婚約破棄の真相
第二王子エドワードの屋敷は、王都でも指折りの格式を誇る建物だった。
白亜の石造りの外壁には蔦が這い、玄関へと続く階段の両脇には、王家の紋章を刻んだ石像が置かれている。広大な庭園には秋の花々が咲き誇り、噴水の周囲では庭師たちが黙々と手入れを続けていた。
そんな優雅な光景を横目に、アリシアは執事のバトラーと共に玄関へと向かった。扉を潜ると出迎えた年配の使用人が二人に恭しく頭を下げた。
「クロイツ公爵家のバトラー様ですね。お話は伺っております」
「突然の訪問、申し訳ございません。お嬢様はこちらに?」
「はい。今はエドワード殿下とお話しになっておられます」
バトラーは安堵したように頷いた。
「それは何よりです。私どももお取次ぎいただけますでしょうか」
「少々お待ちください」
使用人は二人を玄関ホールへ案内すると、奥の廊下へ姿を消した。
アリシアは周囲を見回した。
高い天井には豪華なシャンデリアが吊るされ、磨き上げられた大理石の床には王家の紋章が描かれている。壁には歴代の王族を描いた肖像画が並び、その間には見事な甲冑や装飾剣が飾られていた。
しかし、アリシアが気になったのは、そうした豪華な調度品ではなかった。
廊下の向こうに立つ衛兵たちである。
数は多くないものの、いずれも武装しており、使用人が通り掛かるたびに鋭い視線を向けている。屋敷の警備が厳重になっていることは、誰の目にも明らかだった。
「随分と物々しいですね」
アリシアが小声で呟くと、バトラーも静かに頷いた。
「以前お伺いした時は、ここまでではありませんでした」
やはり、何かが起きている。
アリシアがそう考えていると、先ほどの使用人が戻ってきた。
「殿下がお会いになるそうです。こちらへどうぞ」
二人は使用人に案内され、長い廊下を進んだ。
やがて、重厚な木製の扉の前で足が止まる。
使用人が扉を叩くと、中から若い男の声が聞こえた。
「入れ」
扉が開かれた。
そこは、広々とした応接室だった。
南向きの大きな窓から午後の日差しが差し込み、深紅の絨毯を明るく照らしている。部屋の中央には大きなテーブルと革張りのソファが置かれ、壁際には書物の詰まった書棚が並んでいた。
その部屋には二人の男女がいた。
一人はクラウディア・フォン・クロイツ。
そしてもう一人が、第二王子エドワードである。
エドワードは二十代半ばほどの青年で、柔らかな金髪と端正な顔立ちをしていた。白いシャツに濃紺の上着を羽織った姿は、いかにも育ちの良い貴公子といった印象だったが、その表情には深い疲労の色が浮かんでいる。
「バトラー! それに、アリシアさんまで……!」
クラウディアが驚いたように立ち上がった。
「どうしてこちらへ?」
「追いかけてきてしまい申し訳ありません、お嬢様」
バトラーは深々と頭を下げた。
アリシアも軽く会釈すると、エドワードへ視線を向けた。
「突然の訪問、申し訳ございません。私は私立探偵のアリシア・ベルモンドと申します」
「……探偵?」
エドワードは怪訝そうに眉をひそめた。
「そうか。お前がクラウディアの雇った探偵か」
「ご存じでしたか」
「ああ。先ほど本人から聞いたところだ」
エドワードはクラウディアを見た。
クラウディアは少し気まずそうに視線を落としたが、すぐに顔を上げた。
「エドワード様。私はどうしても納得できなかったのです。突然婚約を破棄されて、理由も教えていただけないなんて……」
「クラウディア……」
「ですから、アリシアさんにお願いしたのです。殿下が何をお考えなのか、調べていただこうと思って」
エドワードは深く息を吐いた。
「……そうか」
その声には怒りよりも困惑が滲んでいる。
アリシアは二人の様子を観察した。
クラウディアは真剣な表情でエドワードを見つめている。一方のエドワードは、彼女と目を合わせようとしない。
しかし、その視線がクラウディアへ向くたびに、どこか辛そうな表情を浮かべていることに気付いた。こんな顔を出来る男が、果たして家族への謀反の企てなど考えるのであろうか?
