訪れる理由のない午後
ルベル王国に対する最終調停議定書が正式に締結されてから、十日ほどの月日が流れた。
国境要塞での謀略未遂、運河の閉塞、そして過去二十年に及ぶ莫大な関税詐取――それらすべての欺瞞が暴かれ、ルベル王国は帝国の厳格な監督下に置かれることとなる。
首謀者であったユリシーズは廃嫡されて国境の輜重隊へ送られ、第一王女エレオノーラは虚飾の地位と財産を失って社交界から完全に追放された。
祖国から「無能な生贄」として放り出されたフィリアの身の潔白と名誉は、帝国の公的な記録において完全に回復し、彼女の地位は「帝室特別顧問」として確固たるものとなっていた。
帝都オイレンベルクを吹き抜ける風は初夏の気配を孕み、宮殿の中庭には新緑の葉が生き生きと茂っている。
黒曜宮東翼の特別顧問官執務室は、制度的にも組織的にも完全に軌道に乗っていた。
専属の助手であるベルンハルトに加え、図書院から正式に二名の書記官補佐が配属され、室内の警備には帝室近衛兵が常駐している。
西方国境の地誌照合や古代水路の長期管理計画など、フィリアの手がける学術案件はどれも極めて順調に進んでいた。毎日の進捗は定められた書式に従って整然と日報にまとめられ、朝夕の決まった時刻に皇帝の執務机へと届けられる手筈になっている。
それは、統治機構として完璧な姿だ。
組織は寸分の乱れもなく機能し、すべての報告は書類を通じて滞りなく伝達される。
――つまり、皇帝自らが足を運んで様子を確認すべき「公的な理由」は、執務室のどこにも存在しなくなっていた。
◇
正午前、柔らかな日差しが黒曜宮の皇帝政務執務室を静かに照らしている。
部屋の中央に置かれた広大な黒檀の机の上で、レオンハルトは手元の羽ペンを静かに置いた。
軍制改革に関する各軍団長からの上申書への決裁印は、すべて押し終えている。予定されていた午前の政務は、手際の良さもあって刻限より少し早く片付いていた。
カチ、と置かれたペンの乾いた音が、やけに静まり返った部屋に小さく反響する。
レオンハルトは背もたれに体を預け、無意識のうちに机の端の書類立てへと視線をやった。そこには、朝一番に届いた特別顧問官執務室からの日報が、端正に収められている。
『本日、西方出土の木製板碑に関する予備調査概要を受理。保存修復工房での状態確認と、必要な保護処置が進行中。顧問官は本日午前より、帝国学術院の定期総会に出席予定』
寸分の狂いもない、簡潔で完璧な報告文。フィリアの健康状態に何ら問題はなく、業務上の障害も一切生じていないようだ。
すべては、至極順調。
レオンハルトは小さく息を吸い、立ち上がった。
公務がひと段落つくと、身体が自然と軍服の上着を引き寄せ、東翼へと向かう回廊へと足を向けそうになる。
(少し、歩くか……)
そう思考が形を結びかけた瞬間、部屋の壁際に控えていた帝室総務長官ハルトヴィヒが、音もなく一歩前に進み出た。
「陛下」
老長官の声音は、穏やかで、極めて実務的だった。
「フィリア顧問官からの本日の定時研究報告は、先刻拝読いただいた通りでございます。午後分の進捗につきましても、夕刻の定時便にて図書院より届く手筈となっております」
「そうか」
レオンハルトは伸ばしかけた手を止め、短く応じる。
ハルトヴィヒは眼鏡の奥の瞳を静かに和ませながら、丁寧な会釈を崩さずに言葉を継いだ。
