自業自得の報い、失われた栄光
帝都オイレンベルクの空から舞い降りる冷たい風には、微かに濡れた土と芽吹きを告げる草木の香りが混ざり始めていた。
黒曜宮の中庭に面した石造りのテラスから、フィリアは静かに遠くの街並みを眺めていた。
水路を滑るように進む荷船。整然と行き交う人々や、規則正しい鐘の音。
そこには、国家の法と秩序が正しく機能している土地特有の、揺るぎない静けさと活力があった。
「フィリア顧問官。法制局および外交審議会による、ルベル王国への最終処分協定書が確定いたしました」
背後から近づいてきた助手のベルンハルトが、黒革の表紙で綴じられた公文書を差し出した。
フィリアは振り返り、礼とともにその書類を受け取った。
帝室の金文字で『帝国・ルベル王国間背信行為に関する最終調停議定書』と刻印されたその表紙をめくると、法制局長官、そして皇帝レオンハルト自らの鋭く力強い署名が刻まれていた。
「……決定したのですね……」
「はい。昨夜、ルベル王国政府は帝国の突きつけた全受託条件を無条件で受諾いたしました。もはや彼らには、交渉の余地も抵抗する力も残されておりませんでした」
ベルンハルトの声には冷徹な事実を告げる静けさがあった。フィリアは頁をめくり、そこに記された決定条項を丹念に瞳に映していった。
――第一項。
ルベル王国特使ユリシーズ・アルスターは、不可侵条約改竄への関与および帝室高官に対する暴行・拉致未遂について、ルベル国内の裁判と帝国側の外交査問に付される。
ルベル王国外務卿代理の職を解任し、以後の公職就任を禁止。
アルスター公爵家は同人の継承権を剥奪し、裁判が終結するまで監視下に置く。
肉体刑や辺境労働ではなく、政治的・社会的権限を失わせたうえで、関与した文書と命令について法的責任を問うものとする。
――第二項。
第一王女エレオノーラ・ルベルは、不正支出への関与と王室財政の私物化について監査対象とする。
王位継承順位を停止し、最終処分は国内監査と議会審理を経て決定する。
不正支出として認定された分については、私財から返還させる。
その間、公的儀礼への参加と新たな王室支出の承認権を停止する。
――第三項。
ルベル王国は、不当な免除・過少申告として確定した額を返還し、国境関税協定を改めて締結する。
再発防止のため、一定期間は帝国とルベル双方の監査官による共同確認を受ける。水路の管理権や外交権そのものを帝国へ譲渡する処分は行わない。
それは征服でも属国化でもなく、条約違反と財政不正に対する限定的な是正措置であった。
だが傲慢に胡座をかき、自らの手で国の動脈と真の至宝を切り捨てた愚者たちに対する、法と現実に基づいた最も冷徹で、逃れようのない完全なる失脚であった。
「……多くの民を巻き込んでしまいましたね」
フィリアは静かに書類を閉じた。
その胸中にあったのは、復讐を遂げたことに対する暗い快感ではなかった。
「フィリア様のお心痛をお察しいたします。ですが……これはすべて、彼らが自らの意志で蒔いた種が実を結んだに過ぎません」
ベルンハルトが眼鏡の位置を直し、毅然とした声で言った。
「貴女を暗がりに押し込め、その知性を貪りながら、不要と見れば生贄として放り出した。彼らが失ったのは、貴女という存在の価値に気づかなかった者たちに下される、至極当然の報いでございます」
フィリアは小さく頷き、澄み切った空を見上げた。
もう、あの冷たい地下室で怯えていた少女はどこにもいない。過去の呪縛は、完全に断ち切られたのだ。
◇
西方へ数千キロ離れたルベル王国の王都ルベルハイムは、春の訪れとは名ばかりの、荒涼とした静寂に包まれていた。
白亜の王宮、かつて「美の神殿」と称えられた第一王女エレオノーラの私室『薔薇の館』。そこには豪奢な栄華の欠片すら残されていなかった。