「エドワード殿下」
アリシアは静かに口を開いた。
「少々、お時間をいただけませんか?」
「……何の用だ?」
「今回の婚約破棄について、私なりに調査を進めてまいりました。その結果、いくつか気になることが分かったのです」
エドワードの表情が僅かに変わった。
「……ほう」
「ただ、ここから先のお話はあまり人に聞かれない方がよろしいかと思います」
アリシアは扉の方へ目を向けた。
「恐れ入りますが、使用人の方々には席を外していただけませんでしょうか」
エドワードはしばらく黙っていた。
やがて、使用人に向かって小さく頷いた。
「……全員下がれ」
「かしこまりました」
使用人たちは一礼し、部屋を出ていった。
バトラーも一歩下がろうとしたが、アリシアがそれを制した。
「バトラーさんはこちらにいてください」
「私ですか?」
「ええ。クラウディア様のことを一番よくご存じでしょうから」
エドワードは何も言わなかった。
扉が閉まり、応接室には四人だけが残されるとアリシアは鞄から手帳を取り出した。
「それでは失礼を承知の上で、単刀直入にお尋ねします」
彼女はエドワードを見据えた。
「殿下は現在、ご自身に反乱を企てているという噂が立っていることをご存じですか?」
クラウディアが小さく息を呑んだ。
エドワードは表情を変えなかった。
「……知っている」
「では、私設兵団を募集していることも?」
「事実だ」
「顔に大きな傷のある商人と、何度も接触していることも事実ですね?」
その瞬間、エドワードの目が細くなった。
「……貴様、どこまで調べた?」
アリシアは答えず、手帳を閉じた。
「その商人の通り名はスカー。南方出身の武器商人であり、王都の裏社会に大きな影響力を持つ犯罪組織の首領です」
クラウディアが驚いたようにエドワードを見た。
「エドワード様……?」
エドワードは何も答えなかった。
「スカーは武器の売買だけでなく、麻薬取引や人身売買にも関わっていると聞きました。そんな人物が、王都でも評判の良い第二王子殿下の屋敷に出入りしているとなれば、良からぬ企みをしていると疑われても仕方ありません」
「……それで?」
「……ですが、私にはどうにも納得できないことがありました」
アリシアはエドワードから視線を外さなかった。
「殿下は、なぜこれほど目立つ行動を取っているのでしょうか」
「……目立つ?」
「ええ。王位を奪うために反乱を企てているのなら、王太子殿下に知られないよう、慎重に準備を進めるべきでしょう。ところが実際には、兵士の募集も、怪しい商人との接触も、少し調べれば分かる状態になっています」
アリシアは一歩前に出た。
「それに、王太子殿下は頻繁にこちらの屋敷を訪れている。弟君に冒険者まで差し向けて動向を伺っているのであれば、必然的に計画は失敗する可能性が高い。聡明と評判の第二王子の企てにしては、些か杜撰と言わざるを得ません」
エドワードは黙って聞いていた。
アリシアは一度息を整えた。
「そこで私は、考え方を変えてみました」
「……何をだ?」
「殿下が反乱を企てているのではなく、企てているように見せかけているのだとしたら? クーデターの成否よりも、その企てを周囲に広めるのが目的と考えればどうでしょうか?」
クラウディアが目を見開いた。
エドワードの表情が、僅かに強張った。
「……続けろ」
アリシアは頷いた。
「スカーは慎重な男です。今までも証拠不十分で何回も釈放されている。簡単には尻尾を掴ませない。まして王族に目をつけられたと分かれば、普通は証拠を隠されるか、部下を切り捨てられて終わりです」
彼女は手帳を開き、そこに書き込んだ情報を確認した。
「ですが、もし第二王子の狙いが王位だとしたら、どうでしょう。反乱のために兵士を集め、武器を必要としている。しかも、王太子と緊張関係にあるとすれば、裏社会の人間にとっては双方が絶好の商売相手となるわけです」
アリシアは顔を上げた。
「殿下は、反乱の噂を利用してスカーを誘き寄せたのではありませんか?」
室内が静まり返った。
