暴かれた背信、破滅へ向かう祖国
帝都オイレンベルクの北東、黒曜宮の地下深くに穿たれた『青銅の大査問室』は、外の光が一切届かない厳粛な沈黙に支配されていた。
天井を支える青銅の円柱には、帝国の法と正義を象徴する双頭の鷲と天秤の意匠が浮き彫りにされ、壁面に等間隔で灯された白燐灯が、冷徹な青白い光を石床に投げかけている。
正面の一段高い壇上には、黒の軍服を隙なく纏った皇帝レオンハルトが、黒鉄の椅子に微動だにせず腰掛けていた。
その両脇を固めるのは、帝国の法制局長官、軍務尚書、そして主席外交判事である。
彼らの眼差しには私情や怒りの色は一切ない。
ただ、国家の法を犯した愚者を秤にかけ、寸分の狂いもなく断罪を下すための冷徹な理知だけが宿っていた。
「ルベル王国特使、ユリシーズ・アルスター。前へ出よ」
法制局の執行官の硬質な号令が冷たいドーム状の空間に響き渡る。
二人の帝国重装歩兵に両脇を固められ、足首の鉄枷をジャラリと鳴らしながら壇下へと引き出されてきたのは、ユリシーズであった。
名門公爵家の嫡男としての傲慢な気品は、もはや見る影もなかった。
豪奢を極めていた濃紺の礼服は薄汚れて皺だらけになり、整えられていた金髪は脂と汗で額に張り付いている。
レオンハルトによって締め上げられた右手首には、痛々しい紫色の鬱血痕が残り、吊り帯で胸元に固定されていた。
その濁った双眸は怯えと屈辱で激しく泳ぎ、壇上の冷酷な皇帝の姿を捉えるたびに、小刻みな震えを全身に走らせていた。
「これより、ガルディニア帝国とルベル王国における【重大背信行為および皇帝暗殺未遂】に関する、公式国家査問を開廷する」
法制局長官が、卓上の重厚な羊皮紙の記録簿を開き、厳格に告げた。
「特使ユリシーズ・アルスター。そなたは国境要塞において帝室の防壁権能を奪取し、皇帝陛下の魔力経路を破壊せしめんとする古代呪詛が編み込まれた偽造条約文を提出した。さらに、帝都参内に際しては、帝室直属の公職にある特別顧問官に対し、公然と暴力を振るい拉致を企てた。これらの容疑に対し、弁明はあるか」
問いかけられたユリシーズは、喉をからからと鳴らしながら、縋り付くように声を絞り出した。
「べ、弁明……! わ、私は……騙されていたのです! すべては我が国の国王陛下と、使節団の首席であったヴォーン卿が勝手に企てたこと! 私は……私はただ、外務卿代理として書類の形式的な確認を命じられていただけです!」
見苦しい自己保身。
かつて王宮の大議事堂で、威風堂々とフィリアを「無能の日陰者」と切り捨て、王国の栄光を誇らしげに語っていた男が、いざ自らの身に刃が向けられるや、主君である国王にすらすべての罪を擦り付けようとしていた。
「条約文の神聖古代文字の細工など、私にはその文字が読めません! 文字の読めぬ私が、そのような謀略を首謀できるはずがないではありませんか! 私は無実です! 帝国の高貴なる皇帝陛下におかれましては、この不当な拘禁を直ちに解き、私をルベル王国へ帰還させていただきたい!」
必死に叫ぶユリシーズの言葉を、壇上のレオンハルトは無表情のまま見下ろしていた。
黄金の双眸には軽蔑すら浮かんでいない。
ただ転がった泥塊を眺めるかのような、絶対的な無関心があるだけだった。
「そなたの言い分は、『条約の偽造を指示したことも関知したこともなく、古代文字の内容も知らなかった』ということで相違ないな」
低く、深みのあるレオンハルトの声が落ちる。
ユリシーズは救いを見出したかのように、激しく首を縦に振った。
「は、はい! その通りでございます、陛下! すべては他者の陰謀であり――」
「ならば、事実を検証する。フィリア特別顧問官」
皇帝が短く名を呼んだ。その瞬間、ユリシーズの身体が硬直した。
壇下の脇に設けられた顧問官席から、静かに立ち上がった人影があった。
濃紺の端正な正装を纏ったフィリア・ルベル。その手には、黒革で装丁された分厚い照合記録簿が携えられていた。
背筋をすっきりと伸ばし、凛とした足取りで壇上の中央へと進み出る彼女の姿に、査問室内の全書記官が一斉に背筋を正した。
「帝室特別顧問、フィリア・ルベル。調査結果を報告いたします」
澄み渡る、凛とした声音。
ユリシーズは血走った目でフィリアを睨みつけ、かすれた声で毒づいた。
「フ、フィリア……貴様、何の真似だ……! 王家の恩を忘れ、祖国の特使たる私を陥れる気か……!?」
「静粛にせよ、罪人」
近衛歩兵の槍の石突が床を鈍く叩いた。
フィリアはユリシーズの醜悪な怒声を意に介することもなく、手元の記録簿を広げ、法制局長官と皇帝へ向けて淡々と報告を始めた。
