傷のある男
調査開始から六日目の朝、アリシアはクロイツ公爵家の応接室で依頼人であるクラウディア・フォン・クロイツと向かい合っていた。
大きな窓から差し込む朝の日差しが、磨き上げられた大理石の床を明るく照らしている。壁には歴代当主の肖像画が並び、暖炉の上には繊細な彫刻を施された置時計が飾られていた。王都の片隅にある自分の事務所とは、何もかもが違っている。
案内されたソファも驚くほど柔らかく、アリシアは腰を下ろした瞬間に思わず背筋を伸ばしてしまった。
「それでアリシアさん。あれから何か分かりましたか?」
向かいに座るクラウディアが尋ねた。
淡い水色のドレスに身を包んだ彼女は今日も美しかった。しかし、その顔には疲労の色が浮かんでいる。目元には薄く隈ができており、夜も満足に眠れていないことが窺えた。
「ええ。まだ確証はありませんが、いくつか気になる情報が得られました」
「本当ですか!」
クラウディアが身を乗り出した。
その期待に満ちた表情を見て、アリシアは少しだけバツが悪そうに紅茶の入ったカップに口をつけた。香りのよく立ったハーブティーは独特の苦味があり、アリシアの稼ぎではどこで手に入るのか想像もつかなかった。
金持ちの趣向というのは、やはりよく分からない。
「ただし、あまり良いお話ではありません」
カップから手を離した後、頭を掻く様子を見てクラウディアも少し眉を顰める。
「……構いません。聞かせてください」
アリシアは小さく頷き、鞄から手帳を取り出す。
「まず、エドワード殿下の屋敷には、最近になって王太子殿下が頻繁に訪れているそうです。それから、素性の分からない商人との接触や、私設兵団の募集も確認できました」
「私設兵団……?」
「ええ。殿下の家臣が、腕に覚えのある者たちを集めているそうです」
クラウディアは不思議そうに首を傾げた。恐らく彼女の持つ殿下のイメージとはあまりにもかけ離れた単語に違いなかった。
「護衛を増やしているということでしょうか?」
「そうかもしれません。ただ、昨日になって別の情報が入りました。王太子殿下の関係者によると、エドワード殿下には反乱の疑いがあるそうです」
「……え?」
クラウディアの表情が固まった。
「反乱……ですか?」
「はい。私設兵団の募集や、不審な商人との取引がその根拠になっているようです。王太子殿下は弟君の動きを警戒し、頻繁に屋敷を訪れているのだと聞きました」
「そんな……」
クラウディアは口元に手を当てた。
しばらくの間、応接室には置時計の針が進む音だけが響いていた。
やがて、彼女はゆっくりと首を横に振った。
「……あり得ません」
「クラウディア様……?」
「エドワード様が、そのようなことをなさるはずがありません!」
クラウディアの声が、静かな応接室に響いた。
「殿下は誰よりもお優しい方です。王位を奪うために兵を集めるなど、絶対にあり得ません!」
「そう思うのはごもっともです。それに、あくまで反乱の件は関係筋から聞いた第三者的意見です。ですが、実際に兵士を募集しているという話は――」
「何か事情があるのです!」
クラウディアはアリシアの言葉を遮った。
その瞳には、怒りとも悲しみともつかない感情が浮かんでいた。
「エドワード様は、幼い頃から困っている人を放っておけない方でした。私が初めてお会いした時も、殿下は城下町の孤児院を訪ねていらしたのです」
クラウディアは膝の上で両手を握り締めた。
「王族がそのような場所へ足を運ぶ必要はないと、周囲の方々は仰っていました。でも殿下は、そこで暮らす子供たちの名前を一人ずつ覚えて、何度も会いに行かれたのです。私も何度かご一緒しました」
彼女の声が少し震えた。
「そんな方が、王国を戦乱に巻き込むようなことをなさるはずがありません」
アリシアは黙って聞いていた。
クラウディアの言葉が事実であることは、これまでの調査でも確かめている。エドワードの評判は決して作られたものではなく、実際に彼の慈善活動によって救われた人々が大勢いた。
しかし、人間の善良さと政治的な野心は必ずしも相反するものではない。探偵として疑うべきはまずその先入観である。
ただ、それをこの場で言ってみたところで事態は良くはならないだろう。
「私も殿下が反乱を企てていると断定したわけではありません。あくまで、そうした疑いがあるという情報でーー」
「では、なぜそのようなお話を?」
「婚約破棄の理由に関係している可能性があるからです」
