第三話<旅立ち>
荷物をまとめて病室を後にする。
足取りもしっかりとしており、歩くのに松葉杖も必要ない。入院生活のせいか筋力が衰えていて荷物を持つのには苦労した。それを見かねた父が代わりに荷物を持ってくれた。
「薫くん」
ロビーで医師に引き止められる。目を覚ましたときからずっと僕の面倒を見てくれた医師であった。手術の執刀医だったとも聞いている。この人には頭が上がらない。僕が今こうして生きていられるのも彼のおかげなのだ。
医師らしい白衣姿。白衣の端をはためかせながら、すたすたとスリッパを鳴らして僕に近づいてきた。男には珍しく長髪を後ろで束ねている。それが風になびいて頭の後ろで跳ねていた。
「退院おめでとう」
「大石先生、お世話になりました」
僕は深々とお辞儀をした。大石先生は照れくさそうに笑いながらメガネをくいっと上げる。
「大変なのはこれからだよ。体の方は大丈夫だが、日常生活で少し違和感を覚えることがあるかもしれない。もし、少しでも不安になったら僕に必ず連絡すること。いいね?」
「はい。本当にありがとうございました」
手を振って別れを告げる。
結局、退院するまで記憶障害が治ることは無かった。あれこれと手を尽くしてはくれたのだが情報が少なすぎたのだ。
僕としてはどうでも良かった。精神を病む可能性があるとは言われていたが、自殺してしまうほどに追いつめられた患者はいなかったと大石先生から聞いている。車に勢い良く轢かれて命があっただけでも奇跡だった。
むしろ、問題はそれ以外のところにあった。
家族は伝えたがらなかったそうだが、大石先生が教えてくれた。
今回施された遺伝子操作は安全性が確保されたものであったにも関わらず、異常な自己治癒能力が発現しまったということ。
記憶障害が事故によるものでなく今回の治療の副作用である可能性が高いということ。
他にも予期せぬ副作用が起きてしまう可能性があるということ。
そして、その程度によっては。僕が『アブノーマル』に分類される可能性もあるということ。
今はまだアブノーマルに分類されていないとのことであった。
もしアブノーマルに分類された場合、死ぬまで、もしくはその能力を取り除くことが出来るまで、僕は収容所を出ることができない。
現在は観察対象扱いだが、それが解除されるのもいつになることか。それまでは結婚も子孫を残すことも許されない。当面結婚の予定などはなかったが複雑な気持ちである。
病院を出ると日差しが勢い良く降り注いできた。ガラス越しのものと違って一層眩しく感じられる。
日差しはアスファルトの地面をじりじりと灼き、陽炎が起きた。ゆらゆらと空気が揺れ、まるで地面が溶けているようだった。
空調の効いている病院内とは大違いだ。熱気が僕を襲った。頬に一筋の汗が流れる。拭いても拭いても次々と出てくるので、僕はすぐ車に飛び乗った。
「忘れ物ないか?」
「大丈夫」
「じゃあ出るぞ。実家と下宿先、どっちがいい?」
「下宿で。荷物置かなきゃいけないし」
父はカーナビらしき物体を操作すると、無機質な案内音声が発せられた。
『目的地まで、およそ二十分です。自動走行を開始します』
父はシートを倒し、新聞を広げる。走行中に父がハンドルを握ることはなかった。会話を交わすこともない。父は寡黙な人間であった。
電車を使えば実家からでも大学に通うことはできた。しかし、両親が一人暮らしに慣れておいた方がいいと勧めるので、下宿先を借りたのだ。僕は実家で暮らす方が良かったと思っている。食事も作らなくて済むし、面倒な掃除だって自分一人でやらなくて済むからだ。
もしかするとこんな事故に巻き込まれることもなかったかもしれない。今はつい、そう考えてしまう。
車窓から外を眺めた。相変わらず繁華街である四条付近のアーケード下は人でごった返していた。
街の様相は僕の記憶からあまり変わっていない。それを見て安心する。店先にはスクリーンの看板が出ているが、変わったのはそれくらいだ。
「そうだ薫。これ使え」
父が喋ったので、僕は少しびっくりしてしまう。
父の手に握られていたのはメガネであった。僕は裸眼なのでそんなものは必要ない。父も知っているはずである。
「それかけて、スマートフォンでARっていうボタンを押してみたら分かる」
それだけ告げると、再び新聞に視線を落としてしまった。
僕はメガネをかけてみる。視界に変わりはない。メガネだとするとおかしい話だ。度が全く入っていないメガネということになってしまう。
父に言われるがままボタンを押すと、視界が一気に変貌を遂げた。
追加されたのは莫大な量の文字であった。情報量にすると恐ろしい。
店の電子看板には星が添えられている。それだけでなく、店の品物の簡単な説明等も見ることができた。
「最近はコンタクト型もあるからな。昔のお前は、コンタクトを使っていた」
昔の僕。記憶に無い僕だ。
基本的な記憶はある。電話帳の名前を見ればそれが誰だかも分かるし、顔も思い出せる。一緒に遊んだことも覚えている。
しかし、細かい部分を思い出そうとするとてんで駄目だった。
僕がこの奇妙な機械を使っていたということも記憶に無い。本当にそれは僕なのか? 僕が僕ではないのか?