窓の外では、庭木の枝が風に揺れている。
「武器の取引を持ち掛けるよう誘導して、貴族の権力を利用して犯罪組織の内部へ入り込む。そうして取引の記録や関係者の証言を集め、十分な証拠が揃ったところで、現場を一斉に摘発する」
アリシアは静かに言った。
「つまり、殿下は反乱を企てているのではありません。王都の犯罪組織を壊滅させるため、あえて反乱を企てているよう愚かな王子として振る舞ったのです」
クラウディアは口元を押さえた。
「……エドワード様」
エドワードは答えなかった。
その沈黙を、アリシアは肯定とも否定とも受け取らなかった。
「そして、婚約破棄についてですが……」
アリシアはクラウディアへ視線を向けた。
「おそらく、殿下はクラウディア様を守りたかったのでしょう」
「……私を?」
「はい。スカーのような男は接触する際に先ず、相手の素性を調べたはずです。殿下の婚約者がクラウディア様なのも当然調べがついている。万が一、裏切られた際の保険としていつでも誘拐できるよう、尾行なども付けられていたはずです。違いますか? 殿下」
アリシアはエドワードを見た。その瞬間、エドワードの唇が小さく結ばれた。
「だからこそ、殿下は婚約を破棄した。王家が違約金を全額負担すると申し出たのも、クラウディア様とクロイツ公爵家に不利益を与えないためでしょう」
クラウディアの瞳に涙が浮かぶ。
「エドワード様……」
「もちろん、これはただの私の憶測にすぎません。ですがこれならば、全ての辻褄が合います。と、まあ……以上が、私の調査結果です」
誰も口を開かなかった。
クラウディアはエドワードを見つめ、バトラーは険しい表情で二人の様子を窺っている。
そして、エドワードは――。
「……見事だ」
静かに呟いた。
アリシアは少しだけ肩の力を抜いた。
「ありがとうございます」
「だが、一つ聞かせてくれ。お前はなぜ、そこまで調べようと思ったのだ?」
エドワードの声は、先ほどまでとは違っていた。
穏やかな口調ではあるものの、その奥に冷たいものが混じっている。
「依頼は婚約破棄の理由を調べることだったはずだ。そこから、どうして私の屋敷に出入りする商人の素性まで調べようと思った?」
「それは……気になったからです」
「気になった?」
「ええ。探偵というものは因果な職業でしてね。たった一つの見落としで、行き着く先が全く違ったものになってしまう。だからこそ、気になった事はそのままにしないという癖のようなものです。もっとも、今回は偶然その癖に助けられたわけですがね」
エドワードは小さく笑った。
「……なるほど。探偵というのは、随分と厄介な職業だな」
そう言って、ゆっくりと立ち上がった。
腰には、装飾の施された長剣が下げられている。
エドワードはその柄に手を掛けた。
「……殿下?」
アリシアの表情が強張った。
「さて。貴様の推理が正しかろうと、間違っていようと……ここまで知ってしまった以上、簡単に帰すわけにはいかなくなった」
エドワードは剣を鞘から僅かに引き抜いた。
金属の擦れる音が、静かな応接室に響いた。
アリシアは思わず後ずさった。
「ちょ、ちょっと待ってください! 私は別に、殿下の秘密を誰かに話すつもりなんて――」
その狼狽する様子を見ながら、エドワードは薄く笑う。
「それをどうやって信じろと? 首を突っ込むのは良いが、その首を刎ねられるところまでは思い至らなかったか、探偵?」
アリシアは言葉に詰まった。
当然、こうなる事もある程度予測はしていた。
自分の推理が正しくても間違っていても、エドワードは国家規模の秘密作戦を進めていることになる。それを憶測とはいえ、どこの誰とも知れない私立探偵に知られてしまったのだ。
秘密を守るために、彼がどのような判断を下すのかは想像に難くない。
だが……
「エドワード殿下。私は平民のしがない探偵です。ですが目の前で泣いている依頼人がいれば、駆けつけて涙を拭うくらいの矜持は持ち合わせているのですよ」
その言葉を聞いて、エドワードの顔から笑みが消えた。
「ほう……」
