使節団からの帰還要請
帝都オイレンベルクの空は、季節の歩みとともに冬の重苦しい灰色の雲を脱ぎ去り、透き通るような早春の青さを湛え始めていた。
黒曜宮の東翼、陽光が惜しみなく注ぎ込む特別顧問官執務室には、乾いた羊皮紙の擦れ合う音と、羽ペンが紙面を走る規則正しいリズムだけが静かに響いていた。
「フィリア様、西方国境部から提出された『旧関税賦課に関する古代公約』の原典三点が届きました。法制局より、可及的速やかな語義照合の要請が出ております」
助手のベルンハルトが革表紙の頑丈な書類箱を両手で抱え、机の脇へと恭しく置いた。
フィリアは羽ペンを置き、指先を軽く揉みほぐしながら微笑む。
「ありがとうございます、ベルンハルトさん。法制局の担当官様方には、本日の夕刻までに第一稿の校訂表をお届けできるとお伝えください」
「承知いたしました。それにしても、フィリア様の作業速度には驚かされるばかりです。宮廷魔導院の専任学者たちですら、この分量ですと、一週間は頭を抱えるところですよ」
「ふふ、そんなことはありません。文法と定型句の骨組みさえ見抜いてしまえば、あとは前後の脈絡を整えるだけですから」
フィリアは朗らかに笑った。その顔立ちには、ルベル王宮の暗がりで常に漂わせていた怯えや暗さは微塵もなかった。
帝室特別顧問として任じられてから一月余り。
彼女が下した古代文字の鑑定と翻訳は、すでに帝国の内政・外交において数十件もの懸案事項を解決に導いていた。
自分専用の執務机があり、意見を求められれば誰もが耳を傾け、成果に対しては正当な敬意と感謝が返ってくる。
何より、あの冷徹と恐れられる皇帝レオンハルトが、彼女の知性を一人の人間として深く信頼し、その盾となってくれているという事実。
その温かな確信が長年凍りついていたフィリアの鎖を解かし、彼女本来の能力を開花させていた。
その時、執務室の厚い樫の扉が、控えめなノックとともに開かれた。
現れたのは、帝室総務長官ハルトヴィヒであった。常に温厚な老長官の表情に珍しく硬い緊張の色が混ざっている。
「フィリア顧問官。執務中、失礼いたします」
「ハルトヴィヒ卿。何か緊急の史料照会でしょうか」
「いえ……外交上の面会要請でございます」
ハルトヴィヒは一歩前へ進み出ると、携えていた銀の盆の上の書簡を示した。
「先刻、ルベル王国からの特使団が帝都に到着いたしました。首席特使として参内したのは、ルベル王国外務卿代理、ユリシーズ・アルスター公爵令息でございます。特使は帝国皇帝陛下への拝謁に先立ち、ルベル王女である貴女との私的な単独面会を強く要求してきております」
室内の空気が、すっと冷え込んだ。
ベルンハルトが眉を吊り上げ厳しい声音で言った。
「ユリシーズ・アルスター! 国境要塞で我が国を罠に嵌めようとし、フィリア様を身代わりの生贄として切り捨てた張本人ではありませんか! どの面を下げて帝都へ足を踏み入れたというのです!?」
「ベルンハルト、言葉を慎みなさい。……とはいえ司書の申す通りでございます」
ハルトヴィヒはフィリアへと視線を戻し、気遣わしげに言葉を継いだ。
「陛下からは、『顧問官が望まぬ面会であるならば、使節団ごと即刻叩き出し、国境の牢獄へ連行しても構わん』との勅命をすでに頂いております。貴女が会う筋合いは毛頭ございません。私どもの方で正式に要求を突っぱねましょうか」
皇帝の揺るぎない庇護。
その心遣いに胸を熱くしながらも、フィリアは小さく首を横に振った。
「いいえ、ハルトヴィヒ卿。お会いします」
「フィリア様!?」
ベルンハルトが驚きの声を上げる。フィリアは静かに立ち上がり、窓の外の澄み渡る空を見つめた。
「彼らがなぜ、この帝都までやってきたのか。理由は痛いほど分かります。祖国で何が起きているのかも。……私はもう、あの王宮で怯え震えていた日陰者ではありません。帝国の帝室特別顧問として、そして私自身の意思として、過去に区切りをつける必要があります」
そのヘーゼル色の瞳には揺らぎのない澄明な光が宿っていた。
ハルトヴィヒはフィリアの凛とした佇まいをじっと見つめ、深く感服したように一礼した。
「承知いたしました。会見の場は、黒曜宮南翼の『青磁の間』を用意させます。近衛兵を別室に待機させておりますので、万が一にも御身に危険が及ぶことはございません。ご安心を」
◇
黒曜宮南翼、青磁の間。
淡い青緑色の装飾石で飾られたその応接室は、帝国の格式と機能美が調和した静謐な空間であった。
部屋の中央に置かれた長椅子に深々と身を沈め、落ち着きなく指先で肘掛けを叩いていたのは、ルベル王国特使ユリシーズ・アルスターであった。
連日の強行軍による埃こそ洗い落としてはいたものの、その目元には隠しきれない焦燥と疲労が張り付いていた。
帝都へ入る際、彼が目にした光景は屈辱そのものであった。
干上がった王都ルベルハイムとは異なり、帝都の運河は清冽な雪解け水を満々と湛え、活気ある物資の荷揚げが行われていた。
街行く民の表情は明るく、帝都の防壁や建造物は寸分の乱れもなく機能している。
自らの国がいかに無残に崩壊しかけているかを、嫌というほど見せつけられたのだ。
(ええい、不気味な国だ! だが、それも今日で終わりだ。あの女を連れ戻しさえすれば、すべては元通りになる……!)
