改革、と言えば聞こえはいいだろう。だが、アブノーマルのやっているそれは限りなく暴動に近い。
「時間はそれほどありませんよ」
人生の大事な分岐点が、これほどまでに早くやって来るとは思ってもみなかった。
幼少期を経て、小学校、中学校、高等学校と地元で暮らし、大学も無事合格して、小さな会社に入り、平凡な人生を歩む。僕はそれで十分だと思っていた。人生は山あり谷ありだが、僕は時間がかかってしまってもそれらを避けて傾斜の緩い迂回路を通る。急いで崖のような斜面を登ろうとする人もいるが、僕はそういう類の人間ではなかった。
それが今、どちらの選択肢をとったとしても茨の道だ。僕の思い描くような人生はもうありえない。
崖っぷちで熊に追い詰められてしまったかのような絶望感。迷っている時間はない。立ち尽くしていたら、そのまま猛獣に体を吹き飛ばされてしまう。
僕は自分の直感を信じることにした。
「分かりました。松葉さんについていきます。ですが、後で色々と聞かせて欲しいことがあります」
「もちろん。信用していただけて何よりです。さあ裏口から逃げましょう。彼らも裏口の存在には気付いていないはずです」
階段を降り、松葉は手で合図して奈都美を呼ぶ。
「何とか説得には成功したようですね、マスター」
「まだ完全に納得してもらったわけではありませんが」
「へえ、結構用心深い性格なんだね。何も考えてなさそうに見えるのに」
「奈都美くん、失礼ですよ」
松葉はカウンター裏にあった床扉を開く。完全に床と同じ色だ。店内が薄暗いのも相まって、継ぎ目が見えない。
中を開くと階段になっており地下へと続いていた。
もぐらの通り道のような狭い空間を抜けると、真っ暗な広い空間に出た。
「ええっと、どこだったかな」
松葉の独り言が聞こえてくる。姿は見えない。音も反響してどこから発せられているのか分からない。
ぱっと部屋が明るくなった。僕はその眩しさに目を瞑る。
だんだんと目が慣れてきたところで目を開く。
殺風景な小部屋。ときどきダンボールが置かれているくらいで、それ以外にはねずみ色の冷たそうな金属ラックしかない。
丁寧に僕たちが出てきた穴の部分をダンボールで塞ぐ。そんなものでいいのだろうか。
「どうせ、もうこの道だって使いませんし」
松葉は悲しげな目で、物置部屋にあるドアを開ける。
その先はオフィスになっていた。誰もいないオフィス。机だけが整然と並べられており、こざっぱりとしている。机の上には埃が乗っていた。長らく使われていないのだろう。
「ここから外に出れば大通りに出ます。人混みに紛れれば、彼らだってすぐには分かりません。少し待っていて下さい。外を確認してきます」
松葉はそういうと、オフィスの外に出る。
奈都美は口を開かなかった。店では騒がしかったことを考えると、よほどあそこを離れるのがショックなのだろうか。
責任を感じずにはいられなかった。僕が来たことで、あの店は「普通」ではないと感づかれたかもしれないからだ。
彼女が丹精込めてつくった作品もそのままだ。もう二度と取り返すことは出来ないかもしれない。
しかも、松葉も奈都美も警察の人間に顔を覚えられたかもしれないのだ。これでは迂闊に街を歩くこともできないし、目立つことをしようものなら警察がすぐに身柄を押さえに来るだろう。
そんなリスクを冒して、なぜ僕に声を掛けたのだろう。単純な不注意という可能性もある。これは後で松葉に聞いてみる必要があるだろう。
「外は安全です。ついてきて下さい」
松葉はくいっと二本指を立ててお辞儀させる。
「はい――」
そう言ってついていこうとすると、奈都美が僕の手を引っ張った。
「駄目」
短く呟く。
そのまま僕の手を引っ張り、反対方向の別口へと走る。
「おい、どういう――」
「いいから。あれは駄目なの。きっと操られているんだわ。早くしないと、手遅れに」
反対口から外に出てすぐ人にぶつかった。僕の頭がちょうど胸付近にくるほどの大男だ。
「やあ。初めまして」
タンクトップからのぞく体は筋骨隆々であった。すぐさま、隆起した筋肉をまとった極太の腕が、僕の体めがけて飛んでくる。
とっさに避けたせいで態勢を崩しそうになったが、まだ繋いでいた奈都美の手がそれを食い止めてくれた。
「ちょこまかと――」
引っ張られる方向に向かって走る。先ほど松葉がいた方の大通り側の出口とは違い、こちらは裏路地側だ。人が少ないので、走りやすかった。だが、それは相手も同じことである。重りのような筋肉で走りにくそうだと思っていたが、大男の足はいたって軽やかだ。
複雑な迷路のような道を無我夢中で走り抜け大通りに出る。後ろを振り返ったが大男はもういなかった。一安心して、人の流れに任せて歩く。
どっと疲れがやってきた。先ほどは興奮していて分からなかったのだが、足が痛い。病み上がりで無茶をしたからだろう。
「あのマスターの指の動きはね、逃げろって意味なの」
「だから、なのか。でも、なんで松葉さんは、ついてこいって言ったの?」
走ったばかりなので息が切れて喋りにくい。だが、奈都美は平気な様子だった。
「さっきも言ったけど、多分操られているんだと思う。公安はそういうアブノーマルを連れてるって聞いたことがあるから」
「アブノーマルを? 一体どういうこと?」
「話は後。とりあえず、落ち着ける場所に行かなきゃ。これから三人で行くはずだった場所に」
肺が落ち着きを取り戻す。その分、頭に酸素も供給されるようになった。
「でも、危なくない?」
「何がよ」
「もしかしたら、僕たちのこと泳がせてるのかも。裏口の存在だって知ってたんだから。というか、君たち自体ずっと前から監視されていた可能性があるっていうことだよ?」
奈都美ははっとして周りを見る。だが見渡す限り、人、人、人。誰が誰かなんて判別もつかない。
僕らをつけている人がいたってわかりっこない。
「どうしよう」
「あなた、車運転できる?」
「免許はあるけど」
「今の時代に珍しいわね。自動走行の車には免許がいらないし、私は取ってないから助かったわ」
「え、そうなの?」
「あなた、何言ってる――ああ、そうだったわね。マスターから記憶障害って聞いてたわ」
「もしかしたら、免許持ってないかも。何だか記憶が曖昧なんだ。運転できる自信だけはあるんだけど」
「十分。どうせ今のご時世に車の検問なんてやってないわよ。いざという時のために、マスターが旧式の車を用意してたの」
「なんで旧式?」
「新型は全部一括管理されて交通情報を――ああ、もう。そんなことどうでもいいの。あなたは運転できる、だから運転する! サブキーを預かっているから、早く行きましょう」
ぐいっと別方向に引っ張られる。そういえば、ずっと手を繋いだままだった。
こんな美少女と手を繋いで繁華街を歩けるなんて。
だが、今の状況でそんな感情が湧くはずもなく。
まるで飼い主にリードを引っ張られて引きずられる犬のように、僕たちは車を目指して歩き始めた。




