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第九話<承諾>

 東に面したベランダから朝日が差し込む。

 自然な目覚め。気分が良かった。僕は伸びをしてベランダのドアを開く。新鮮な朝の風が体を突き抜け、心をさっぱりと洗い流してくれる。八階からの眺めというのも新鮮だった。前に住んでいた部屋は一階だったので、同じように外を見ても建物を取り囲むフェンスしか見えなかった。

 しばらくそうしていると暑くなってきたので、部屋を閉めきってクーラーをつける。

 リビングのソファに腰をおろし、自然な流れでテレビのスイッチを入れた。

 テレビがスマートフォンというデバイスに収められているのではなく、それ単体として存在しているのはありがたいことだった。以前病室でそれを試したときは心地悪くて、番組に集中できなかった。

 朝のニュース番組のキャスターが面白おかしく今の流行グッズを紹介している。


『今、若者を中心に流行っているコレ! すごく便利なんですよ、ほらこういうふうに――』


 僕はそれをぼうっと眺める。

 歳をとって流行に乗り遅れ始めたらこういう感情を抱くのかと納得する。僕の心は襲い来る虚無感を隠そうとして無関心を装っていた。そんなものがなくても生きていける、という難癖付けのような理由まで添えて。

 次々と便利グッズが披露されていく。どれもこれも、取るに足らないものばかりだ。

 飽きてしまったのでキッチンに移動して冷蔵庫を開く。もちろん何も入っていない。冷凍庫ならと淡い期待を抱いたが、そこも空っぽであった。

 乾麺を探してキッチンの棚を調べる。調理用具は一通りそろっていたが、やはり食料は見当たらない。四苦八苦してようやく見つけたのはインスタントコーヒーくらいだ。

 僕はお湯を沸かしはじめる。

 義務感で朝食を探していたが、よくよく考えてみるとお腹が減っているわけではないことに気付く。

 粉をスプーン一杯すくいとり、カップに入れる。

 ニュース番組はエンタメ情報から時事問題へと内容をシフトさせていた。おちゃらけていた様子は一変して真面目な雰囲気に。キャスターの顔からも笑顔が消えている。


『――以前、容疑者は逃走を続けており、警察は近隣住民の目撃情報を募集しております――』


 沸いたお湯をカップに入れて再びソファへ。一口飲む。少し薄かった。味を楽しもうとしたわけではなかったので十分だ。


『容疑者二人組みの名前は江洲薫、三川奈都美――』


 僕は驚いてカップを手から離してしまった。フローリングの床だったので落としたマグが割れることはなかったが、なみなみと残っていた黒水は全て床に広がってしまっていた。

 それを拭き取るのも忘れて僕はテレビに釘付けになる。


『容疑者らは京都北部にある道の駅にて、駐車していた車から金品を盗んだ疑いがあり、警察は――』


 嘘だろう。「入れる」行為はしたが、「取る」行為に関しては身に覚えがない。

 捏造だ。

 警察はこんなことまでやってのけるのか。なりふり構わず短期決戦を仕掛けてくるつもりなのか。

 もしこれが冤罪だと世に知れ渡ってしまえば、警察といえども責任を追求されるに違いない。

 それともマスメディアを含めた国全体が敵だとでも? それならば後で僕が無実を訴えようとも、大きな権力によって全ての真実は闇に葬られてしまうかもしれない。

 インターホンが鳴った。心臓が飛び上がる。

 恐る恐る覗き窓から外を見ると、海堂と奈都美の姿があった。僕はドアを開いて二人を中に招き入れる。


「厄介なことになった」

「厄介どころじゃないですよ。夏目さんには連絡したんですか?」

「さっき向こうから電話があった。今こっちに向かっているみたいだ」

「どうするんですか」奈都美は興奮していた。「このままじゃ、私街も出歩けませんよ」

「分かってる。そのために俺やナツメさんがいるんだ。特に薫くん、君は重要人物いわばVIPだ。絶対に捕まるわけにはいかない。そこだけは気をつけてくれ」


 注意しろと言われても無茶な話である。

 警察の目を逃れて何ヶ月も逃走するなんて芸当を、僕たち一般人ができるわけなどないと思った。

 いや、と僕は自らの思考を訂正する。

 僕はもう一般人ではない。『アブノーマル』だった。

 アブノーマルなりの戦い方を考えないと。


「姿を消す能力とか、ないんですか」

「ないね。特殊能力っていっても人間の基本的な能力を底上げするものばっかりだ。漫画みたいに火を出したり、氷漬けにしたり、竜巻を起こしたりできるわけじゃないんだ。俺も最初は憧れたがな」

