決別の言葉と、皇帝の鉄槌
「そのご提案、謹んでお断り申し上げます」
明確な、一片の躊躇いもない拒絶。
張り詰めた空気の中、フィリアの淡いヘーゼル色の瞳が、眼前で尊大に胸を反らすユリシーズを真っ直ぐに射抜く。
そして、青磁の間の壁に、その言葉がはっきりと反響した。
ユリシーズの顔から、勝ち誇ったような笑みが一瞬にして消え去る。彼は耳を疑うように目を瞠り、間抜けに口を半開きにした。
「……な、何だと? 今、何と言った?」
かつてルベル王宮の地下で、足音を聞いただけで恐怖に身を竦ませていた元婚約者の姿。
だが今、その整った怜悧な美貌の奥にあるのは、己の都合しか見えない浅薄な傲慢さと醜悪な歪みだけであった。
「ルベル王国特使、ユリシーズ・アルスター卿」
フィリアの口から紡ぎ出された声は、静かで鈴の音のように澄み渡り、そして氷のように鋭かった。
「お断り申し上げます。私はルベル王国へ戻る意思は一切ございません」
フィリアは背筋をすっきりと伸ばし、机の上に無造作に投げ出された金箔押しの親書と、香水臭い桃色の封筒に、冷ややかな視線を落とした。
「まず、言葉の前提を正させていただきます。『許す』とは、一体誰が、何を許すというのでしょう。私は自らの意思で祖国を捨て、逃げ出したのではありません。国境要塞において、貴方やルベル王宮の重臣たち、そして父上とエレオノーラ姉上が、『死んでも構わない身代わりの生贄』として、着の身着のままでガルディニア帝国へ放り出したのです」
「ぐ……っ!」
「出生登録にも王家の血統記録にも私の名はあります。けれど、儀礼の場から外し、教育も与えず、旧離宮へ押し込め続けたのは、他ならぬルベル王家と取り巻きの貴族方です。都合の良い時だけ『王女の義務』を振りかざし、不要になれば生贄として捨て、いざ古文書を読めず困れば『名誉を戻してやるから帰れ』と。そのような身勝手な理屈が、この帝国の地で通用すると本気でお思いですか」
淡々と、しかし寸分の狂いもなく突きつけられる事実の刃。
感情に任せて叫ぶのではなく、法と倫理に基づいた理路整然たる反駁に、ユリシーズは言葉を失い喉をひきつらせた。
「そ、それは! 国家の重大な危機において、王族が犠牲を払うのは当然の――」
「さらに貴方は私を『王立古文書院長として迎えてやる』と仰いましたね」
フィリアはユリシーズの弁解を容赦なく遮った。その瞳には侮蔑すら超えた、ただの冷徹な事実確認の色があった。
「私は現在、ガルディニア帝国で正式な公職に就いております。そちらが人材育成と引継ぎを怠った後始末のために、なぜ私が今の職を辞さねばならないのですか。私は帰国いたしません」
「き、貴様……っ!」
ユリシーズの顔面が恥辱と激昂で真っ赤に沸騰した。
無能な紙食い虫。誰からも愛されず、自分の足元に縋り付いて許しを乞うはずだった日陰者の女。
その女が今、自分を見下している。
傲慢なプライドをズタズタに引き裂かれたユリシーズの理性が、音を立てて吹き飛んだ。
「だ、黙れえええっ! 調子に乗るなよ、フィリアァッ!」
ユリシーズは野獣のように怒号を上げ、円卓を乱暴に回り込んでフィリアへと詰め寄った。
その双眸は血走り、額には青筋が激しく波打っている。
「たかが側室腹の日陰者が、分不相応な立場を得て偉そうな口を利くな! 帝国の官職など冷酷皇帝の気まぐれで与えられただけだ! 貴様の主人は我がルベル王国だ!」
「無礼を慎みなさい、ルベル特使」
「五月蝿い! 貴様が拒絶しようが関係ない! 力づくでも王都へ連れ戻してやる! 古文書を読ませ続ければ済むことだ!」
狂乱したユリシーズが、獰猛な手つきでフィリアの細い手首を掴もうと暴力的に腕を振り上げる。
――その腕は、フィリアへ届く寸前で止められた。
「ぐっ……!」
横合いから伸びた黒革の軍用手袋が、ユリシーズの手首を強く掴んでいた。
逃れられない力で腕を制され、ユリシーズがたたらを踏む。
「私の城内で随分と威勢の良いことだな。ルベルの特使」
頭上から降ってきたのは、地の底から響くような、氷よりも冷徹な重低音であった。
青磁の間の空気が一瞬にして凍てつく。
そこに立っていたのは、黒鉄の軍服を隙なく纏い、灰銀の髪を鋭く逆立てたガルディニア帝国皇帝、レオンハルトであった。
