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第四話<邂逅>

 正直な話、老紳士の提案はありがたいものだった。

 予想以上に体力を消耗していたからだ。入院生活がこれほど響くものだとは思ってもみなかった。

 鴨川から繁華街側に少し入ったところにある小さな通り。道から一段下がったところを川が流れているのだが、その川沿いに店はあった。苔がところどころ生えている風情のある石階段を降りる。シックな焦茶色の木の扉が見えた。

 松葉が扉を開き、僕に先に入るよう促す。からんころん、と心地よい呼び鈴の音が鳴った。焦茶の扉を背景に、黄金に輝く呼び鈴が映えていた。

 店内に入る。コーヒーの香ばしい匂いが僕を包み込んだ。クラシックらしき音楽が程よいボリュームで流れている。話し声は聞こえない。客は一人もいなかった。

 コーヒーの香りは好きだった。ほとんど飲むことはないが。

 僕がうっとりと雰囲気に酔っていると、けたたましいほど元気な女性の声が僕の耳をつんざいた。


「マスター! おかえりなさい!」


 甲高い声。音楽が台無しだ。

 カウンターの裏にある小部屋から一人の女の子がひょっこり出てきた。

 茶髪のショートカット。あふれんばかりの笑顔は、彼女の天真爛漫さを体現していた。外人を思わせるような高い鼻で、顔は全体的に整っている。

 しかし、おおよそこの店の雰囲気にそぐうとは思えなかった。もっと落ち着いた娘の方が合っているだろう。


「奈都美くん、留守番ありがとう」

「お客さんは来なかったですけどね」

「来たとしても、コーヒーは入れられないでしょう?」


 松葉はにっこりと笑う。


「今日はこれでお終いです。表の看板をしまっておいてください」

「え? 私、今日も早上がりですか? お金稼がなきゃいけないのに」

「ほら早く行って下さい。お客さんが来る前に」


 奈都美は口を突き出し、文句をたれる。肩をがっくりと落としてぶつぶつと何かを呟きながら店の外へと出て行った。

 松葉は入れ替わるようにしてカウンターに立ち、コーヒー豆がぎっしり詰まった瓶を手に取る。蓋を開けるとより強い豆の香りが辺りに漂った。


「種類は何が良いですか? ドリップ? サイフォン? それともエスプレッソ? プレス式もありますが」

「コーヒーのことはよく分からないのでお任せします」

「かしこまりました。普通、というのも味気ないのでエスプレッソでも淹れましょうか」


 松葉は豆をひき始めた。今度は漂う程度でない。部屋の中に充満する香り。ミルと呼ばれる小さなタイプの機械によって豆が粉砕されていく。思ったよりも音はうるさかったが、耳障りでもなかった。美味しいコーヒーを淹れるためには、大事な過程なのだろう。銀色のミルの出口から原型を失った粉がぱらぱらと零れ落ちる。松葉はそれをカップで受ける。


「コーヒーはあまり飲まないですか」

「そうですね。缶コーヒーやインスタントを飲むくらいなら」

「コーヒーは奥が深いので、是非色んなものを飲んでみてください。苦いだけだと思っておられるかもしれませんが、豆が違うと味も全然違いますし、淹れ方によっても美味しさが変わってきます」


 よく分からなかったが頷いておく。松葉の言う通り、コーヒーは砂糖やミルクを淹れなければただの苦い泥水のようなものだ。そう思っていた。

 はんこのようなもので、小さな容器に粉を詰めていく。松葉いわく、このタンピングと呼ばれる作業でエスプレッソは美味しさが変わるらしい。プロのバリスタはこの技術を磨いてこそだと言う。仮に松葉が相当な技術を持っていたとしても、僕には見極めようがないのだが。


「はぁ。マスター、表片付けてきましたよ」

「ご苦労様。奈都美くんにもコーヒーを淹れてあげましょう」

「本当ですか! 私、カフェラテが良いです!」

「今、彼のエスプレッソを淹れているので少し待っていてください」


 松葉は忙しそうに手を動かす。当然だが手馴れていると感じざるをえない。コーヒーにも期待が持てる。

 僕がその様子をじっくりと観察していると、横から視線を感じた。いつの間にか奈都美が僕の座っているカウンター席の横に座っていたのだ。じっとこちらを見つめている。


「江洲、何て言うの?」


 可愛いだけに、見つめられると少し照れてしまう。ついつい恥ずかしくなって一つ横の席に避けてしまった。


「江洲薫。君は?」

「私は三川奈都美。ねえ、なんで横に移ったの」

「ごめん。悪気は無かったんだけど」

「ふうん。エスプレッソ飲むってことは、コーヒー好きなの?」

「いや、松葉さんに適当に選んでもらった」

「なあんだ、話合うかと思ったのに」


 奈都美は回転式の椅子の上でくるりと半回転し、足をバタバタとさせる。はいているスカートがひらひらとはためくのを僕は横目で眺めていた。警戒心の無い子だな。無防備すぎる。