「じゃあどうすれば」

「とりあえず、デザイナーのところに行って相談するしかない。デザイナーごとに腕も違うし、得意な分野も違う。薫くんのDNAをまず読み取って、それとにらめっこしながら新しい能力をデザインしてもらうことになる。デザインできる能力リストにお目当てのものがなかったら、次を探さないと。そこらへん詳しいのはナツメさんだから――おっと」


 そこで海堂のスマートフォンが鳴った。夏目からの電話だろう。


「分かりました。すぐに向かいます」海堂は電話を切って僕たちに告げる。「ナツメさんが駐車場まで来てくれた。もうデザイナーの目星もつけてるらしい。すぐに支度してくれ」


 急いで服を着替える。持ち物は何も要らないだろう。財布だけ念の為に持って行っておこう。

 地下駐車場には白のワゴン車が停まっていた。夏目が窓から顔を出し、こちらに手を振る。


「江洲くん、三川さん。こんなことに巻き込んでしまって本当にすまない」

「いえ、夏目さんのせいではないですよ」


 奈都美がおおげさに目を見開いて否定する。僕も同じ気持ちであった。むしろ、僕が皆を巻き込んだと言う方が正しい。


「それで、江洲くん」


 夏目さんは忙しそうに車を操作する。オートランではない。自分で運転するつもりだ。

 エンジンが喧しい叫び声を二度ほどあげた。ふかしをやる人がいると思わなかったので僕は驚く。よくよく夏目を観察してみると、左足が動いていることに気付いた。自動走行でもなく、オートマチックでもなく、マニュアル車? 僕も教習所でしか扱ったことがない。僕が運転したら、すぐにエンストさせてしまうだろう。


「本当は各地の団体と協力して適性のある能力者を要請するつもりだったんだが、状況が変わった。時間がない。デザイナーのところに行って必要な能力をデザインしてもらおうと考えている」

「能力を発現させるのに時間はかからないんですか?」

「遺伝子操作自体は数時間とかからない。律速になるのはデザインの段階だ。こればかりはデザイナーの腕による。それより、一番大事なのは江洲くん。君自身だ」

「僕が?」

「君自身の意志が重要なんだ。嫌ならやめてもいい。君が拒否するなら、僕は無理強いしない。君にはその権利がある」


 もし仮に僕がついていくことを拒否したら、彼らはどうするつもりなのだろう。

 そんな考えがふと頭をよぎったが、正直な話をするとそんなことは二の次でどうでもいいことだった。

 僕にとって最重要なのは僕自身のこと。人間はいつも利己的だ。自分にとって利益となるかどうかで物事を天秤にかけるくせに、人にそれを説明するときは外向けの美しい理由で肉付けをして本心を見せない。

 ここで拒否をしたら、僕はどうなる?

 思考を切り替える。

 彼らに見捨てられるかもしれない。そうなればすぐに警察に捕まるだろう。

 彼らが保護してくれたとしても、警察の目をそれほど長く欺けるとは思えない。

 遅かれ早かれ僕は捕まることになる。

 僕が自分の遺伝子操作を許可すれば、少しはその確率が低くなる。どれほどのものかは分からないが、拒否するよりはましだ。

 そして、それが彼らのためにもなる。アブノーマルの未来のためにも、僕が戦わなくては。やるべきだ。

 そんな使命感が後からふつふつと湧いてきた。

 これも全て夏目の思い通りで、僕は彼の掌の上で踊らされているだけなのかもしれない。それでも僕にとって最良の選択であることに変わりはないはずだ。


「やります。それが皆のためなら」

「ありがとう。君ならきっとそう言ってくれると思っていたよ」


 夏目と海堂がにっこりと笑っているのがバックミラー越しに確認できた。

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