その黄金の双眸には感情的な怒りはなく、宮廷内で暴力を許さぬ、統治者としての冷たい警告が宿っている。
ユリシーズは手首を掴まれたまま、見上げる長身の皇帝に息を呑んだ。
扉が開く音など一切しなかった。
いつ、どのようにしてこの男が背後に現れたのか、ユリシーズの鈍い知覚では何一つ捉えられなかった。
レオンハルトはユリシーズの腕を離すと、フィリアとの間に立つ。
「近衛。特使を下がらせろ」
「ま、待て……! 私はルベル王国の全権特使だ! 外交官特権がある!」
「外交官特権?」
レオンハルトの唇が冷酷な嘲弄の笑みに微かに歪んだ。
「帝国の宮廷において、我が直属の帝室特別顧問に対し公然と暴力を振るい、拉致を口にし、さらには我が身に対する侮辱を喚き散らした。それが、そなたの国の誇る『外交』とやらの作法か」
「ち、違う……! これは我が王国の私的な問題だ! この女はルベルの王女であり、我が国の所有物……! 父親たる国王陛下の親書を執行しに来ただけだ!」
「所有物だと?」
レオンハルトの黄金の瞳が、さらに一段と暗く沈んだ。
その眼光に射抜かれただけで、ユリシーズの全身の血が凍りつき、心臓が恐怖で早鐘を打った。
「フィリア顧問官は、国境要塞において貴様らが『不可侵条約の担保』として我が帝国へ正式に差し出した身だ。その条約書そのものが、貴様らの仕組んだ下劣極まりない偽造文書であったことは、すでに要塞の地下牢に繋がれている使節団の自供によって明白となっている」
「なっ!?」
「偽造条約の新たな証拠に加え、帝室高官への暴行未遂と拉致発言があった。身柄は一時留置し、ルベル王国へ正式に宣戦布告と受け取った旨を通告する」
「ひっ! せ、宣戦布告など……そ、そのようなつもりは!」
宣戦布告。その単語の重みに、ユリシーズの顔面から完全に血の気が引いた。
大陸最強の軍事大国ガルディニア帝国に戦争を仕掛けられれば、水路が止まり内政が破綻しかけているルベル王国など、わずか数日で地図から消滅する。
その現実がようやく彼の曇った頭脳に突き刺さったのだ。
レオンハルトはゴミを捨てるように、ユリシーズの手首を放り出した。彼は床に倒れ込み、折れかけた右手を押さえながら、無様に後退った。
「近衛」
レオンハルトが短く呼ぶと、音もなく青磁の間の扉が開かれる。入ってきたのは、黒鉄の甲冑を着込んだ帝室近衛兵の一個小隊だった。
その先頭には、帝室総務長官ハルトヴィヒが、厳粛な面持ちで控えている。
「ルベル王国特使団を一人残らず拘束せよ。宿舎の荷物をすべて押収し、通信を遮断した上で、黒曜宮の地下査問所へ連行しろ」
「はっ!」
「ま、待て! 私は公爵令息だぞ! このような不当な拘束、国王陛下が……第一王女エレオノーラ殿下が黙ってはいないぞ! フィリア、貴様からも何か言え! 恩知らずの日陰者が、祖国の恩を忘れて――」
近衛兵たちに両脇を抱えられ、引きずられていくユリシーズがなおも見苦しく喚き散らす。
フィリアはその姿を静かに見つめた。
かつて自分を縛り付けていた絶対的な権力者。その正体が暴力と保身に縋り付くことしかできない、ただの無力な愚者であったという事実に胸の痛みすら生じなかった。
「ユリシーズ卿」
フィリアは静かに、宣告するように言った。
「貴方がたが私に与えてくださったものなど、暗い地下の冷たさと、終わりのない侮蔑以外に何一つありませんでした。私はもう、ルベル王国の娘ではありません。二度と私の前に現れないでください」
完全に断ち切られた過去の絆。
ユリシーズは絶望と憎悪に顔を歪めながら、近衛兵たちの手によって廊下の奥へと引きずり出されていった。
遠ざかる罵声が扉の向こうに消えると、部屋には再び静謐な静寂が戻る。
ハルトヴィヒが机の上に残されていた金箔押しの親書と、桃色の封筒を銀の盆へと回収した。
「陛下。これらの書状はルベル王家による脅迫および不当要求の決定的な物証として、法制局の査問記録へ編入いたします」
「うむ。徹底的に洗え。ルベル王国の腐敗と、過去の条約違反の証拠をすべて揃えろ」
「御意に」
ハルトヴィヒが一礼して退出していった。
部屋にはレオンハルトとフィリアの二人だけが残された。
彼は身を翻し、フィリアと向き合う。
その黄金の瞳から冷徹な怒りの色が引いていき、いつもの静けさが戻っていく。
