氷の皇帝と、春の研究室
帝都オイレンベルクを包む風は、日に日に冷たさを脱ぎ捨て、黒曜宮の広大な中庭には淡い紫色のクロッカスの花が咲き乱れていた。
宮殿東翼に位置する特別顧問官執務室は、春の柔らかな日差しに満たされ、心地よい活気と学術の熱気に満ちあふれていた。
「フィリア様。こちらが帝都博物院の民俗史料部から搬入された、東方街道沿いの古い道標石板の擦拓本でございます」
助手のベルンハルトが、何枚もの分厚い麻紙の束を机の端へ丁寧に並べた。
アウグスタ大水門の事後対応。そして先日の治水記念夕宴を経て、フィリアの立場は宮廷内において揺るぎないものとなっていた。
皇帝レオンハルトが公式の宴席で門閥貴族の不敬を事実の提示によって退け、彼女の知性と誠実さを公然と庇護したという事実は、帝国の学術界全体に鮮烈な印象を与えていたのである。
その結果、執務室には図書院の司書たちだけでなく、博物院の民俗学者、鉱物学研究所の技術者、法制局の若手編纂官など、様々な分野の専門家たちが古文書の照会や相談のために出入りするようになっていた。
「ありがとうございます、ベルンハルトさん。……まあ、この道標の文字、共通語に混ざって古い神聖文字の略称が使われているのですね。街道を通る商人たちが、無事を祈って刻み込んだものでしょうか」
フィリアは拡大鏡を片手に身を乗り出し、紙面に躍る文字を愛おしそうになぞった。
ルベル王国の暗い地下室で、埃にまみれて孤独に古紙と向き合っていた日々が、遠い幻のように思えた。
ここでは自分が文字を読めば、それを必要とする人々が熱心に耳を傾けてくれる。
異なる知見を持つ者たちと言葉を交わし、歴史の欠片を共に紡ぎ直していく――その日々のすべてがフィリアにとって純粋に楽しく、満ち足りたものであった。
しかし。
そんな学究の熱気に沸く執務室において、最近室内の学士や司書たちの間で、ある「奇妙な共通認識」が密かに定着しつつあった。
「……ベルンハルト司書」
書棚の陰で資料を整理していた博物院の助手が、小声でベルンハルトに耳打ちした。
「本日の定時研究報告書、内務省経由で皇帝陛下へ提出したのは……確か、朝の九時でしたよね?」
「ええ、間違いなく九時ちょうどに受領印をいただいておりますが」
「では……なぜ、もう足音が聞こえるのでしょうか」
「…………」
ベルンハルトは静かに眼鏡の位置を直し、深いため息を呑み込んだ。
カツン、カツン、と廊下の向こうから、寸分の狂いもない正確な軍靴の足音が近づいてくる。
重厚な樫の扉が音もなく開かれた。
「――皇帝陛下、御成り」
直立不動の近衛兵の鋭い号令とともに、室内の空気がぴんと張り詰めた。
入ってきたのは、黒鉄の軍服を隙なく纏ったレオンハルトであった。
灰銀の髪をきっちりと撫で付け、冷徹な黄金の双眸が部屋の中を一巡する。その威厳に居合わせた博物院の助手や司書たちが、一斉に作業の手を止め、姿勢を正して頭を下げた。
「陛下、いらっしゃいませ!」
フィリアだけが屈託のない明るい笑顔を浮かべて、机から立ち上がった。
「朝の報告書、何か文脈に不明瞭な点でもございましたでしょうか? 補足の史料でしたら、直ちにご用意できますが!」
「……いや。報告書の記述に瑕疵はない。極めて明晰であった」
レオンハルトは感情の読めない無表情のまま、大股に机の脇へと歩み寄ってきた。
「ただ回廊を巡回中、この区画の換気が十分であるか気になったのでな」
「換気……でございますか?」
フィリアはきょとんとして、天井近くの通気窓を見上げた。
窓は朝から心地よい春風を迎え入れ、室内には澄んだ空気が満ち満ちていた。
「はい。窓は開けておりますので、空気はとても清々しいです!」
「……そうか。ならば良い」
レオンハルトは短くそう呟くと、机の上に広げられた拓本を黄金の瞳でじっと検分した。
それから、これといって追加の質問をするでもなく、ただ腕を組んだままフィリアの作業机の傍らに佇んでいる。
沈黙が落ちる。