「何か、急ぎで顧問官へご確認なさるべき追加の事項でもおありでしょうか」
「…………」
沈黙が落ちた。
追加の確認事項。
西方国境の地誌については、昨日の報告書で必要な補足はすべて得ていた。水路の管理手順についても、工務局との間で取り決めた検証枠組みに何ら不備はない。
何もない。
皇帝として一介の顧問官に対して下すべき指示も、求めるべき報告も、客観的な必要性は一片たりとも存在しなかった。
「……いや。何もない」
レオンハルトはそう吐き出すと椅子へと戻り、手元の時計に視線を落とした。正午までには、まだわずかに間がある。
何もないのだから、赴く理由がない。
自らが築き上げた実力主義と規律の帝国において、公私の混同など許されるはずがなかった。
感情に流されて部下の職場へ無意味に立ち寄るなど、統治者として最も慎むべき軽薄な振る舞いだ。
だが。
胸の奥に澱のように溜まる、この正体不明の空虚さは一体何なのだろう。
以前であれば、公務が円滑に進むことこそが至上の充足であった。
書類を片付け次の軍務を処理し、隙のない統治を維持する。それだけで己の存在意義は完結していたはずだった。
けれどここ数日、東翼の研究室へ足を向けない時間が続くだけで、日々の執務がひどく味気なく、手応えのない作業のように思えてならない。
(息抜き……)
数日前。己がフィリアの前で口走った都合のよい方便が、脳裏をよぎる。
あの陽光に満ちた部屋で机の上に身を乗り出し、文字を見つけては嬉しそうに目を輝かせる女の姿。
自分と目が合うと、少しだけ恐縮しながらも、花が咲くような満面の笑顔を向けてくれる。
――あの瞬間。あれを目にすることができないだけで、これほど胸の内が乾くものなのか。
レオンハルトは少しの逡巡の後、ハルトヴィヒへ低く命じた。
「ハルトヴィヒ」
「はっ」
「……顧問官に、昼食の打診を出せ。水門のその後の経過について、文書側の見地から再度確認したいと伝えろ」
水門の事後確認。
二週間も前に解決した案件を持ち出すのは、我ながら随分と苦しい口実であることは自覚していた。
だが、皇帝が口にすれば、それは正式な公的召集の体裁を保つことができる。正午の少し前に声をかければ、不自然ではないはずだった。
しかしハルトヴィヒの返答は、予想だにしないものであった。
「……陛下。誠に申し上げにくいのですが」
老長官は恐縮した面持ちで、手元の宮廷日誌をめくって見せた。
「本日午前より、帝国学術院の本館講堂におきまして、四半期に一度の『帝国学術院定期総会』が開催されております。フィリア顧問官は先月授与されました帝室顧問の職責に基づき、古代帝国初期の土地誓約に関する午前の基調報告を担当するため、朝から招かれておりまして……。本日の昼食会は総会出席の全学士たちと共に、学術院の食堂にて摂られる予定となっております」
「…………」
「今朝の日報の末尾にも、その旨の記載がございました……」
レオンハルトの動きが完全に止まった。
言われてみれば、先ほど目を通した日報の最後に、確かにその一行が記されていた。
公務の予定として何ら不備のない、至極正当な学術交流の場。午前から現地へ赴いている以上、正午前の今から連絡を入れたところで呼び戻せるはずもない。
「そうか」