アリシアは静かに答えた。
「……仮に殿下が何らかの危険な計画に関わっているとすれば、クラウディア様を巻き込まないために婚約を解消したとも考えられます。王家が違約金を全額負担すると申し出たことも、その事情と無関係ではないかもしれません」
クラウディアは俯いた。
アリシアはそれ以上、言葉を続けなかった。
依頼人にとって耳の痛い報告であることは承知している。それでも、得られた情報を隠すわけにはいかなかった。
しばらくして、クラウディアが顔を上げた。
「……アリシアさん」
「はい」
「調査は、ここまでにしてください」
「え?」
予想していなかった言葉に、アリシアは思わず聞き返した。
「もう結構です。残りの日数についても、約束した報酬はお支払いします」
「ちょ、ちょっとお待ちください! まだ調査は終わっていません。期限までは四日ありますし、もう少し調べれば――」
「いいえ」
クラウディアはきっぱりと首を横に振った。
「これ以上、殿下のことを他人から聞く必要はありません」
彼女は立ち上がり、窓の外へ目を向けた。
庭園では、使用人たちが秋の花壇の手入れをしていた。赤や黄色の花々が風に揺れ、その向こうには綺麗に刈り込まれた生垣が続いている。
「私は、エドワード様を信じています」
クラウディアは振り返った。
「ですから、直接お会いしてお話を伺うことにします」
「殿下の屋敷へ行かれるのですか?」
「はい」
ここまできて、アリシアは自身が致命的な間違いをしたことに気がついた。この令嬢の性格からすれば、こうなることは自明の理だった。机の下で、硬く拳を握りしめる。
「それは危険です。もし反乱の疑惑が事実なら、殿下の屋敷では何が起きているか分かりません。今は慎重に行動された方が――」
「アリシアさん」
クラウディアは穏やかに微笑んだ。
「ご心配いただき、ありがとうございます。でも、私は殿下を恐れたりしません」
「ですが……」
「私たちは、十年以上も共に過ごしてきたのです。楽しい時も、辛い時も、ずっと一緒でした。たとえ何か大きな秘密を抱えていらっしゃるのだとしても、私は殿下のお力になりたいのです」
その表情には先ほどまでの悲しみや戸惑いはなかった。
クラウディアの気持ちは理解できる。しかし、相手は王族であり、反乱の疑惑まで持ち上がっている人物だ。愛情だけで解決できる問題ではない。
「……せめて、私も同行させていただけませんか?」
「お気持ちだけで十分です」
クラウディアは丁寧に頭を下げた。
「これまで調べてくださって、本当にありがとうございました」
そう言われてしまえば、アリシアにできることは何もなかった。小さく息を吐き、手帳を鞄にしまう。
「……承知しました。ただし、残りの日数分の代金は結構です。この結果に、私自身が納得していませんので。失礼ですが、もう少し待っていただければもう少し確かな情報をお伝え出来ると思うのですが」
「意外と頑固な方ですのね。ただ貴女に矜持があるように、私にも矜持があるのです。この決着は、私自らの手でつけたいという個人的な意地なのです。アリシア様、分かってくださいますね?」
アリシアは返事の代わりに、カップに残った紅茶を飲み干した。
こうして、クロイツ公爵家からの依頼は、予定より四日早く終了することになった。
屋敷を出る際、玄関まで見送ってくれた執事のバトラーは、いつもと変わらぬ落ち着いた様子で深々と頭を下げた。
「お嬢様がお世話になりました」
「いえ……大したお役に立てず、申し訳ありません」
「とんでもございません。お嬢様も少しお気持ちの整理がついたようです」
アリシアは曖昧な笑みを浮かべる。
気持ちの整理がついたというより、何かを決意してしまったように見えたのだが。
「バトラーさん」
「なんでしょうか」
「クラウディア様がエドワード殿下の屋敷へ向かわれるようでしたら、どうかお止めください。少なくとも、今はお一人で行かせない方がいいと思います」
バトラーは少しだけ目を細めた。
「……承知いたしました」
その返事にアリシアは幾分か安心して屋敷を後にした。しかし、胸の奥に残った不安はどうしても拭い去ることができなかった。
◇
「……やれやれ。依頼人に調査を打ち切られるなんて、探偵失格ね」
昼過ぎ。
アリシアは王都の商業地区にある酒場で、葡萄酒の入ったグラスを傾けていた。