会釈した姿勢のまま控える助手たちは、互いに視線を交わしながら「一体何の御用なのだろうか」と内心で戸惑っていた。
水門事件の直後こそ、事後処理のための公的な進捗確認という大義名分があった。
だが水路の監視体制が整った今、皇帝自らが日に何度も顧問官執務室へ足を運ぶ理由など、公務のどこを探しても見当たらなかったのだ。
「あの、陛下? 何か急ぎでお調べになりたい古文書でもございますか?」
小首を傾げるフィリアに対し、レオンハルトは視線を逸らさずに答える。
「いや。公務の合間の息抜きだ」
(息抜きで、執務室の空気をここまで張り詰めさせるお方がいるだろうか……)
ベルンハルトは喉元まで出かかった呟きを、必死に押し殺す。
皇帝のこの行動の裏にある理由を周囲の人間は薄々察していた。
だが、当のフィリア本人だけは、胸の前で両手をぎゅっと合わせて感心したように息を漏らしている。
「まあ……! 陛下はお忙しい激務の合間にも、こうして現場の環境や学問の進捗にまで気を配ってくださるのですね。本当に細やかな主君でいらっしゃいます」
一点の疑いもない純粋な感銘。
レオンハルトはその澄み切った瞳に見つめられ、ほんのわずかに視線を彷徨わせると、低く咳払いを一つした。
「……励め。邪魔をした」
背中を向けて大股で去っていく皇帝の後ろ姿を、フィリアは尊敬に満ちた眼差しで見送った。
扉が閉まり足音が遠ざかると、室内の助手たちが一斉に小さく息を吐き出す。
ベルンハルトだけが、眼鏡の縁を押さえながら静かに天を仰いだ。
◇
そんな日常が続いていた、ある日の午後。
執務室に帝都博物院から一人の青年研究員が訪れていた。
「フィリア様! これを見ていただけますか!」
興奮した様子で木箱を抱えて入ってきたのは、民俗史料部の若手研究員ユリアンであった。
二十代半ばの熱心な学者で、人懐っこい性格と学問への真摯な姿勢を持つ彼は、フィリアが解読した古代碑文の注釈書を深く学んでいる一人であった。
「西方辺境の古い廃寺院から回収された、木製板碑の断片です。これの第四節、どうしても従来の語彙解釈と噛み合わない部分がありまして!」
「拝見しますね、ユリアンさん」
ユリアンが保護布を敷いた机の上に慎重に木板を広げると、フィリアは脆くなった木肌を傷めぬよう細心の注意を払い、手を触れずに拡大鏡を近づけた。
薄暗い塗料で記された古代文字の列。
フィリアが光を当ててその配列を追っていくと、やがてヘーゼル色の瞳が驚きに瞠られた。
「まあ! ユリアンさん、これ……古い時代の、地方俗語の用例ではありませんか?」
「本当ですか!?」
「ええ! ほら、この動詞の語尾を見てください。帝室の正典ではあまり見られない『~を共に分かち合う』という接続辞が、民間の方言の形を保ったまま綺麗に残っています。地方でこの語法が実際に用いられていたことを示す、とても貴重な実例です!」
「やっぱりそうだ! 僕の見立ては間違っていなかった……!」
ユリアンは喜色を満面に浮かべフィリアの隣へと身を乗り出した。二人は机の上に頭を寄せ合わせ、木板の墨痕を熱心に覗き込む。
「まだ年代や寺院での用途について慎重な検証が必要ですが、ほかの出土史料と照合していけば、当時の地方における文字の使われ方や文化交流の実態を検討する、大きな手掛かりになりますね!」
「はい! フィリア様。ここ、この単語との係り結びはどう解釈すべきでしょうか?」
「ここはですね、前の名詞が対格になっていますから……ふふ、見てください。まるで日常の話し言葉のようなリズムでしょう?」
「本当だ! 公文書の堅苦しい調子とは全然違いますね!」
フィリアは楽しそうに声を弾ませた。
自分の見出した知見が同じ志を持つ年の近い研究者と共有され、新たな考察へと繋がっていく。
その知的な対話は彼女にとって胸躍る時間であった。
――だが。
二人が木板を囲んで熱心に議論を交わしていた、まさにその時。
ギィ……と、ノックの音もなく、執務室の扉が静かに開かれた。
室内のざわめきが、ふっと途切れた。