 さらに彼女は四分の一回転し、僕の方を向いた。あまりに真剣な表情だったので、少しどきどきしてしまう。


「私許せないの」

「へ?」


 僕は何のことか分からずに、すっとんきょうな声をあげる。


「最近のカフェ好きな人たち。何よあいつら。コーヒーが好きなんじゃなくて、ああいうオシャレなカフェにいる自分大好きってやつでしょ。吐き気する」

「ああいう人たちって、単に時間つぶしに寄ってるのかと思ってたけど」

「うちの大学のね、同じクラスにいるのよ。私この前どこそこのカフェに行ってきたの、って皆に写真見せびらかす人が」

「そりゃ、大変だね……」


 奈都美がヒートアップし始める。びっくりした。第一印象で、ただの元気でお馬鹿な子というイメージがあったので、人に対して怒りの感情を抱くタイプの人間だと思わなかったからだ。


「奈都美くん、そこそこにしておきなさい。江洲くんが困っていますよ」

「だって店長」

「君だって僕からすればまだまだですよ。コーヒーが好きな自分が好きって思われたいんですか?」

「うっ……私は努力してる! もっとコーヒーのこと知ろうって!」

「冗談です。とにかく、あまり人のことを悪く言うもんじゃありません。価値観は人それぞれなんですから。江洲くん、エスプレッソです。どうぞ」


 小さなカップが出てきた。なんだこれは。ほとんど量がないじゃないか。

 いや、もしかすると何か他のものが付いてくるのかもしれない。そう勝手に判断し、膝に手を置いて待っていたが松葉はすでに次の作業に移ってしまっていた。


「ところで、奈都美くん。奥の部屋から裁縫道具を取ってきて、彼のズボンを直してやってくれませんか」

「お、私の腕の見せどころですね!」


 彼女はぱっと目を輝かせ、椅子から「文字通り」飛び出した。昔の漫画だったならば、足の部分が渦巻きで表現されていることだろう。


「奈都美くんは美術大学で服飾の勉強をしているんです」


 松葉はエスプレッソカップの下に敷かれている布製のコースターを指差した。

 紺の生地に猫の輪郭が描かれている。猫の模様は色とりどりで、この世には存在しない柄だったが、作品として見ればセンスの感じられる一品であった。これを作ったというのか。


「そのクロスも、そこの置物も。店内にある布製のものは大半が彼女の作品ですよ。お店にあったものを作ってくれるので、奈都美くんには感謝しています」


 僕は驚いて店内を見回す。

 カウンターの上にあった猫の置物を手に取る。デフォルメされているが、ふてぶてしくこちらを睨んでくる細目がどこか憎めない。作りもしっかりとしていて、簡単には糸がほつれないようになっている。

 それにしても猫が多い。コースターも、置物も。猫が好きなんだろうか。


「取ってきました!」


 奈都美は直立の姿勢で、裁縫箱を持った右手を高く掲げる。やる気に満ち溢れている。もしかしたら、ズボンの原型をとどめないほど斬新なデザインに変えられてしまうかもしれない。


「ちょっと待っててね。こっち向いて」


 椅子をくるりと回す。足元で、奈都美がごそごそと裁縫箱を広げる。


「――ああ、これね。穴が空いてる」

「さっき転んだ時に、できちゃって」

「すみません。私が転ばせてしまったんですよ。本当に申し訳ないことをしてしまいました」

「店長が? ――へえ。そういうことか」


 違和感。なぜかちょっとした間があった気がする。

 何か嫌な感じがして、僕は考える。よくよく考えてみれば、奇妙なことが多かった。

 転んだだけで穴が出来るものだろうか。

 なぜ、松葉は僕が来てから店を閉めたのか。

 そして、いまの「そういうこと」とは、何なのか。

 考えている間にも、奈都美はせっせと準備を始めてズボンに手をかけようとしていた。

 いや。穴を直すなら、服を脱がないといけないだろう。着たまま直すやつがいるものか。


「ごめんね」


 ちくり、と鋭い痛みが足に走る。

 刹那。

 意識が薄らいでいく。倦怠感が一気に僕の体を支配する。

 足にかかっていた奈都美の手を払う。がくりと体が落ちそうになるのを、肘で支える。が、耐え切れずに椅子から転げ落ちてしまった。

 とっさに奈都美が僕の体を支えた。そのままゆっくりと床に僕を寝かせる。

 手に力が入らない。ほっぺをつねって正気を保とうとすることもできない。

 まずい。それは分かっていた。

 まぶたが重い。

 体が動かないぶん、なぜだか頭だけはやけにクリアであった。

 どうしてこんな突拍子もないことが次々と起こるんだろう。

 事故に遭ったかと思ったら、次は誘拐? それとも、人身売買? 少なくとも、目が覚めたら自宅のベッドの上にいるということはないだろう。

 クラシックの音楽が心地の悪い子守唄のように鳴り響いていた。

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