「おやめなさい! それに触れるなと言っているでしょう! 無礼者どもが!」
エレオノーラは髪を振り乱し、部屋に入り込んできた財務局の徴税官たちに向かって金切り声を上げていた。
しかし、黒い実務服を着た役人たちは、彼女の叫び声に眉一つ動かさなかった。
彼らは事務的な手つきで、壁にかかる名画、象牙の化粧台、そしてクローゼットに並ぶ数百着もの豪奢なドレスを次々と運び出し、淡々と帳簿に差し押さえの赤印を押し込んでいく。
「エレオノーラ様。無駄な抵抗はおやめください」
かつてエレオノーラに揉み手をしながら擦り寄っていた宮廷財務卿が、今は氷のように冷たい眼差しで見下ろしていた。
「帝国への賠償金四十億クローネを弁済するため、王室令に基づき、貴女の私有財産はすべて公売にかけられます。ドレスの裏地に縫い込まれた金糸一本、宝石の飾りピン一つに至るまで、すべてです」
「な……なんですって!? わたくしは第一王女ですのよ! このルベル王国の誇る美の象徴ですのよ!」
「『元』第一王女です」
財務卿は冷ややかに訂正した。
「王位継承権は剥奪され、名誉称号も停止されました。それに美の象徴などと、どこの誰が認めるというのですか。貴女が着飾っていたその豪奢なドレスのすべてが、帝国から詐取した不正な裏金で購われていたという事実は、すでに王都の全掲示板に貼り出されております」
「ひ……っ!?」
「商業ギルドの会頭たちも、国内外の貴族たちも、誰も貴女の名など聞きたがりませんよ。今朝届いた近隣諸侯からの書簡です」
財務卿が放り投げるように机の上に落とした数十通の手紙。
エレオノーラが震える手でそれを拾い上げると、そこにはかつて彼女の美貌を讃え、熱烈な求婚を寄せていた高位貴族たちの、容赦のない拒絶の言葉が並んでいた。
『不正な裏金で身を飾り立て、水門を破壊せしめた浅薄なる元王女に、我が家門の敷居を跨ぐ資格はない』
『即時、婚約の申し入れを白紙撤回する。二度と我が領内に足を踏み入れるな』
『我が家から貸与していた宝飾品を直ちに返還せよ』
「う、嘘よ……そんなはずがありませんわ! あんなにわたくしを称賛していたではありませんか ! ユリシーズはどうなりましたの!? あの男が、わたくしを守るはずですわ!」
「アルスター公爵家から廃嫡され、国境の補給隊へ平騎士として送られました」
財務卿は吐き捨てるように言った。
「公爵家自体も連座を免れるために必死で、息子の身柄など見捨てました。貴女に手を差し伸べる者など、この大陸のどこを探しても、もう一人もおりません」
ガタガタと音を立てて運び出されていく調度品。
最後に残されたのは、殺風景な石壁と薄汚れた粗末な木製の椅子が一つだけであった。
役人たちが誰一人として頭を下げることなく部屋を出ていき、重い樫の扉がバタンと音を立てて閉ざされた。
「……あ……ああ……」
エレオノーラは冷たい石床の上にへたり込み、自らの乱れた金髪を両手で掻きむしった。
誰も自分を褒め称えてくれない。
誰も美しいと言ってくれない。
夜会の招待状は一通も届かず、サロンの扉を叩く客人は一人もいない。
虚飾のドレスを剥ぎ取られた自分には、他者を惹きつける知性も人望も、何一つ残されていなかった。
残酷な現実が、冷え切った空き部屋の中で彼女の全身を押し潰す。
「フィリア……! あの女のせいで……! あいつさえ……あいつさえ大人しく生贄になっていれば!」
エレオノーラは血の滲む唇を震わせ、暗い部屋の隅で呪詛を呟いた。
◇
数週間後、ルベル王国では一連の審理が始まっていた。
ユリシーズは外務卿代理の席を失い、アルスター公爵家の継承権も剥奪された。
かつて命令ひとつで周囲を動かしていた男は、今や監視下で査問官の質問に答え、過去の命令書一枚一枚について説明を求められる立場にあった。