店内は昼食を終えた職人や商人たちで賑わっている。厨房からは肉を焼く香ばしい匂いが漂い、給仕の娘が忙しそうにテーブルの間を行き来していた。
アリシアが座っているのは、店の奥まった場所にある小さなテーブルだった。
向かいには、くたびれた革の上着を着た痩せぎすの男が座っている。
「なんだ、せっかく呼び出したと思ったら愚痴か?」
リドは呆れたように笑った。
彼は王都の裏社会に顔が利く情報屋で、アリシアとは以前から何度か仕事を共にしている。年齢は三十代半ばといったところだが、無精髭と目の下の隈のせいで、実際よりも老けて見えた。
「愚痴くらい聞いてくれてもいいじゃない。ちゃんとお酒は奢ってるんだから」
「酒一杯で貴族の揉め事に付き合わされちゃ、割に合わねえよ」
「じゃあ、もう一杯頼む?」
「頼む」
アリシアは苦笑し、給仕を呼んで葡萄酒を追加した。
依頼は打ち切られたものの、どうにも気になることがあった。
エドワードの屋敷に出入りしているという、顔に傷のある商人である。
王太子側の冒険者も、怪しい商人との取引について口にしていた。反乱の疑惑が事実かどうかは分からないが、少なくともその人物が何らかの事情を知っている可能性は高い。
アリシアはグラスを置き、リドに尋ねた。
「そういえば、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「なんだ?」
「最近、王都に出入りしている商人で、顔に大きな傷のある男を知らない?」
リドの手が止まった。
「……顔に傷?」
「ええ。かなり大柄な男らしいわ。身なりは立派だけど、どうにも堅気には見えないって」
リドはグラスを置いた。
先ほどまでの軽薄な笑みが消え、真剣な表情になる。
「……お前、そいつをどこで見た?」
「私は直接見たわけじゃないの。ちょっとした調査で、そういう男が出入りしているって話を聞いただけ」
「どこに?」
「それは守秘義務があるから……」
リドの声が低くなった。
「なんでもかんでも首を突っ込みたがるのはお前さんの悪い癖だ。だがな、悪いことは言わねえ。その男には関わるな」
アリシアは眉をひそめた。
「……知っているの?」
「ああ」
リドは周囲を見回し、声を潜めた。
「そいつは多分、スカーだ」
「スカー?」
「本名は知らねえ。南方から流れてきた武器商人でな。顔にでかい傷があるから、みんなそう呼んでる」
アリシアは手帳を取り出したが、リドはそれを手で制した。
「何よ」
「やめとけよ。ただの武器商人じゃねえ。表向きは傭兵団や貴族相手に武器を売ってるが、裏じゃ相当やってるって話だ」
「例えば?」
「麻薬の密売やら人身売買……金になることなら何でもだ。王都の裏じゃ、奴に上納金を収めない限り商売もまともに出来ねえって話があるくらいだ」
アリシアは思わず顔を上げた。
「そんな大物なの?」
「大物なんてもんじゃねえ。王都の犯罪組織をいくつも牛耳ってるって噂だ。衛兵にも金をばら撒いてるらしくて、多少の悪事じゃ捕まりもしねえ。俺の知る限りでも今まで三回捕まって、三回とも証拠不十分で釈放されてる」
「……なるほど」
南方出身の武器商人。
王都の裏社会に影響力を持つ犯罪組織の首領。
もし、その男がエドワードの屋敷に出入りしているのだとしたら。
「……待って」
アリシアはペンを止めた。
「どうした?」
「そのスカーって男、王都で武器を大量に取引しているの?」
「そりゃあ武器商人だからな。取引自体は珍しくねえだろうが……」
リドは怪訝そうに眉をひそめた。
頭の中で、これまで得た情報が次々と繋がっていく。
王太子の頻繁な訪問。私設兵団の募集。
武器商人スカーとの接触。
そして、突然の婚約破棄。
もしエドワードが本当に反乱を企てているのなら、武器商人と接触していることにも説明がつく。
しかし、それならなぜ王太子の目の届くところで動いているのだろう。
王太子は何度も屋敷を訪れている。反乱の準備を進めるには、あまりにも杜撰すぎる。
それにエドワードほど評判の良い王子が、王都の犯罪組織と手を組んでまで王位を欲しがる理由は何なのか。
アリシアは昨日聞いた冒険者の言葉を思い出した。
『俺たちの仕事は今日みたいな定期訪問と、王子殿下の身の回りに不審がないかの報告だけさ』
王太子の名義で動く冒険者たち。
弟の動向を監視するという名目。
反乱の噂。
そして、傷の男。
「……まさか、そういうこと?」
アリシアは小さく呟いた。
「おい、アリシア?」
