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役立たずの文字食い王女と蔑まれた私は、冷酷皇帝にその価値を見出され溺愛される  作者: プラナリアになりたい
第一章 役立たずの文字食い王女と蔑まれた私は、冷酷皇帝にその価値を見出され溺愛される
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帝国の夕宴、冷酷皇帝の静かなる庇護

 帝都オイレンベルクを覆う冬の宵闇は、深い藍色の天蓋となって黒曜宮の尖塔群を包み込んでいた。

 宮殿西翼に位置する『白石の間』。

 天井を支える大理石の列柱の間には、無数の白蝋燭が燭台に灯され、柔らかな金色の光が磨き抜かれた石床を照らしている。

 今夜催されているのは、アウグスタ大水門の危機回避と帝都水路の改修完了を祝う、帝室主催の公式晩餐会であった。

 大広間には帝国の軍部重鎮、工務局の技師長たち、各省の長官。そして帝都に居並ぶ名門貴族たちが集っていた。

 舞踏会のような浮ついた喧騒はなく、流れる弦楽の調べも穏やかで、集う者たちの声音も落ち着いている。

 軍事と実利を重んじるガルディニア帝国の気風が、宴の席にも色濃く反映されていた。


「フィリア顧問官、少し緊張されておいでですか」


 列柱の陰で、助手のベルンハルトが控えめな声で尋ねてきた。

 フィリアは胸元にそっと手を当てて小さく息を吸い、微かに微笑み返した。


「ええ、少しだけ。ですが、以前のように足がすくむようなことはありません」


 今夜のフィリアが身に纏っているのは、帝室の専属仕立屋が整えた夜会用の正装であった。

 過剰なフリルや膨らんだパニエ、肌を大胆に晒すような意匠は一切なく、深い群青色の上質なシルクが、彼女の細身で楚々とした体躯の線を美しく包み込んでいる。

 襟元には控えめな銀のレースが施され、結い上げられた亜麻色の髪には、細やかな細工の銀の簪が一つ挿されているだけであった。

 華美を競う夜会とは違い、その装いは帝室の公職に就く者として落ち着きがあり、場にもよく馴染んでいた。


「フィリア様のお姿、とても良くお似合いです」


 ベルンハルトが眼鏡の奥の瞳を和ませ、真摯に言った。


「派手な装飾で己を飾り立てる貴婦人たちよりも、よほど美しく、威厳がございます。工務局の技師たちも、先ほどから貴女へ礼を述べようと機を窺っておりますよ」


「ありがとうございます、ベルンハルトさん。でも……私一人の力ではありません。水門を開いたのは、命がけで作業にあたってくださった技師の皆様です」


 フィリアがそう答えた瞬間、背後から無遠慮な足音と冷ややかな含み笑いが響いた。


「――ほう。殊勝なことを口にするものだ。小国の差し出してきた人質の分際で」


 低く、ねばりつくような声音。振り返ると、そこに立っていたのは、深紅の豪奢な礼服を纏った初老の男であった。

 胸元にいくつもの旧式勲章を誇示するように並べ、手にした銀の杯を弄んでいる。

 男の背後には、同じように傲慢な笑みを浮かべた二人の若い貴族が付き従っていた。


 ベルンハルトが顔色を変え、すっとフィリアの前へ半歩進み出て、硬い声で名乗りの礼をとった。


「……クロイツァー伯爵閣下」

「退きなさい、図書院の下級司書風情が。私はそこの『特別顧問官』殿と言葉を交わしに来たのだ」


 クロイツァー伯爵はベルンハルトを一瞥して鼻を鳴らすと、品定めするようにフィリアを上から下まで見つめた。

 その濁った瞳には隠しようもない優越感と、小国出身者に対する侮蔑が渦巻いていた。

 帝国宮廷における保守派の重鎮――古くからの門閥貴族であり、実力主義を徹底する若き皇帝レオンハルトの改革に、日頃から不満を募らせている一派の長であった。


「フィリア殿下、とお呼びすべきかな? ルベル王国では公式の記録にも名が残らぬ存在であったと聞くが」


 伯爵の口元が、下卑た笑みに歪んだ。


「古びた石ころの文字をたまたま拾い読みしただけで、帝室特別顧問とは。陛下もずいぶんと酔狂なことだ。いや、文字の解読など表向きの方便で、実際は若く血気盛んな陛下の閨の伽を務めるための名目ではないのかね? 小国の王女が生き残るための知恵としては、まことに感服するが」