「エドワード様!」
その時、クラウディアが声を上げた。
彼女は立ち上がると、アリシアを庇うようにエドワードの前へ進み出た。
「剣をお納めください!」
「クラウディア、下がっていろ」
「嫌です!」
クラウディアはきっぱりと言い切った。
「アリシアさんは、私のために調べてくださったのです。何も悪いことはしていません!」
「……分かっている」
「いいえ、分かっていらっしゃいません!」
クラウディアの瞳から、一筋の涙が零れた。
「私は、アリシアさんのお話が正しいと思います。エドワード様が王位を奪うために反乱を企てるなど、絶対にあり得ません!」
エドワードは苦しそうに眉を寄せた。
「クラウディア……」
「だって、私は知っているのです。殿下がどれほどお優しい方なのか。どれほど、この国の人々を大切に思っていらっしゃるのか」
クラウディアは一歩近づいた。
「私は、そんなエドワード様をお慕いしているのです」
エドワードの手が止まった。
「たとえ殿下が危険なことをなさっているのだとしても、そこには必ず理由があるはずです。私は、それを信じています」
「……君は」
エドワードは何かを言いかけ、口を閉じた。
しばらくの沈黙の後、彼はゆっくりと剣を鞘に戻した。小さな金属音が響いた。
「……降参だ」
エドワードは深く息を吐いた。
「まったく、君には昔から敵わないな」
クラウディアの瞳が揺れた。
「エドワード様……?」
エドワードはソファへ腰を下ろし、片手で額を押さえた。
「アリシア・ベルモンド」
「はい」
「貴様の推理は、ほぼ正しい」
「……本当ですか?」
「ああ。私はスカーの組織を壊滅させるため、反乱を企てているように見せかけている。兵士の募集も、武器の取引も、全てそのためだ」
アリシアは思わず息を呑んだ。
推理が当たっていた。しかし。それは同時に自分が国家機密に踏み込んでしまったことを意味する。
「ただし、一つだけ補足しておこう」
エドワードは静かに続けた。
「兄上も全てご存じの上だ」
アリシアは目を瞬かせた。
「王太子殿下が?」
「ああ。この計画は、そもそも兄上と私が相談して始めたものだ。兄上が頻繁に屋敷を訪れているのは私を牽制するためではない。スカーの耳に兄弟の不仲を印象付けるためさ」
エドワードは苦笑した。
「もっとも、兄上の周囲にいる者たちには、本当のことを知らせていない。兄上の他に出入りしているものは、本当に私を警戒しているだろう」
アリシアは昨日出会った冒険者たちを思い出した。
王太子の名義で動き、第二王子の反乱を疑っていた男たち。
彼らは、自分たちが聞かされている情報を疑っていなかった。
「……なるほど。だから、あの人たちも本当に反乱が起きると思っていたのね」
「何の話だ?」
「いえ。こちらの話です」
アリシアは慌てて首を振った。
エドワードは不思議そうな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。
「スカーは用心深い男だ。王族が犯罪組織の摘発を進めていると知れば、すぐに姿を消すだろう。だからこそ、我々は彼に別の目的を信じ込ませる必要があった」
エドワードは窓の外へ目を向けた。
「私が兄上に不満を抱き王位を狙っている。そうなれば、奴は喜んで武器を売りに来る。事実、先日はとうとう兄上のところにまで奴の息のかかった者が現れたらしい。顔を合わせて分かったが、奴は根っからの商人だ。まあ熱心だからと言って許すつもりは微塵もないがな」
「……そして、取引を重ねて信頼を得ながら証拠を集める、と。」
エドワードは頷いた。
「すでに組織の資金の流れや、関係者の名前もかなり掴んでいる。もう少しで、奴らを一網打尽にできるところまで来た。……ここまで長かった。本当に……」
エドワードが椅子に腰を下ろすと、アリシアは感心したように息を吐いた。
なるほど。全てエドワードの筋書きだったわけだ。
王太子と第二王子が対立しているように見せかけ、犯罪組織を誘い込む。しかも、周囲の人間にまで偽の情報を流しているため、多少調べたところで真相には辿り着けない。