リドが怪訝そうに顔を覗き込む。
アリシアは勢いよく立ち上がった。
「ごめん、リド。急用を思い出したわ。多めに置いておくから、ゆっくり飲んでちょうだい」
「はあ? おい、ちょっと待てよ!」
アリシアは鞄を掴み、テーブルに銀貨を数枚置いた。
「おい! だから奴には関わるなって!」
リドの心配は、急いで酒場を飛び出したアリシアの耳にはもう届いていなかった。
◇
午後二時過ぎ。
アリシアは再びクロイツ公爵家の屋敷を訪れていた。
正門の衛兵に名前を告げると、ほどなくして執事のバトラーが姿を現した。
「アリシア様? どうなさいました?」
「クラウディア様は!?」
息を切らせながら尋ねるアリシアに、バトラーは少し驚いた様子を見せた。
「お嬢様でしたら、先ほどお出掛けになられましたが……」
「……まさかもう、エドワード殿下の屋敷ですか?」
バトラーはゆっくりと頷いた。
「はい。どうしても殿下にお会いしたいと仰いまして……」
「止めてくださらなかったんですか!?」
「もちろん、お止めしました。しかし、お嬢様は一度決めたことを曲げられる方ではございません」
アリシアは額に手を当てた。今から馬車で追いかけても間に合うかどうか。だが、それよりも今は迷っている時間は惜しい。
「……今すぐ追いかけます。私の考えが正しければ、あのご令嬢は今かなり危うい所に踏み込もうとしています」
バトラーの表情が変わった。
「……どういうことでしょうか?」
「説明は後です。とにかく直ぐに馬車を用意してください!」
バトラーは一瞬だけ考え込んだが、すぐに頷いた。
「承知いたしました。私も同行いたします」
「え?」
「エドワード殿下の屋敷には、以前から顔見知りの門番がおります。私が一緒なら、少なくとも門前で追い返されることはないでしょう」
アリシアは目を見開いた。
「助かります」
「お嬢様の身に何かあっては、旦那様に顔向けできませんからな」
バトラーはそう言うと、近くにいた使用人に馬車の用意を命じた。
それから間もなく、二人を乗せた馬車がクロイツ公爵家の屋敷を出発した。
車輪が石畳を叩き、馬車が貴族街を駆け抜けていく。
向かいに座るバトラーは、険しい表情でアリシアを見つめていた。
「アリシア様。差し支えなければ、何が分かったのかお聞かせ願えますか?」
アリシアは少し迷った。
まだ確証はない。
しかし、今はそんなことを言っている場合ではなかった。
「……エドワード殿下が反乱を企てているという話、覚えていますか?」
「はい。お嬢様から伺いました」
「それはおそらく事実ではありません」
バトラーの眉が動いた。
「では、なぜそのような噂が?」
「それを確かめに行くんです」
アリシアは窓の外へ目を向けた。
通りの向こうには、第二王子の屋敷を囲む高い石壁が見え始めていた。
「ただ……一つだけ、心配なことがあります」
「何でしょう?」
「私の推理が正しかった場合、エドワード殿下は私たちを簡単には帰してくださらないかもしれません」
バトラーはしばらく黙っていたが、やがて静かに頷いた。
「それでも、お嬢様をお守りするのが私の務めです」
「信頼されているんですね」
「長年、あのお嬢様にお仕えしておりますので」
バトラーもわずかに笑みを浮かべた。
しかし、その表情はすぐに引き締まった。
馬車が速度を落とし、やがて大きな鉄製の門の前で停止したのである。
第二王子エドワードの屋敷。
門の両脇には武装した衛兵が立ち、敷地の奥には白亜の邸宅が見えていた。
バトラーが馬車を降り、門番に声を掛ける。
何やら短いやり取りが交わされた後、門番は屋敷の方へ使いを走らせた。
アリシアは馬車の中から、その様子をじっと見守っていた。
やがて、重々しい音を立てて鉄門が開かれた。
「……入れるそうです」
戻ってきたバトラーが告げると、アリシアは頷いて鞄を抱え直した。馬車はゆっくりと門をくぐり、屋敷へと続く石畳の道を進んでいく。
手入れの行き届いた庭園の向こうに、壮麗な建物が近づいてきた。
アリシアは膝の上で手を握り締めた。
これまで集めてきた情報が、頭の中で一つの形を作り始めている。
だが、その推理を口にすることが、果たして正しい選択なのか。
それももう、今となっては引き返せなかった。
「……さて。じゃあ私も覚悟を決めましょうか」
アリシアは小さく息を吐いた瞬間、馬車が玄関前に停まった。
彼女は扉に手を掛け、静かに外へ降り立った。