 取り巻きの貴族たちが下品な忍び笑いを漏らした。

 ベルンハルトが怒りに拳を震わせ、声を荒らげようと口を開きかけた。


「閣下! 顧問官に対する侮辱は――」

「ベルンハルトさん、よいのです」


 フィリアは静かに助手の腕を制した。

 彼女のヘーゼル色の瞳は、驚くほど澄み切っていた。

 ルベル王宮にいた頃であれば、このような言われなき中傷を受ければ、ただ恐怖に身を竦ませて涙を呑んで耐えるしかなかった。

 だが、今のフィリアは違った。

 自分は文字を読み、事実を解き明かし、人々の暮らしを守るための仕事をした。

 その誇りがある限り、他者の浅ましい偏見や嫉妬の言葉に、心を汚されるいわれなど微塵もない。


「クロイツァー伯爵閣下」


 フィリアは背筋をすっきりと伸ばし、穏やかだが凛とした声で返した。


「私が陛下より賜りました役職は、古代文字の解読と公文書の真贋精査でございます。それ以上でも、それ以下でもございません。もし私の職務や成果に学術的な疑義がおありでしたら、工務局の保管庫に水路碑文の全対訳と構文解析書を収めてございますので、どうぞご自身の目でお確かめくださいませ」


 取り乱しもせず感情的にもならず、ただ事実だけを理路整然と差し出す毅然とした態度。

 伯爵はフィリアが怯えて泣き出すか、身分を振りかざして激昂すると高を括っていたのだろう。その完璧な返答に言葉を詰まらせ、忌々しそうに顔を赤らめた。


「へ、屁理屈を! たかが女子供の紙屑漁りが、帝国の秩序に口を挟むなど――」

「私の決断に何か不服があるのか、クロイツァー」


 背後から落ちてきたその一言は、広間の喧騒を完全に切り裂くほどに、低く、冷徹であった。

 室内の温度が一瞬で氷点下に落ち込んだかのような錯覚。

 クロイツァー伯爵の息が喉元で凍りつき、取り巻きの貴族たちがガタガタと震え出す。

 振り返った先には、黒の礼装を隙なく纏ったレオンハルトが立っていた。

 彫刻のように均整の取れた相貌には、一切の感情が窺えない。

 しかし、その黄金の双眸から放たれる凍てつくような眼光は、眼前の老貴族をその場に縫い止めるに十分な威圧を孕んでいた。


「へ……陛下……!」


 クロイツァー伯爵は手にした杯を取り落としそうになりながら、慌てて深々と頭を下げた。


「滅相もございません! 私はただ新任の顧問官殿に、帝国貴族としての心構えをご教授差し上げていただけで……」

「耳障りな言い訳をするな」


 レオンハルトは一歩前へと踏み出した。

 その長身が落とす濃い影が、平伏する伯爵を完全に覆い隠す。


「そなたは先ほど、フィリア顧問官の功績を『たまたまの紙屑漁り』と断じたな。ならば問う。アウグスタ大水門の閉塞を解き、帝都数十万の民の渇水を防ぎ、数十億クローネに及ぶ浸水被害を未然に回避した彼女の知見に対し、貴公は過去十年で帝国にそれ以上の利をもたらしたことがあるか?」


「そ、それは……」


「水路碑文の解読にあたり、工務局の学士たちが数ヶ月かけて解けなかった難題を、彼女は半日で正した。貴公に、その文字の一行でも読めるのか? 読めもしない学問を嘲笑い、功を立てた者を事実無根の妄言で貶める。それが貴公の誇る『帝国貴族の心構え』か」