春の陽だまりのような温もりの中に、どこか冷ややかで硬質な気配がすっと滑り込んでくる。
扉の前に立っていたのはレオンハルトであった。
黒鉄の軍服を隙なく纏った長身が、無言のまま佇んでいる。その黄金の双眸は、机を挟んで親密そうに身を寄せ合い熱心に語り合っていた二人の姿に――とりわけ、フィリアのすぐ隣に立つユリアンへと静かに向けられていた。
「あ……」
視線に気づいたユリアンが顔を上げた瞬間、その動きがピタリと止まった。
怒声を上げているわけでも、威圧的に睨みつけているわけでもない。
ただ感情の一切を削ぎ落とした無表情とじっと注がれる鋭い眼光。その冷ややかさにユリアンは背筋に冷たい汗が流れるのを覚えた。
書棚の陰にいたベルンハルトが「またか……」とばかりに小さく眉をひそめている。
「あ、陛下!」
唯一、室内の微妙な空気に気づいていないフィリアだけが、満面の笑みで顔を上げた。
「ちょうど良いところにいらっしゃいました! 今、ユリアンさんが興味深い発見をお持ちくださったのです!」
「……ほう」
レオンハルトの口から漏れた声は、低く硬い響きを帯びていた。
皇帝は静かな足取りで机の脇へと歩み寄ると、二人の手元にある木板へと視線を落とした。感情を交えぬまま、机の上の資料を見下ろす。
その間近に立つユリアンは、皇帝の醸し出す無言の気まずさにいたたまれず、居心地悪そうに少しだけ身を引いた。
「古い木板碑か。中央の公用文とは異なる語尾のようだな」
「はい! 民間の方言が反映された稀少な用例です。作成年代や用途の特定にはまだ慎重な調査が必要ですが、他の出土史料と突き合わせることで、当時の地方の記録文化を解き明かす貴重な資料になるかと存じます!」
フィリアが熱心に説明する。
レオンハルトは無表情のまま木板を一瞥し、次いで、恐縮して直立しているユリアンへと視線を向けた。
その双眸には統治者としての理知的な光が宿っていた。
「……よく見つけ出したな。埋もれていた地方の記録に光を当てる着眼点は評価に値する」
「は、ありがとうございます。陛下……!」
「木材の劣化が進んでいるようだ。まずは適切な保存処置を最優先とせよ。その上で、博物院を通じて追加調査の計画書を提出させろ。必要な調査費用については、計画書の内容を確認した上で正式に審査する」
淀みなく、寸分の狂いもない的確な行政判断。
相手が誰であれ学術的成果に対しては公正に向き合い、手順に則って保護と調査の道筋をつける。
そこに私情を挟んで研究を阻害するような狭量さは、皇帝には微塵もなかった。
――しかし。
公的な指示を出し終えた後もレオンハルトの表情から硬さが消えることはなかった。
皇帝の胸の内には彼自身にとっても割り切れない、小さな不満が渦巻いていた。
(なぜだ……?)
レオンハルトは内心、微かに眉を寄せていた。
優れた研究成果がもたらされるのは歓迎すべきことだ。彼女が新天地で孤立せず、志を同じくする仲間と議論を交わしていることも、職務上好ましいはずであった。
だというのに。
先ほど扉を開けた瞬間に目にした、あの光景。
フィリアが若い男に向かって見せていた、あの屈託のない楽しげな笑顔。
自分と対面している時のフィリアは、常に敬意を払い、礼儀正しく背筋を伸ばしている。
先日の昼食の席でさえ、どこか恐縮した様子を崩さなかった。
自分には見せたことのないあの無防備な親しみやすさを、なぜあの研究員には向けているのか。
学術的な成果を公平に評価する理性とは裏腹に、胸の奥をチリチリと焼くようなその違和感に、レオンハルト自身が酷く戸惑っていた。
そして何よりも皇帝を釈然とさせなかったのは、その後のフィリアの様子であった。
「ユリアンさん。陛下の仰る通り、現物は博物院の保存修復工房へ引き継ぐ手配をしましょう。その前に表面には触れず、目視で読める範囲の文字配列を記録しておきますね。ベルンハルトさん、筆記用の紙をお願いできますか?」
フィリアは皇帝がすぐ目の前に立っているにもかかわらず、あっさりと木板の資料へと意識を戻し、再び作業を始めようとしたのだ。