ユリシーズは懐の国王親書を強く押し当て、己に言い聞かせるように唇を歪めた。頭の中には、これから現れるであろうフィリアの姿が鮮明に描かれている。
冷酷無比の覇王のもとで、粗末な牢獄に閉じ込められ、恐怖に怯えきってみすぼらしくやつれ果てた「無能な紙食い虫」。
そんな哀れな女の前に麗しい元婚約者である自分が現れ、救いの手を差し伸べてやるのだ。
泣いて喜ばないはずがない。
ギギ、と重厚な扉が静かに開いた。
「おい、遅いぞフィリア! 元婚約者たるこの私を待たせるとは、相変わらず弁えが――」
立ち上がりざまに傲慢な怒声を浴びせようとしたユリシーズの言葉が、喉元でピタリと凍りついた。
部屋に入ってきたのは、彼が想像していたような「みすぼらしい日陰者」ではなかった。
深い濃紺の上質なシルクに身を包み、袖口には帝室直属を示す細やかな銀糸の刺繍。
背筋をすっきりと伸ばし、滑らかな足取りで歩み寄ってくるその女の姿は、王国の誇る第一王女エレオノーラすら足元にも及ばない、凛とした気品と知性を放っていた。
何より、その瞳であった。
かつてルベル王宮の暗がりで常に伏せられ、怯えと諦めに沈んでいた淡いヘーゼル色の瞳が、今は一切の曇りもなく、澄み切った光を湛えて真っ直ぐに自分を見据えている。
「な……貴様、本当に……フィリアなのか……?」
ユリシーズは思わず半歩後退り、呆然と呟いた。
その動揺を意に介することもなく、フィリアは中央の円卓を挟んで立ち止まり、静かに礼をとった。
完璧な、しかし一片の親しみも含まない冷ややかな外交儀礼の礼であった。
「お久しぶりでございます。ルベル王国特使、ユリシーズ・アルスター卿。ガルディニア帝国帝室特別顧問、フィリア・ルベルでございます」
「て、帝室特別顧問……!?」
聞き慣れぬ、しかし明らかに高位の官職名に、ユリシーズの顔が一瞬引きつった。
だが、名門アルスター公爵家の嫡男としての傲慢さと、染み付いたフィリアへの見下しの感情が、即座に彼の理性を塗り潰した。
ユリシーズは鼻を鳴らし、わざとらしく口元を歪めて嘲笑った。
「ふ、ふん。帝室特別顧問だと? 小賢しい虚飾を弄るな! どうせ、冷酷皇帝の機嫌を取るために与えられた名ばかりの肩書だろう。小国の差し出してきた人質風情が、分不相応な絹を着ていい気になっているのではないぞ!」
吐き捨てられる侮蔑の言葉。
かつてのフィリアであれば、その刃のような言葉に傷つき、身を縮めていただろう。だが今、フィリアの胸に去来したのは恐怖でも怒りでもなかった。
驚くほどの「冷淡な失望」であった。
これほどまでに他者を見下し、現実を見ようとせず、己の都合の良い虚妄にしがみつく男。
かつて自分が婚約者として敬い、その不条理に従わなければならないと思い込んでいた相手が、これほどまでに浅ましく滑稽な存在であったのかと、フィリアは冷めた瞳で見つめていた。
「それで、ルベル王国特使殿。帝国皇帝陛下への正式な謁見を前に、私に何の御用でしょうか」
「何の御用かだと!?」
ユリシーズは長椅子の背もたれを乱暴に叩き、身を乗り出した。
「白々しい真似をするな! 貴様、自分が何をしでかしたか分かっているのか! 貴様が勝手に帝国へ逃げ込んだせいで、王都の中央運河が干上がり商業船が座礁し、街中が悪臭と混乱で大変なことになっているのだぞ!」
「……私が勝手に逃げ込んだ……?」
フィリアは低く繰り返した。その声音の静けさに、ユリシーズは気づきもしない。
「そうだ! 貴様が必要な手順を正式に残さず出ていったせいだ! さらには旧離宮の古い協定文を読める者がいないせいで、諸侯連合との更新交渉まで滞っている! 王女なら祖国のために戻るのが当然だろう!」
あまりに身勝手で、破綻した論理。
王国が古代記録を軽視し、彼女の知識を正式な職務として扱わず、人材育成も引継ぎもしなかったことこそが問題の根だった。
そして「死んでも構わない身代わりの生贄」として、着の身着のままで国境要塞へ放り出したのも、他ならぬこの男たちであった。