 容赦のない正論の刃。

 怒鳴りつけるでもなく、ただ冷徹に事実の優劣を突きつける皇帝の言葉に、クロイツァー伯爵は額に大量の脂汗を浮かべ、膝を屈することしかできなかった。


「……申し訳、ございません……! 我が不明の至り、どうかご容赦を……!」


「無知を恥じよ。二度と我が顧問官の前に、その無様な姿を晒すな。下がれ!」


 レオンハルトの短い一喝に、伯爵と取り巻きたちは逃げるように頭を下げ、足早に広間の隅へと消え去っていった。

 周囲で様子を見守っていた貴族たちも、皇帝がこれほど明確に一人の顧問官を庇護した事実を目の当たりにし、背筋を正して畏怖の眼差しを向けていた。

 静寂が戻った一角で、レオンハルトは視線をフィリアへと向けた。

 黄金の瞳から先ほどの苛烈な光が引いていき、いつもの静謐な冷徹さへと戻っていく。


「不快な思いをさせたな」

「いいえ、陛下」


 フィリアは深々と一礼した。


「お助けいただき、ありがとうございます。ですが……私のために、重臣の方をあのように厳しく叱責されては、陛下の御立場に障るのではございませんか」

「障る理由がない」


 レオンハルトは即座に切り捨てた。


「能力のない者が、血筋や門閥に胡座をかいて実力者を侮蔑する。そのような腐敗を放置することこそが、国家にとって最大の損失だ。そなたの知性は我が帝国の法と、秩序を守るための柱だ。何者にもそれを穢す権利はない」


 その言葉には一切の迷いがなかった。


 フィリアは胸の奥が熱くなるのを感じた。

 ルベル王宮では、誰かに侮辱されても「お前がみすぼらしいのが悪い」「我慢しろ」と切り捨てられるのが常だった。

 自分のために誰かが盾となり、毅然と悪意を退けてくれる。

 その事実がどれほど心強いものであるかを、彼女はこの新天地で初めて知ったのだ。


 レオンハルトはフィリアの落ち着いた顔立ちを静かに見つめると、ふと広間の喧騒へと視線を向けた。


「室内の空気が澱んでいるな。少し風に当たるぞ」

「え……?」


 皇帝の言葉に、フィリアは小さく瞬きをした。

 レオンハルトはそれ以上言葉を重ねず、自然な動作でフィリアを促すように歩き出した。

 無理に手を引くことも、大仰に腕を組ませることもない。

 ただ、彼女が歩きやすい歩幅に無言で合わせながら、広間の側面にある静かなテラスへと導いていった。

 厚い硝子戸を抜けた先にあるテラスは、冷涼で澄み切った冬の夜気に満ちていた。

 眼下には、無数の魔導灯が星屑のように瞬く、帝都オイレンベルクの壮大な夜景が広がっている。

 遠くから微かに届く水路のせせらぎの音が、心地よく耳朶を打った。


「寒くはないか」

「はい。この外套をいただいておりますので、とても暖かいです」


 フィリアが羽織っている群青のシルクのマントは、裏地に柔らかな毛皮が仕込まれており、肌を刺す夜風をしっかりと遮ってくれていた。

 ふと見ると、テラスの石造りの小机の上には、すでに湯気を立てる小さな銀のポットと二つの白磁のカップが用意されていた。

 テラスには夜気を避けるための衝立だけが置かれ、卓上には仕事の合間に口を潤すための水差しが一つあるだけだった。

 レオンハルトはフィリアが座るのを待ってから、自らも向かいの椅子へ腰を下ろした。


「先ほどの件は、そなた個人への好き嫌いでは処理せぬ」

「はい……」

「帝室の正式な官職を出自を理由に侮辱することを許せば、制度そのものが形骸化する。それだけだ」


 フィリアは小さく頷いた。

 守られたというより職務上の線引きを明確にされた。その距離感が今の彼女にはありがたかった。


「先刻の伯爵の無礼な物言い、気にする必要はない」


 レオンハルトが、黒石の手すりの向こうに広がる帝都の夜景を見つめながら口を開いた。


「そなたがルベル王国でどのような扱いを受けていたか、帝国情報部からの報告で大半は把握している。公式記録からの抹消、宮廷行事からの締め出し、使用人たちの怠慢。名ばかりの王女として、光の当たらぬ場所に放置されていたそうだな」

「……はい……」


 フィリアは小さく視線を落とした。

 恥じるべき過去ではないと分かっていても、己の生い立ちの暗さは胸に大きな痛みを残している。


「だが、そなたはそのような環境にありながら、己の知性を腐らせず、誰を恨むこともなく、ただ純粋に文字と向き合い続けてきた。あの水門の制御室で、主弁の解放を命じた時のそなたの言葉を覚えているか」