自分が来室したというのに彼女はただ平然と仕事を続けようとしている。
まるで、自分の存在が彼女の熱中する世界の外側にあるかのように。
「…………」
レオンハルトの口元がわずかに引き結ばれた。
立ち去る理由も見当たらず、かといって学術の邪魔をするわけにもいかず、皇帝は低く喉を鳴らした。
「フィリア」
「はい、陛下! 何でしょうか!」
顔を上げたフィリアの瞳は、純粋な探求心に輝いていた。一点の曇りもないその瞳を見つめ、レオンハルトは平然を装いながら言葉を紡いだ。
「……根を詰めすぎるのは良くない。少し、休憩しないか」
皇帝自らの異例とも言える労わりの提案。
ベルンハルトが息を呑む中、フィリアは嬉しそうに目を細め、胸の前で両手を合わせた。
「お気遣いいただきありがとうございます、陛下! お優しさに心より感謝いたします!」
「……うむ」
「ですが、この目視での記録作業、今が一番集中できている瞬間でございますので! あと一刻――二時間ほどで完璧に区切りがつきます! 作業が終わりましたら、改めて結果をご報告に伺いますね!」
「…………」
快活で一点の悪意もない完璧な笑顔での辞退。
レオンハルトは言葉を失い、完全に硬直した。皇帝からの休憩の誘いを、「あと二時間で終わるから」と笑顔で後回しにされたのだ。
室内に何とも言えない気まずい沈黙が流れる。
ユリアンが所在なげに視線を彷徨わせ、ベルンハルトが「フィリア様、もう少し周囲の空気を……」と祈るように目を伏せた。
短い沈黙の後、レオンハルトは感情を押し殺した硬質な声で告げた。
「……そうか。ならば、励め」
踵を返し、大股で去っていく皇帝。
バタンと閉ざされた扉の音が、いつもよりわずかに重かったことに、フィリアだけが気づいていなかった。
「ふふ、陛下は本当に私たちの健康を気遣ってくださるのね。さあ、ユリアンさん、記録を急ぎましょう!」
「あ、は、はい……」
ユリアンは額の汗を拭いながら、複雑な面持ちで返事をした。
◇
それから、ちょうど一刻――きっかり二時間が経過した。
執務室の壁にかかる大時計が重々しい鐘の音を響かせ、長針が真上を指したその瞬間。
コン、コン。
正確無比なノックとともに、執務室の扉が開いた。部屋に入ってきた人影を目にした瞬間、室内の空気が再び静止した。
立っていたのは、レオンハルトであった。
先ほどと同じ黒の軍服姿のまま、寸分の狂いもない姿勢で扉の前に佇んでいる。
二時間。
分刻みの公務を動かしている最高権力者が、少女が「あと一刻で終わる」と言ったその時間を、きっちりと計って本当に再訪してきたのだ。
(本当に……時間通りにいらっしゃった……)
ユリアンは内心で息を呑み、ベルンハルトは眼鏡を押し上げながら、もはや感嘆を通り越した生温かい眼差しを主君へと向けた。
あまりにも律儀で、あまりにも分かりやすい。
多忙を極めるはずの男が時計を睨みながら公務を猛烈な速度で片付け、約束の瞬間に舞い戻ってきたのだ。
しかし当のフィリアだけは、机の上の資料をまとめ上げると、満開の花のような笑顔で駆け寄った。
「陛下! 本当にお越しくださったのですね! ちょうど今、目視で確認できた文字の記録が終わったところです!」
「……そうか」
レオンハルトの表情は相変わらず厳格なままであったが、その黄金の双眸の奥に微かな安堵の色が差したのを、周囲の者は見逃さなかった。
皇帝は背後の侍従に合図を送り、執務室の丸テーブルに温かなハーブティーと焼き菓子を用意させた。
「ユリアンといったな。そなたの分の茶も用意させてある。座れ」
「あ……お気遣いいただき恐れ入ります、陛下」
ユリアンは直立して一礼すると、慎重に言葉を選んで切り出した。
「ですが、私は先ほどの板碑を直ちに博物院の特殊保存庫へ移送し、先ほどのご指示通り、予備調査の報告書を作成せねばなりません。本日はこれにて失礼させていただきます」
極めて理にかなった、職務上の妥当な辞退であった。