レオンハルトは感情を押し殺した声で短く応じると、机の上の書類へと視線を戻した。
「ならば良い。予定を優先させろ」
「御意に」
ハルトヴィヒが一礼して下がり、部屋には再び静寂が戻った。
正当な公務である以上、皇帝がそれを私情で遮る理由などどこにもない。
彼女が帝国の学術界において正式な一員として認められ、他の学者たちと交流を深めることは、国家にとっても彼女にとっても大いに望ましいことである。
やがて正午を告げる鐘の音が、遠くの尖塔から重々しく響いてきた。
執務室に一人残されたレオンハルトの前には、銀の盆に載せられた昼食が運ばれていた。
盆の上には冷製スープが静かに置かれ、傍らの焼きたてのパンからは、ほのかに温かな湯気が立ち上っていた。
誰もいない、広すぎる部屋。
向かい合う相手のいない静かすぎる食卓。レオンハルトは無言のままスープを口に運んだ。
(……私は、何を勝手に期待していたのだ)
苦い自省が胸の底へと重く沈んでいく。
彼女の予定を確かめもせず、今日もまた向かい合って食事ができるのではないかと、自分一人で都合よく思い描いていた。
そもそも、あの日サロンで過ごした穏やかな時間を、彼女がどう受け止めていたのか、自分は一度として直接確かめたこともない。
彼女にとってあれは、至高の主君から与えられた、公的な労いの場に過ぎなかったのかもしれない。
それなのに自分ばかりがその余韻を引きずり、公務の合間に個人的な時間を欲しがっている。
あの日、サロンの窓辺で語り合った、幼少期の星空と茜色の夕空。
あの静かな記憶の共有を、彼女はどう思っていたのだろうか。
誰にも問うことのできない疑問を抱え、皇帝は小さく嘆息した。
◇
同じ頃、帝都オイレンベルクの中央区に位置する帝国学術院本館。
重厚な石造りの大講堂から、休憩時間を告げる鐘の音とともに、多くの学者や司書たちが三々五々、中庭に面した食堂へと移動していく。
「フィリア先生。先刻の基調報告における、古代帝国初期の土地誓約に関する語義の解説、誠に見事でございました」
白髪の老法学者が、敬意を込めてフィリアに頭を下げる。
フィリアは特別顧問官の正装の裾を整えながら、恐縮したように微笑み返した。
「滅相もございません。私など、まだまだ帝国の法理の歴史については学ばねばならぬことばかりでございます。先生の論文こそ、大変勉強になりました」
「いやはや、謙虚なことだ。宮廷魔導院の長老連中が鼻を高くしている中、貴女のように真摯に原典の文脈と向き合う方が帝室顧問に就かれたこと、帝国の学問にとって誠に幸いなことです」
周囲の学者たちからも、温かな賛同の頷きが返ってくる。
食堂の長いテーブルには、学術院の伝統的な素朴な料理が並べられ、学士たちはパンを千切りながら、熱心に史料の解釈や研究手法について語り合っていた。
かつて、ルベル王国の旧離宮で誰からも言葉をかけられず、冷たい古紙の埃の中で一人で固いパンをかじっていた。あの頃を思い出すと、信じられないほど恵まれた、知的な熱気にあふれる光景だ。
本来であれば、フィリアにとってこれ以上なく楽しく、誇らしい時間である。事実、彼女は学者たちの問いかけに誠実に答え、貴重な意見交換に目を輝かせていた。
しかし、ふとした瞬間に胸の奥を小さな、言いようのないざわめきが掠めていく。
(陛下は、今頃どうなさっているかしら……?)