彼はフィリアの華奢な肩を見下ろし、硬質な、しかしどこか気遣うような声で問うた。
「怪我はないか、フィリア」
「はい、陛下」
フィリアは胸元にそっと手を当て、深く頭を下げた。
「お助けいただき、心より感謝申し上げます。陛下がいらっしゃらなければ、あの場を収めることはできませんでした」
「礼には及ばん。我が城内で顧問官が害されることなど、断じてあってはならんことだ」
レオンハルトは短くそう告げると、フィリアの顔をじっと見つめた。その双眸にはかすかな満足の光が宿っている。
「だが、見事だったぞ。そなた自身の口で、奴らの不当な要求をすべて叩き落としたな」
「え……?」
「他者の庇護に縋るのではなく、そなた自身の誇りと知性をもって、過去の呪縛を断ち切った。そなたのその毅然とした強さを、私は誇りに思う」
ドクン、とフィリアの胸が跳ねた。
皇帝の言葉は甘い追従などではなかった。彼女が一人の人間として己の足で立ち上がったことに対する、心からの敬意であった。
ルベル王宮の暗がりで誰からも肯定されず、ただ耐えることしか知らなかった自分が、自らの言葉で過去を切り捨て、前を向くことができた。
そしてそれを、この冷酷と恐れられる皇帝が、誰よりも深く認め肯定してくれたのだ。
フィリアの視界が温かな涙でかすかに滲んだ。しかし、それは悲しみの涙ではない。
十八年間の暗闇から完全に抜け出し、自らの居場所を見出した魂の歓喜の震えだった。
「……はい、陛下。私はこのガルディニア帝国で、陛下のいらっしゃるこの場所で、前を向いて生きてまいります」
フィリアの澄み切った笑顔に、レオンハルトは微かに唇の端を緩めた。
◇
数日後。
西方へ数千キロ離れたルベル王国の王都ルベルハイム。
悪臭の立ち込める王都を見下ろす白亜の王宮、その『薔薇のサロン』には、絶望的な悲鳴が木霊していた。
「嘘よ! そんなはずがありませんわ!」
第一王女エレオノーラが、狂乱したように手元の電報を床へ叩きつけた。金糸の髪は乱れ、美貌を誇っていた顔は蒼白に引きつり、見る影もない。
その足元には、帝都から届いたばかりの極秘急使による報告書が散らばっていた。
『特使ユリシーズ・アルスター。帝都到着直後に重大な外交犯罪により身柄を拘束』
『ガルディニア帝国。ルベル王国に対し、条約偽造・皇帝暗殺未遂・帝室高官暴行未遂に関する【公式国家査問】を布告』
『帝国全軍、西方国境部へ向けて進軍態勢に移行』
「ユ、ユリシーズが……拘束された……!? 帝国に乗り込んで、あの女を連れ戻すだけのはずでしたのに! なぜそんなことに!?」
「ええい、騒ぐな! わしの頭が割れそうだ!」
サロンの玉座で国王が頭を抱えて呻いていた。
その顔には、一国の主としての威厳など微塵も残されていなかった。目の下には黒々とした隈が浮き、手足は小刻みに震えている。
「フィリアの奴め……! 帝国の皇帝に取り入り、ユリシーズを罠に嵌めおったのだ! あのような日陰者の小娘のために、帝国が本気で軍を動かすなど!」
「ち、父上! どうするのですの!? 運河は完全に死に、街では暴動が起きていますのよ! わたくしの婚礼はどうなりますの!? このままでは、わたくしが社交界の笑い者になってしまいますわ!」
エレオノーラは国王の袖に縋り付き、ヒステリックに叫んだ。
この期に及んでもなお、彼女の頭にあるのは自らの見栄と虚飾だけであった。王国の存亡や市民の苦しみなど、彼女にとっては些細な問題でしかなかったのだ。
「婚礼どころではないわ、愚か者めが!」
国王は苛立ち紛れに娘の手を振り払った。
「帝国から最後通牒が届いたのだ! 期日までに王国の全責任者を帝都の査問所へ出頭させねば、国境要塞の軍勢がこの王都へ雪崩れ込んでくると! 終わりだ……我がルベル王国はもうおしまいだ……!」
国王は顔を覆い、子供のように震え泣いた。
サロンの外からは、干上がった運河から漂う耐え難い悪臭とともに、王宮を取り囲む市民たちの怒号が地鳴りのように響いている。
自分たちが踏みにじりゴミのように捨て去った女の価値に、今さら気づいたところで、すでに遅すぎた。
彼らが自ら招いた破滅の濁流が、ルベル王国のすべてを呑み込もうと確実に押し寄せていた。