「え……?」

「『後世の私たちが水害で命を落とさぬよう、古代の技術者たちが遺してくれた祈りだ』と、そなたは言った」


 レオンハルトの黄金の瞳が、静かにフィリアへと向けられた。

 その眼差しは冷徹な統治者のものではなく、一人の人間としての深い敬意に満ちていた。


「知識を持つ者は多い。だが、その知識を他者を慈しみ、命を救うために正しく使える者は極めて稀だ。私は、そなたの古代文字を読む力だけを評価しているのではない。その根底にある、誠実な人柄と判断力をこそ高く買っている」


 ドクン、と胸が跳ねた。


(能力だけではなく、人柄を評価している……)


 ルベル王国では、誰も彼女の心など見ようとはしなかった。

 ただ無能と蔑むか、あるいは便利な道具として使い潰すことしか考えていなかった。

 それなのに、大陸中から「冷酷無比」と恐れられるこの男は、彼女の心の奥底にある小さな祈りを、誰よりも深く正しく見抜いてくれていたのだ。


「陛下……」

「これからは何も恐れることはない。そなたが己の信じる学問を続けられるよう、帝国がそのすべてを保障する。そなたの居場所はここだ」


 レオンハルトは短くそう告げると、手元のカップを傾けた。


 甘い愛の囁きでも過剰な賛辞でもない。

 だがその無骨で揺るぎない確約は、どのような宝石よりも温かく、フィリアの魂に深く刻み込まれていった。

 フィリアは溢れそうになる涙を堪え、澄んだ笑顔で頷く。


「……はい、陛下。私はこの国で……陛下のいらっしゃるこの場所で、精一杯お役に立ってまいります」


 冬の澄んだ星空の下、二人の間に流れる空気は静かで、穏やかな信頼に満ちていた。


  ◇


 それから数日後。

 ガルディニア帝国の中央街道を、ルベル王国の紋章を掲げた一台の豪奢な特使馬車が、埃を巻き上げながら東へとひた走っていた。

 車内には外務卿代理ユリシーズが、革張りの座席に深々と身を沈めていた。

 手には、ルベル国王から託された金箔押しの親書が握られている。

 その顔には連日の強行軍による疲労が色濃く滲んでいたが、口元には傲慢な確信の笑みが張り付いていた。


「やれやれ、辺境の小国と侮っていたが、帝国の街道は随分と整備されているようだな」


 車窓から外を眺め、ユリシーズは鼻を鳴らした。

 道沿いに並ぶ整然とした石造りの街並み、豊かな水を湛えて静かに流れる灌漑水路。

 王都ルベルハイムが、干上がった運河の悪臭と市民の暴動寸前の怒号に包まれていることなど、まるで別世界の出来事のようであった。


(ふん、どうせ冷酷皇帝の恐怖政治で民を縛り付けているだけに過ぎん。あのような血も涙もない覇王のもとで、あの日陰者のフィリアが生きた心地をしているはずがない)


 ユリシーズは手元の親書を軽く指で叩いた。

 頭の中には、すでに帝都で繰り広げられるであろう「救済の筋書き」が完璧に出来上がっていた。


(あの女のことだ。帝国へ送られて以来、冷たい牢獄か、粗末な小屋で怯え震えながら、毎日泣いて過ごしているに違いない。そこへ私が、麗しい婚約者であったユリシーズ自らが迎えに行ってやるのだ……)


『王都の水門を直せば、無能ぶりを許してやる』

『我がアルスター公爵家の側室として、再び拾い上げてやろう』


 そう告げた瞬間、あの女は歓喜に打ち震え、涙を流し自分の足元に縋り付いてくるのだろう。

 その様が目に浮かぶようであった。


『王族としての名を正式に戻し、王立古文書院長として迎えてやろう』


 ユリシーズは嘲笑を漏らし、ワインの入った革袋に口をつけた。


「貴様の役立たずの文字読みも、我が公爵家とエレオノーラ殿下の栄光のために、精々利用してやる。私に選ばれたことを、神に感謝するがいい」


 愚かな使節は、覇王の坐す帝都の門へと近づきつつあった。

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