帝国の礎、古代神聖碑文の再生
黒曜宮の最深部、歴代の皇帝と限られた神官長のみが立ち入りを許されてきた地下回廊は、外の喧騒から隔絶された太古の静寂に沈んでいた。
天井を支える頑強な玄武岩のアーチには、松明ではなく、青白い燐光を宿した古代魔導鉱石が等間隔に埋め込まれている。その微光が磨き抜かれた石床に長い影を落としていた。
二つの足音が規則正しく響く。
先頭を歩くのは、帯剣した黒の軍服姿のレオンハルト。その半歩後ろに両手に特製の修復筆と、精緻な筆記具一式を収めた革袋を抱えたフィリアが続いていた。
やがて、回廊の終点――漆黒の巨大な両開き扉の前に至る。
扉の表面には、複雑怪奇な幾何学模様と神聖文字がびっしりと浮き彫りにされ、触れる者を拒絶するような重々しい魔力の重圧を放っていた。
「……ここが『開闢の聖廟』だ」
レオンハルトは立ち止まり、先日執務室で取り出した紫紺のビロードに包まれた鍵を、扉中央の窪みへと差し込んだ。
カチリ、と重厚な金属音が地下回廊に反響する。数百年の封印が解かれた扉が、静かに無音のまま内側へと開かれていく。
扉の向こうに広がっていたのは、広大な円形の神殿空間であった。
球体の高い天井からは、外界の陽光を魔法的に取り込んだ柔らかな白銀の光が柱のように降り注ぎ、空間全体を清冽な空気が満たしている。
そして、その神殿の中央――幾重もの石段を積み上げた祭壇の上に、それは鎮座していた。
巨大な星辰鉱石の石板。
ガルディニア帝国建国期。
初代皇帝が、大地と交わした盟約のすべてを記録したとされる至宝『神聖誓約碑文』であった。
「……これは……」
フィリアは思わず息を呑み、胸の前で両手をぎゅっと握り締める。
遠目からでも、その石板が長い年月を経て傷んでいることは分かった。表面の文字は風化し、一部は後世の補刻によって本来の線が判別しにくくなっている。
「歴代の学者たちは、残った文字だけを頼りに意味を推定してきた」
レオンハルトが石段の下で足を止めた。
「だが解釈が時代ごとに変わり、今では建国法理そのものに複数の読みが並立している。防護結界についても、碑文を根拠にした古い運用手順が正しいのか分からず、魔導院が改修をためらっている」
「石板そのものだけでは確定できません」
フィリアは表面へ触れず、携えてきたルーペで文字の形を追った。
「欠損が多すぎます。古拓本、初期の写本、建国期の法令集、それに後代の引用文を並べて比較させてください」
レオンハルトはすぐに頷いた。
「必要な史料と人員を出す」
その日から、開闢の聖廟には魔導院、法制局、帝室図書院の専門家が集められた。
フィリアの前には、年代の異なる拓本と写本が何十枚も並べられた。彼女の役目は石を削ることでも、魔力を操作することでもない。
異なる時代に写された文字を一字ずつ比較し、どこで読みが変わったのかを突き止めることだった。
「この字形は欠損ではありません。第三王朝期の写本では、ここに相互形を示す補助記号があります」
ベルンハルトが該当する写本を差し出し、法制局の学士が隣で記録する。
「では、従来の『支配する』という訳は?」
「文法上は成立しません。敬愛の接頭語と相互形が重なるので、『慈しみ、共に守る』に近い意味です」
室内が静まり返った。
「初代皇帝陛下の誓約は、『帝室の主は大地と民の声を正しく聞き、公正な法をもって秩序を護持する。誓約が守られる限り、大地は帝都の盾となる』。一方的な服従ではなく、統治者と民、土地との相互誓約です」
フィリアはさらに複数の史料を示す。
「くわえて、碑文の末尾には『誓約の言葉は石に刻まれ、誠実なる信託と敬愛は、永遠に魂と共にあらん』という結語が確認できます」
レオンハルトの黄金の瞳がゆっくりと細められる。
「……我が帝室は、数百年かけて逆の意味を教えてきたのか?」
「途中の時代から、そう読まれるようになったようです。ただし、意図的な改竄とまでは断定できません。欠損した原文を、その時代の政治思想に合わせて補った結果でしょう」
フィリアは断定を避け、史料で確かめられる範囲だけを告げた。
◇
三日後。
魔導院と法制局による再検証を経て、フィリアの復元案は正式に支持された。
欠けた文字の物理修復は帝室修復班へ引き渡され、防護結界については、復元された原文と古い運用記録を基に魔導院が改修計画を立てることになった。
一夜で帝都の結界が生まれ変わるような奇跡は起きない。
だが長年誤っていた前提が正されたことで、専門家たちはようやく正しい方向へ進めるようになった。
「見事だ、フィリア」
最終報告書を閉じたレオンハルトは短くそう言った。
「そなたは石を直したのではない。帝国が何を誓って建ったのかを言葉として取り戻した」
フィリアは静かに頭を下げた。
「私は残っていた言葉を繋いだだけです。修復も結界の改修も、これから専門の方々がなさいます」
「それでよい。そなたは何をすべきかを読める者だ」
その評価は簡潔で、だからこそフィリアの胸に深く残った。
◇
それから更に数日後が過ぎた。
帝室学術院の会議室で、神聖誓約碑文の原文復元に関する正式な功績認定が行われた。
出席したのは法制局、学術院、魔導院の代表者たち。大仰な大謁見ではなかった。
「フィリア・ルベル。神聖誓約碑文の原文復元および建国法理の再検証への功績により、そなたの『帝室特別顧問』としての任を正式に確定する。併せて独立した研究権限と研究費を認める」
「謹んで拝命いたします」
誰かの妻としてではなく、自らの仕事によって得た地位。その事実がフィリアの胸を熱くさせた。
◇
その日の夕刻。
公務の喧騒が引き潮のように去った後、フィリアは自室である光あふれる執務室へと戻っていた。
机の上には、必要な羊皮紙と使い慣れたインク壺。そして窓からは夕暮れの茜色に染まる帝都の壮大な街並みが広がっている。
「フィリア様、本当におめでとうございます」
助手のベルンハルトが、感極まったように眼鏡を拭いながら深々と頭を下げた。
「貴女の助手を務められたこと、私の生涯の誇りでございます。図書院の学士たちも皆、貴女の注釈書を教科書として学び直すと息巻いておりますよ」
「ありがとうございます、ベルンハルトさん。でも、私一人ではここまで来られませんでした。いつも支えてくださった貴方のおかげです」
「滅相もございません!」
ベルンハルトが一礼して辞去した後、部屋には再び静かな黄昏の光が満ちた。
フィリアは窓辺に歩み寄り冷涼な風に頬を撫でられながら、胸元に手を当てる。指先が触れたのは、母の形見である小さな銀の小鳥のペンダント。
(お母様……私、ようやく見つけました)
心の中で静かに語りかけた。
誰かの機嫌を窺い、息を潜めて地下室で耐えるだけの人生は終わった。
自分を必要とし、自分の言葉を信じ、正当に評価してくれる世界。
そして――何よりも大切な、あの人の存在。
胸の奥で、レオンハルトの冷徹で、しかし誰よりも温かい黄金の瞳が蘇る。彼がくれたのは、単なる地位や名誉ではない。
一人の人間として尊重され、愛されることの尊さそのものだ。
フィリアは自らの心の奥底に芽生えた想いが、もはや主君への敬慕を超え、かけがえのない恋慕と献身へと育っていることを、しっかりと自覚していた。