もちろん、その本音には「この二人の間にこれ以上同席するのは、居心地が悪すぎる」という強烈な直感が働いていたことは言うまでもなかった。
「……そうか。職務に励め」
「はっ、失礼いたします!」
ユリアンは木箱を抱え、礼儀正しく、しかし足早に部屋を辞去していった。
残されたフィリアは、促されるままにレオンハルトの向かいの席へと腰を下ろした。
「陛下。ユリアンさんが持ってきてくださったあの木板ですが、本当に興味深いのです。後ほど作成する概要を、ぜひご覧になってください」
湯気を立てるカップを前にしても、フィリアの口から飛び出すのは、先ほどの発見の喜びばかりであった。
レオンハルトは出された茶に口をつけながら、彼女の楽しげな語り口に静かに耳を傾けていた。
――ユリアンさんが。
――ユリアンさんの見立てが。
別の男の名が出るたびに、レオンハルトの眉間がわずかに引き締まったが、彼は決してそれを咎めることなく、ただ静かに相槌を打ち続けた。
他愛のない学術の報告。
それでも自分の目の前で、頬を桜色に染めて嬉しそうに言葉を紡ぐ彼女の姿を見つめているうちに、胸の奥を苛んでいた居心地の悪さが、少しずつ穏やかな熱の中に溶けていくのを、レオンハルトは感じていた。
◇
その日の夕刻。
日没の茜空が回廊を赤く染め上げる頃、特別顧問官執務室から少し離れた静かな渡り廊下で、二人の男が密かに言葉を交わしていた。
「ハルトヴィヒ長官……」
書類挟みを抱えたベルンハルトが声を潜めて切り出した。
向かい合う帝室総務長官ハルトヴィヒは、手にした懐中時計を眺めながら、深いため息を漏らす。
「ベルンハルト司書。言わんとすることは察しがつく」
「やはり、お気づきでしたか……」
「気づかぬはずがなかろう」
老長官は眼鏡の奥の目を細め、苦笑交じりに首を横に振った。
「本日の陛下の執務日誌を見てみたまえ。午後の閣議の合間、二度にわたる『顧問官執務室の空調および学術進捗の現地巡察』という、前代未聞の項目が記録されておる。しかも、二度目の訪問は、予定されていた軍制改革の草案決裁を、通常の倍近い速度で猛烈に片付けられた直後だ」
「現場におりました私といたしましては、室内の空気が急に張り詰めて、博物院の若手がひどく居心地悪そうにしておりましたよ」
「若い男性研究員が、フィリア殿下と親密そうに議論していたそうだな」
「ええ。単なる学術的な意見交換に過ぎなかったのですが、陛下のあの冷ややかな眼差しは、側から見ていて少々同情いたしました」
二人は顔を見合わせ、同時に小さく息をついた。
大陸全土にその武威を轟かせる若き覇王が、一人の少女の笑顔に心を乱され、無自覚な不機嫌に振り回されている。
研究を不当に阻むようなことは決してしない。
極めて公正に評価を下しながらも、その態度には隠しようのない不満が滲み出ているのだ。
あまりにも不器用で、あまりにも分かりやすすぎるその姿は、長年彼に仕えてきた側近たちにとって、畏怖を通り越して、どこか微笑ましい感慨を抱かせるものであった。
「……しかし、肝心のフィリア殿下は」
「はい」
ベルンハルトは困ったように眉を下げた。
「『陛下は本当に学問に熱心で、細やかなお方です!』と、一点の曇りもなく感激しておられました。殿下にとって陛下は至高の主君であり、尊敬すべき庇護者であって、それ以上の感情の機微には驚くほど無頓着でいらっしゃいます」
「やれやれ……」
ハルトヴィヒは懐中時計を懐へ収め、静かに中庭の夕空を見上げた。
「冷酷無比と恐れられる皇帝陛下と、世間知らずの純真な顧問官殿、か。……前途は多難のようだが、あの感情を表に出されなかった陛下が、これほどまでに人間らしい表情を見せられるようになるとは」
「ええ。見守る側の気苦労は少々増えそうですが……」
老長官と若き司書は苦笑を交わしながら静かに頷き合った。
春の夜風が吹き抜ける宮殿の奥で、不器用な二人の心の距離は、周囲の温かな見守りを受けながら、確実に少しずつ縮まり始めていた。