彼は自分の関与を小さく見せようと「慣例に従った」「部下の起案を承認しただけだ」と繰り返したが、署名と命令記録は消えない。責任を他人へ押しつけて逃げ切れる状況ではなかった。
エレオノーラもまた、王室財政監査の対象となり、新たな衣装や夜会費を自由に決裁する権限を失っていた。
不正支出と認定された分は私財から返還され、王位継承順位についても審理が続いている。
華やかな社交の中心にいた彼女にとって、それは十分に重い失脚だった。
彼らが向き合うことになったのは、自分たちが下した判断の記録と、その結果であった。
◇
帝都オイレンベルク、黒曜宮。
夕刻の静寂が広がる特別顧問官執務室に、軽やかなノックの音が響いた。
「フィリア」
扉を開けて入ってきたのは、レオンハルトであった。
軍務用の黒い上着を脱ぎ、濃紺の仕立ての良いシャツを纏った皇帝は、音もなくフィリアの机の脇へと歩み寄ってきた。
助手のベルンハルトが一礼して静かに部屋を退出すると、部屋の中には机上の魔導灯の柔らかな光と、二人だけの静けさが満ちた。
「ルベル王国への処分協定書の写し、目を通したか」
「はい、陛下」
フィリアは立ち上がり、深々と頭を下げた。
「すべて拝見いたしました。公正で寸分の狂いもないご裁定をいただき、心より感謝申し上げます」
「そなたの祖国だ。恨み言の一つでも言いたくなったか」
レオンハルトの黄金の瞳が静かにフィリアの顔を見つめた。その声音には、冷徹さの裏に彼女の心を慮る微かな温もりが宿っている。
フィリアは小さく首を横に振った。
そのヘーゼル色の瞳には、一片の迷いも未練の影もない。
「いいえ。私は……あの国で日陰者として生きる中で、他者を恨むことの無意味さを知りました。恨むことに時間を使うよりも、目の前にある文字を読み、誰かの役に立つ道を拓くことの方が、ずっと大切ですから。私にとってルベル王国はもう、遠い過去の記憶に過ぎません」
「そうか」
レオンハルトは短く頷くと、その口元に微かな、しかし心からの笑みを浮かべた。
「そなたのその澄んだ強さを、私は深く好ましく思う」
「え……?」
皇帝の言葉は飾りのない直截なものであった。
統治者として顧問を評価する言葉ではない。
一人の男が、眼前の女性の魂の気高さに惹かれ、それを言葉にした響きを持っていた。
レオンハルトは懐から、紫紺のビロードで包まれた小さな鍵を取り出し、机の上に静かに置いた。
「ルベルとの決着はついた。これより、そなたに帝国の未来に関わる、最も重大な責務を託したい」
「これは?」
「黒曜宮の最深部、『開闢の聖廟』の鍵だ」
レオンハルトの黄金の瞳が真剣な輝きを帯びた。
「帝国建国期、初代皇帝が神々と交わしたとされる『神聖誓約碑文』。数百年の風化と歴代学者の誤読によって、今やその大半が意味を失い、帝国の結界と法理の根幹に揺らぎが生じつつある。歴代のいかなる学士にも解けなかったその古代神聖碑文の完全修復を、そなたに委ねたい」
帝国の根幹を支える至高の神聖碑文。
それは帝国のいかなる重臣にも許されなかった、国家の魂そのものを託すという宣言であった。
「私に……そのような大役を……?」
「そなた以外の誰に託せるというのだ」
レオンハルトは迷いなく言い切った。
「そなたの眼とそなたの誠実な知性だけが、失われた帝国の真実を蘇らせることができる。そなたの力を私に貸してほしい」
――私に力を貸してほしい。
暗い地下室で存在すら否定されていた自分が、今、この巨大な帝国の未来を託されている。
そして何より、この男の力になりたいと、心の底から願っている自分がいた。
「はい、皇帝陛下」
フィリアは背筋を伸ばし、両手を胸に当てて凛とした笑顔で応えた。
「私の知識と命のすべてをかけて、帝国の誓約を蘇らせてみせます」
二人の視線が交錯する。
そこには、何者にも壊せない絶対の信頼と、静かに芽吹き始めた深い情愛が満ちていた。