頭を振る。こんなことを考えていたら、間違いなく精神を病んでしまいそうだった。僕は僕だ。昔の僕がどうかなんて、どうでもいいことだ。
「じゃあ、コンタクトにしようかな。コンタクト入れるの怖くていやだけど」
「分かった。また今度家に持っていく」
メガネを外す。たしかに便利だが、文字があんなに表示されていては逆に分かり辛いし、何と言っても疲れてしまう。
そうこうしていると、下宿先のアパートへ到着した。
一人暮らしらしい六畳一間の部屋だ。外から見てもベランダの大きさで一部屋がそれほど大きくないと分かる。
父は荷物を部屋まで運ぶと、仕事があるからと言って帰ってしまった。少し寂しさは感じたが仕方がない。
まずはベッドに倒れ込む。安物の少し固いベッド。それが逆に心地よかった。
こうして一人でいると不安に押しつぶされてしまいそうだった。かといって、他人と交流するほどの元気もない。
街を散策しよう。僕はそう思い立つ。
適当に歩いているだけでも、少しは世界とのギャップを埋められるかもしれないし、それで記憶が元通りになる可能性だってある。歩けば体力も付くかもしれない。
最低限の荷物を詰め込んだ小さな鞄を肩にかけて家を出る。
暑さは相変わらずだった。大学生にとっては、夏休みが始まったばかりの楽しい時期のはずだ。
試験はどうなっただろう。ふと気になる。試験を受けた覚えはないので、前期課程の単位は全て落としてしまったということになるのか。それとも、救済措置があるのだろうか。自分の不注意で事故を起こしてしまったのだから、そんな面倒なことを大学側がしてくれるとは思えなかった。
車に乗っていたときの体の涼しさがすっかりと消えてしまい、汗がだらだらと流れ始める。僕は真昼間から外に出てしまったことを後悔した。
この調子だと、すぐに音を上げて家に戻ってしまうかもしれない。
しばらく歩くと駅までやって来たので、電車で繁華街の四条へと向かうことにした。
四条に到着し駅から出ると、大きな川と風情のある橋が見えた。鴨川だ。繁華街側の川沿いには料亭などの食事処が立ち並んでおり、木でできた納涼床が川へと突き出ている。木の舞台の上では、昼から多くの人々が食事や酒を嗜んでいた。
僕は大通りの方へ向けて歩く。人が多いので、向こうから歩いてくる人を避けながら進む必要があった。観光客は大人数でゆっくりと動くし、地元の人たちは早足で動く。時間差があって避け辛い。病みあがりの足にはそれがこたえた。左へ、右へ、とまるで玉が無限に飛んでくるドッジボールをさせられているようだ。
突如、体に衝撃を受けた。
避ける方向を間違えてしまい、人とぶつかってしまったのだ。僕は踏ん張ることができず、そのまま倒れこむ。
「これは失礼。大丈夫ですか?」
「ええ、こちらこそ避けられずにすみません」
僕に向けて手を差し伸べていたのは、ところどころに白髪の混じった細身の老紳士であった。年齢は四十代前後であろう。
紳士の手を取る。思わぬ力で引っ張りあげられ、何の苦もなく立ち上がることができた。腕は華奢に見えるのに、どこからその力が生まれてくるというのか。
「お怪我はございませんか」
「多分ありません、ありがとうございます」
手短に感謝の言葉を伝え、再び歩き出そうとする。そのとき。
がっしりと腕を掴まれた。理由は分からないが、身の危険を感じた。僕はとっさに腕を振り払う。
手は離れない。
その手の主はもちろん、先ほどの紳士である。
ずい、と紳士が一歩僕に近づいた。僕は後ずさりしてしまう。
「そこ」と、彼は僕のズボンの側面を指差す。「穴が空いてますよ。恐らく先ほどので引っ掛けたのでしょう」
慌てて確認すると、彼の言う通りであった。擦れて破れてしまっている。
「良ければ、直して差し上げますが」
「いえ、そこまでお世話になるわけには」
手を振って丁重にお断りした。
紳士は胸ポケットから一枚の名刺を取り出して僕に渡す。
突然のことで面食らったが、受け取らないわけにもいかない。
そこには人の名前と、欧州圏の言語でカフェの店名が書かれていた。名前は松葉慶一郎。カフェの方は読み方が分からない。
「改めまして、私は松葉慶一郎と申します。すぐそこのカフェで店主をしております。お名前伺ってもよろしいですか?」
「江洲薫です」
「江洲さん、ですか。私のカフェで少し寛いでいただきながら服を直す、というのはいかがでしょう?」
新手の客引きか。こうやって何か理由をつけて、店に客を呼び込もうとしているのだろう。最近は手口が多様化してきたものだ。
「もちろん、飲み物代もお直し代も、結構ですよ」
彼は僕の心を読んだかのように、一切曇りのない顔で微笑んでみせた。