「押収されたルベル王国外務省の公式文書綴り、ならびに特使団の宿舎から発見された私的書簡、計四十七通を精査いたしました。結論から申し上げますと、ユリシーズ卿の『関知していなかった』という主張は、完全に虚偽でございます」
フィリアは一枚の古い羊皮紙を掲げた。
「ここに三ヶ月前、ルベル王国外務省において作成された『対帝国条約更新・極秘付帯工作覚書』の原本がございます。本紙の右下にはルベル王国筆頭公爵家、アルスター家の私的印章とユリシーズ卿自らの魔力署名が明確に刻印されております」
「な……っ!?」
「この覚書には、『条約文下段には旧外交文書から権限制限の定型構文を転記せよ。調印の担保には、儀礼上ほとんど名を出されぬ第三王女フィリアを充当し、露見した際は同王女の独断として処理せよ』との指示がございます」
寸分の狂いもない、動かぬ証拠の開示。査問室に法制局高官たちの冷ややかな息を呑む音が広がった。
ユリシーズの顔面から、一滴の血潮すら残さず色が失われた。
「ば、馬鹿な……なぜその書類が貴様の手に……! あれは外務卿執務室の隠し金庫に厳重に保管されていたはず――」
「ユリシーズ卿」
フィリアの瞳が、哀れみすら籠めずにユリシーズを見据えた。
「隠し金庫の存在と開錠手順は、旧離宮に残された外務省の古い管理記録に記されていました。私は以前、その記録を読んだことがあります。帝国の調査官の方々へ該当箇所をお伝えし、実際の捜索と開錠は調査官と技師の方々が行いました」
自らが「無能の日陰者」と見下していた女が、忘れ去られた記録の意味を正確に示したことで、隠されていた証拠へ調査の手が届いたのだ。
謀略を暴いたのは一人の万能さではない。古文書の読解を端緒に、帝国の調査官たちが証拠を積み上げた結果であった。
「さらに、もう一点」
フィリアは感情を交えず、淡々と次の資料を提示した。
「また、国境関税協定の原典と近年の申告記録を照合した結果、ルベル側が付帯条項を自国に都合よく運用し、不当な免除と過少申告を重ねていた疑いが判明しました。私の翻訳を端緒として、会計官と査問官が過去の帳簿を再調査し、相当額の未納が確認されています」
「そ、そんな……」
主席外交判事が声を震わせた。
国家間の通商協定に関わる、長年の不適切な運用であった。
「不正に浮いた資金の一部が王室費やアルスター公爵家の支出へ流れていたことも、会計官の調査で確認されています。金額と責任範囲については、今後の正式査問で確定されます」
逃れようのない、完全無欠の事実の積み上げ。
フィリアの古文書に対する知見が調査の端緒となり、法制局と会計局がそれぞれの専門領域で事実を検証したのである。
彼女は私情による復讐ではなく、一人の公正なる記録の守り手として、事実の光を当てただけであった。
「……も、申し開きは……」
ユリシーズの唇が激しく痙攣した。
額から脂汗が滝のように流れ落ち、膝ががくがくと震えて石床を叩く。
「ち、違う……あれは……エレオノーラ殿下が! 第一王女エレオノーラ殿下が『美しいドレスが欲しい』と仰ったから、私は公爵家として工面しただけだ! 水門の件もそうだ! エレオノーラ殿下が婚礼の荷物を早く通せと急かすから、私は無理に水門を開けさせようとしただけで……! すべてはあの女の我儘が原因なのだ!」
見苦しい絶叫が青銅の空間を満たした。
愛を誓い、フィリアを捨ててまで選んだはずの「王国の誇る第一王女」を、己の保身のためにためらいもなく泥の中へ引きずり下ろす。
その底知れぬ浅ましさに、室内の帝国高官たちの眉間に深い嫌悪の皺が刻まれる。
「見苦しいぞ、ルベルの特使」
レオンハルトの氷のような一喝がユリシーズの喚き声を叩き潰した。
皇帝は席から立ち上がることすらなく、下界の汚濁を裁く神のような眼光で告げた。
「自ら条約を偽造し、他国の元首を謀殺せんとし、莫大な関税を詐取しながら、露見するや女の背後に隠れて命乞いを垂れ流す。名門公爵家の誇りなど、最初から貴様の内には一片たりとも存在しなかったようだな」
「へ、陛下……! 慈悲を……どうか、慈悲を……!」
「慈悲? 貴様らが、このフィリア顧問官に対して一片の慈悲でも見せたことがあったか」
レオンハルトの黄金の瞳がわずかに細められた。
その声音に含まれていたのは、激情の怒りではなく、法と正義に基づく絶対の断罪であった。
「文字を読む才に恵まれた者を暗がりに閉じ込め、名を奪い、着の身着のままで生贄として放り出した。貴様らが踏みにじったのは、一人の女の尊厳だけではない。言葉と誓約という、国家を成り立たせる最大の基盤そのものを貴様らは汚したのだ」
レオンハルトは視線を法制局長官へと向けた。