それらの事実をすべて棚に上げ、己の無能によって水門を物理的に破壊した結果を、すべてフィリアの「嫌がらせ」として転嫁しているのだ。
「だが――」
ユリシーズは胸を張り、尊大に顎をしゃくった。その表情には自らの「慈悲」に酔いしれるような浅ましい笑みが浮かんでいた。
「我がルベル王国と、国王陛下。そして、この私は寛大だ。貴様のような日陰者の浅薄な罪など、広大なる慈悲をもって許してやることにした」
「……許す、とおっしゃるのですか」
「そうだ! 国王陛下より正式な親書を預かってきている」
ユリシーズは懐から金箔押しの親書を取り出し、机の上に放り出すように置いた。
「貴様が直ちにルベル王国へ帰還し、王都水門の古い手順書を読み直すこと。そして旧離宮に残る協定原典を整理し、後任の記録官へ意味を引き継ぐこと。それらを果たすならば、これまでの不敬を不問にし、第三王女として正式に名を戻す」
ユリシーズは一歩近づき、値踏みするようにフィリアを見下ろした。
「さらに、王立古文書院長の地位を与えてやる。王宮で古文書を扱う正式な官職だ。これまで地下で勝手に紙屑を読んでいた貴様には、身に余る名誉だろう? さあ、感謝して親書を受け取り、荷物をまとめろ」
名誉を戻してやる。
王宮で働かせてやる。
感謝して従え。
傲慢に満ちた言葉が、青磁の間の静寂に反響した。
ユリシーズは、フィリアが涙を流して足元に平伏し、歓喜の声を上げて親書を押し戴くものと信じて疑っていなかった。
彼にとってフィリアとはそういう存在でなければならなかったからだ。
しかし、フィリアは動かなかった。
机の上の親書を一瞥することすらなく、ただ静かに凛とした姿勢のままユリシーズを見つめていた。
その瞳のあまりの冷徹さに、ユリシーズは眉をひそめる。
「な、何をしている? 嬉しさのあまり声も出ないのか? おい、これを見ろ。エレオノーラ殿下からも、貴様宛てに直筆の書簡を預かってきているのだぞ」
ユリシーズは苛立ち紛れに、香水の匂いがきつく漂う桃色の封筒を取り出し、机の上に叩きつけた。
封蝋には、エレオノーラの私的な薔薇の紋章が刻印されている。
フィリアは無言のまま、その封筒に視線を落とした。
封筒の隙間から覗く便箋には、流麗だがどこか傲慢な筆跡でこう記されていた。
『フィリアへ。
妹である貴女が、姉であるわたくしの婚礼のために尽くすのは当然の義務です。
水門の騒ぎで婚礼準備が遅れ、大変迷惑しております。直ちに帰国し、古い水門記録を読み直し、わたくしの婚礼招待状に必要な古代語の定型句を清書なさい。
王立古文書院長という立派な席まで用意して差し上げるのです。妹として感謝し、姉の婚礼に役立ちなさい』
言葉の端々から滲み出る、底知れぬ利己心と見下し。かつて、この姉の機嫌を損ねぬよう、息を潜めて地下室で耐え続けていた日々。
家族行事から存在を消され、肖像画からも削られ、母の形見すら奪われそうになりながら。
それでも「家族だから」と自分に言い聞かせて耐え忍んできた記憶が、フィリアの胸をよぎった。
フィリアは小さく息を吐き出す。
怒りすら湧かない。ただ、乾いた風が吹き抜けた後のように、心の底が澄み渡っていた。
彼らが求めているのは、フィリアという一人の人間ではない。
自分たちの傲慢な虚飾と繁栄を維持するために、都合よく消費できる「無償の道具」が欲しいだけなのだ。
自分がいなくなって初めて、埃を被った数々の知識の価値に気づき、なおも「拾い上げてやる」「許してやる」と上から目線で支配しようとする浅ましさ。
フィリアは机の上の手紙から視線を上げ、ユリシーズを真っ直ぐに見据えた。
その瞳に宿る毅然とした光に、ユリシーズは息を詰まらせる。
「……何だ、その目は。返事はどうした、フィリア」
苛立ちを募らせたユリシーズの問いに対し、フィリアは静かに、しかし青磁の間全体を震わせるほどに凛とした声で唇を開いた。