実際に、今回はクラウディアとエドワードの信頼関係がたまたま自分の推理の裏付けになっただけで、自身も最後の部分は見抜けなかった。
「クラウディア様との婚約破棄もその計画の一端ですね」
アリシアが尋ねると、エドワードは苦しそうに顔を伏せ、静かに言った。
「……スカーは目的のためなら手段を選ばない男だ。もし私が奴を裏切っていると知れば……いや、そうでなくとも保険として、何かあれば真っ先に狙われるのは君だろう」
「だから、一方的に婚約を破棄したと?」
「ああ。私が関係を断ち、クロイツ公爵家から怨みを買えば、少なくとも君が狙われる可能性は低くなると思った」
エドワードは顔を上げた。
「本当は全てが終わってから事情を説明するつもりだった。だが、それまで君を不安な気持ちにさせたのは私の落ち度だ。本当にすまなかった」
その言葉を聞いた瞬間、クラウディアの目から涙が溢れた。
「……馬鹿」
小さな声だった。
「本当に、馬鹿な方です……!」
クラウディアはエドワードの胸に飛び込んだ。
エドワードは驚いたように目を見開いたが、すぐに彼女の身体を抱き締めた。
「クラウディア……」
「どうして、私に相談してくださらなかったのですか……!」
「……すまない」
「私は、殿下の婚約者なのですよ。嬉しいことも、悲しいことも、共に分かち合うと約束したではありませんか……!」
クラウディアは泣きながら訴えた。
「危険だからといって、勝手に私を遠ざけないでください……!」
エドワードは何も言わず、彼女を抱き締めていた。
アリシアはその光景を眺めながら、そっと視線を逸らした。
どうやら、依頼人の望んでいた答えには辿り着けたらしい。
「……さて。これで一件落着ですね。それでは、私はこれで失礼させていただきます。クラウディア様、お幸せに。ごきげんよう」
エドワードが、クラウディアを抱き締めたまま口を開いた。
「待て。アリシア・ベルモンド」
「…………」
「貴様の処遇についてだが」
アリシアの背筋が凍った。
「……まだ、そのお話が残っていたんですか?」
「当然だろう」
エドワードは真顔で頷いた。
「君は、王家の極秘作戦を知ってしまった。いくらクラウディアの依頼とはいえ、このまま何事もなかったように帰すわけにはいかない」
アリシアは青ざめた。
クラウディアも慌てて顔を上げた。
「エドワード様! アリシアさんは私の恩人です!」
「分かっている。悪いようにはしない」
エドワードはアリシアを見つめた。
「貴様には、今後私の下で働いてもらう」
「……はい?」
「私の密偵になってほしい」
アリシアは目を瞬かせた。
「密偵……ですか?」
「ああ。今回の件で、貴様の調査能力は十分に証明された。限られた情報からここまで真相に迫るとは、正直驚かされたぞ」
エドワードは穏やかに微笑んだ。
「王家には多くの騎士や役人がいるが、貴様のような人材はそう多くない。表立って動けない仕事を任せるには、ちょうどいい」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
アリシアは慌てて両手を振った。
「私はただの私立探偵ですよ。浮気調査や人探しが専門で、国家の陰謀なんて専門外です」
「だが、今回の事件は見事に解決したじゃないか」
「偶然です」
「謙遜する必要はない」
「勿体無いお誘いですが殿下。謹んでお断りさせていただきます」
「誘いではない。これは命令だ」
……困ったことになった。王家の密偵など、どう考えてもヤバい仕事である。
今回だって、少し間違えれば命を落としていたかもしれない。それを今後も続けろというのだから冗談ではない。
「そもそも、私には自分の事務所がありますし……!」
「もちろん、探偵業は続けてもらって構わない。必要な時だけ、こちらから依頼を出す形にしよう。報酬も十分に用意する」
エドワードはさらりと言った。
「一件につき、金貨五枚ではどうだろう?」
アリシアの動きが止まった。
「……金貨五枚?」