「査問を終了する。判決の確定と通告は、後刻正式に行う。特使ユリシーズ・アルスターを直ちに地下牢へ戻せ」
「ははっ!」
衛兵たちに両脇を抱えられ、床を擦りながら引きずられていくユリシーズ。
彼の目には傲慢な光は一欠片も残っていなかった。
ただ、自らが招いた底なしの破滅の深淵に呑み込まれ、正気すら失いかけた虚ろな絶望だけが張り付いていた。
重厚な青銅の扉が閉ざされ、室内に静寂が戻る。
レオンハルトは壇上から、静かに立つフィリアへと視線を落とした。
「見事な調査であった、フィリア顧問官」
「陛下……」
フィリアは手元の記録簿を抱き締め、静かに頭を下げた。
自らの生まれ育った祖国。
そのあまりに醜悪で、取り返しのつかない腐敗の全貌を自らの手で暴き出したことに、胸の奥に微かな痛みが走らなかったといえば嘘になる。
だが、その痛みは、もはや彼女の足を止める枷ではなかった。
偽りを正し、真実を明らかにする。
その責務を立派に果たし終えた彼女の背中は、かつて地下室で縮こまっていた頃とは比べものにならぬほど、強く、誇り高く伸びていた。
◇
数日後。
西方へ数千キロ離れたルベル王国の王都ルベルハイム。干上がった運河から立ち上る耐え難い悪臭と、舞い上がる砂埃。
かつて「清流と白亜の都」と称えられたその街は、今や完全な死の淵に沈んでいた。
水道は途絶え、食料の補給路は寸断された。市場の商店は暴動を恐れてすべて頑丈な板で窓を塞いでいる。
王宮を取り囲む鉄柵の外には、飢えと怒りに震える数万の市民が押し寄せ、連日連夜、王家と貴族に対する罵声を叫び続けていた。
そして、その白亜の王宮、大議事堂。
かつてフィリアに対し、冷酷な婚約破棄と追放を言い渡したその同じ場所に、ルベル国王と第一王女エレオノーラ、そして重臣たちが集められていた。
だが、かつての華やかな嘲笑と優越感は、議場のどこにも存在しなかった。
玉座に崩れ落ちるように座る国王は、髪を振り乱し、震える手で膝の上の羊皮紙を見つめていた。
それは、ガルディニア帝国から正式に届いた、皇帝レオンハルトの親署と御璽が刻印された【最終通告書】であった。
「……お、終わりだ……。すべて終わりだ……」
国王の口から、掠れた嗚咽が漏れた。
「帝国の査問により……我が国の条約偽造、関税詐取四十億クローネが完全に立証された……。帝国は直ちに、詐取金の全額即時返還と、国境賠償金を要求してきた……。払えぬ場合は帝国軍、全十個師団が国境を越え、ルベルハイムを包囲すると……」
「よ、四十億クローネ!?」
正妃が悲鳴を上げてその場に倒れ伏した。
そんな天文学的な巨額、小国であるルベル王国の国庫をすべて叩き売り、王室の宝物庫を空にしたところで到底支払える金額ではなかった。
王国の財政破綻は、この瞬間、完全に決定づけられたのだ。
「そ、そんな……嘘ですわ! 何かの間違いですわ!」
第一王女エレオノーラが、狂乱して玉座へと駆け寄った。
「ユリシーズは何をしているのですの!? あの役立たずの男は、帝都へ行って何をしていたのですの! フィリアの首根っこを掴んで、連れ戻してくると大口を叩いていたではありませんか!」
「黙れ、エレオノーラ!」
国王が激昂し、手元の杖を娘の足元へ投げつけた。
「ユリシーズは、帝都の査問で貴様の名前を真っ先に売り渡したわ! 『豪奢なドレスを着たいという第一王女の我儘のために裏金を作り、婚礼の荷物を通すために水門を破壊させた』と、すべてを証言したのだ! 貴様の虚飾と浪費の証拠も、すべて帝国に押収されておる!」
「な……っ!? あ、あの男……わたくしを裏切ったのですのね!?」
エレオノーラは顔面を蒼白にし、唇をわなわなと震わせた。
愛を語り、完璧な伴侶になると誓い合った公爵令息が、自らの保身のために自分を泥濘へと突き落とした。
その残酷な現実に、彼女の誇っていた自尊心が粉々に砕け散っていく。
「それだけではない……」
青ざめた財務卿が追い打ちをかけるように震える声で報告した。
「王都の商業ギルド連合が、王室に対する全面的な取引停止を宣言いたしました。王室の発行する手形はすべて紙屑と化し、食料の納入も完全に拒絶され、北方諸侯連合が協定違反を理由に、我が国の特認地位を剥奪。近隣諸国からの使節は全員引き揚げ、我がルベル王国は大陸全土から完全に孤立いたしました……」
経済の完全崩壊。
外交の完全破絶。そして、怒り狂う市民による王宮包囲。
ルベル王国が誇っていた繁栄は、フィリアというたった一人の少女を切り捨てたことによって、砂上の楼閣のごとく脆くも瓦解した。
国王は頭を抱え、床に額を打ち付けて泣き叫んだ。