「ああ。危険な仕事には、それに見合った対価が必要だろう」
アリシアは思わず頭の中で計算した。
金貨五枚。
普段の仕事なら、何か月も働いてようやく稼げる金額である。
それが、一件五枚。それだけあれば老朽化した事務所の補修や、看板だって新調できるかもしれない。
「ちなみに、経費は?」
「もちろん別途支給する」
「なるほど」
アリシアは顎に手を当てた。
エドワードは満足そうに微笑んだ。
「どうやら、話がまとまりそうだね」
「まだ引き受けるとは言ってませんからね」
アリシアは慌てて首を振った。
しかし、その声には先ほどまでの勢いがなかった。
クラウディアがくすりと笑った。
「アリシアさん。どうか、エドワード様のお力になっていただけませんか?」
「クラウディア様まで……」
「私からもお願いいたします。今回のように、殿下が一人で何もかも抱え込んでしまわないよう、見守っていただきたいのです」
クラウディアはエドワードへ視線を向けた。
「それに私も協力いたします」
「……え?」
エドワードが驚いたように顔を上げた。
「クラウディア?」
「私たちの婚約を、元に戻しましょう」
クラウディアは微笑んだ。
「そもそも、婚約を破棄したところで私が殿下をお慕いしていることは変わりません。スカーという男が本当に用心深いのであれば、突然婚約を破棄された私が、殿下を恨んでいるかどうかも調べるでしょう」
エドワードは黙って聞いていた。
「それなら、むしろ婚約を続けていた方がよいのではありませんか?」
「……どういうことだい?」
「クロイツ公爵家は、王国でも有数の名門です。もし私に危害を加えれば、父は黙っておりません。スカーがどれほど大きな組織を持っているとしても、公爵家と王家の双方を敵に回すことは避けたいはずです」
クラウディアはエドワードの手を握った。
「もちろん、絶対に安全とは申しません。ですが、婚約を破棄したからといって私の安全が絶対に保証されるわけでもないのでしょう?」
「……それは」
「でしたら、私をお側に置いて守ってください」
クラウディアは真っ直ぐにエドワードを見つめた。
「私たちは婚約者なのですから」
エドワードはしばらく彼女を見つめていた。
やがて、その顔に穏やかな笑みが浮かんだ。
「……本当に、君には敵わないな」
「昔からそうでしょう?」
「ああ。そうだった」
二人は顔を見合わせ、微笑んだ。
エドワードはクラウディアの手を取り、そっと口づけた。
「クラウディア。もう一度、私の婚約者になってくれるかい?」
クラウディアの瞳から、再び涙が零れた。
「……はい。喜んで」
アリシアはその光景を眺めながら、小さく息を吐いた。
やれやれ。自分は何を見せられているのかしら。
とはいえ、これでようやく依頼も解決した。
婚約破棄の理由は明らかになり、二人は無事に元の関係へ戻ることができた。
依頼人の望みは叶えられたのである。
ただし、一つだけ問題が残っていた。
「それではアリシア。早速だが、貴様に頼みたい仕事がある」
「……はい?」
「実はスカーの組織について、もう少し詳しく調べてもらいたいことがあってね」
アリシアは思わず頭を抱えた。
「……ちょっと待ってくださいよ。私、まだ今回の報酬も受け取ってないんですけど!」
その言葉に、クラウディアが声を上げて笑った。
エドワードもつられるように笑い、バトラーまでもが口元を緩めている。
アリシアだけが、心底困った顔をしていた。
こうして、クラウディア・フォン・クロイツ嬢から舞い込んだ大事件は幕を閉じた。
そして同時に、彼女の新たな仕事が始まったのである。
王都の片隅にある、古い赤煉瓦造りのうらぶれた建物。
そこに掛かった真鍮製の看板には、掠れた文字でこう書かれている。
『アリシア探偵事務所』
その扉を叩けば、今日も一人の私立探偵が、少々面倒くさそうな顔で出迎えてくれることだろう。
「……それで、今日はどういったご依頼ですか?」
もっとも、彼女が本当に平穏な日常を取り戻せるのは、もう少し先の話になりそうである。
完