手元のスープ皿を見つめながら、フィリアは無意識のうちにそんなことを考えていた。
正午の鐘が鳴った時、真っ先に脳裏に浮かんだのは黒曜宮南翼の小サロンの風景だった。
大きな窓から差し込む柔らかな光。
不器用そうにカップを手に取り、真剣な眼差しでこちらの話に耳を傾けてくれた。
あの灰銀の髪の男の姿。
今朝、ハルトヴィヒから「本日の学術院総会への出席、陛下も快く承認された」と伝え聞いた時、フィリアは主君の寛大さに深く感謝した。
だが同時に、ほんのわずかだけ、心のどこかで「今日は陛下にお目にかかれないのだ」という、寂しさに似た疼きを覚えていた。
そんな自分に気づいて、酷く驚いたほどだ。
フィリアは密かに首を横に振り、浮かんだ私的な願いに戸惑った。
皇帝レオンハルトは、大陸全土の命運を一身に背負う至高の主君である。
一刻一秒を惜しんで政務に励む彼が、一介の顧問官に過ぎない自分に割く時間など、本来であれば一握りでも奇跡のようなものなのだ。
水門の危機が去り、ルベル王国との問題も片付いた今、陛下が自分とわざわざ顔を合わせる必要がないのは当然のことである。
それなのに自分はいつの間にか、あの厳格で、しかし驚くほど温かな眼差しを向けられる時間を、当たり前のものとして求めてしまっていた。
「……フィリア先生? いかがなさいましたか。お顔の色が少し優れないようですが」
隣の席の若い女性司書が気遣わしげに声をかけてきた。
フィリアはハッとして我に返り、慌てて笑顔を作った。
「い、いえ! 何でもありません。少し先ほどの碑文の文脈を思い出しておりました」
「まあ、お食事の間まで熱心なこと。でもあまり根を詰めすぎては、皇帝陛下にご心配をおかけしてしまいますよ」
司書の何気ない冗談交じりの言葉に、フィリアの胸がトクンと音を立てた。
陛下が心配してくださる。
あの日、執務室に突然やってきて「少し、休憩しないか」と声をかけてくれた、あの少しだけ困惑したような黄金の双眸が蘇る。
あの時、自分は研究の区切りを優先した。
作業を終えてからお話しできればと思っていた。けれど、陛下は休憩を共にすることを望んでおられたのかもしれない。
研究を続けたことに後悔はなかった。
それでも、あの誘いに込められたお気持ちを、十分に汲み取れなかったのではないだろうか。
(陛下は……怒っておられないかしら……?)
一度生じた不安は容易には消え去らなかった。
◇
学術院の午後の議論は滞りなく進み、夕刻前にはすべての議事日程が終了した。
馬車に揺られ、宮殿へ戻った時、空はすでに夕暮れの気配を帯び始めていた。
東翼へと続く静かな回廊を歩きながら、フィリアはふと、西側の壁に穿たれた大きなアーチ窓の前で足を止める。
「あ……」
思わず、小さな声が唇から漏れた。
窓の向こう、西の地平線に連なる峻険な山並みの背後に、夕陽がまさに沈み込もうとしていた。
空全体が息を呑むほどに鮮烈な茜色に染まり上がっている。
燃え盛るような朱色から、淡い紫、そして天頂へと向かう深い藍色へ。
完璧なまでのグラデーション。
大気中の塵をすべて洗い流したような澄み切った光が、宮殿の黒曜石の壁面を息を呑むほど美しく、赤銅色に染め上げていた。
「見事な夕空ですね、フィリア様。この季節でも、これほど澄んだ茜色は滅多に見られませんよ」
隣に立つベルンハルトが感嘆の息を漏らす。
「ええ……本当に、綺麗……」
フィリアは窓枠にそっと手を触れ、見惚れるようにその光景を見つめていた。
そして、その瞬間。
彼女の胸の奥に、ある一つの想いが抑えようもなくあふれ出す。
(陛下にお見せしたい……)
あの日、小サロンの食卓で、レオンハルトが静かに語ってくれた言葉。
――『夕刻、訓練を終えて見張り塔に登った時だ。西の山並みに陽が沈む一瞬、空全体が茜色に染まる。……あの空の移ろいだけは、今でも好ましいと思っている』。
孤独な少年時代の中。
彼が唯一愛したという、あの空。
今、目の前に広がっているこの息を呑むような夕暮れこそ、まさに彼が語っていたその景色そのものかもしれない。
もし、今この瞬間に陛下がこの空を見上げることができたなら。
日々、冷酷な決断と重責に縛られているあの峻厳な横顔が、ほんの少しでも穏やかに綻んでくれるのではないだろうか。
走って執務室へ向かおうか。
「陛下、西の空がとても綺麗です」と、ただそれだけを伝えに行こうか――
フィリアの足先が無意識に一歩、前へと踏み出しかけたが、その足はすぐにその場に縫い止められる。
(……何を考えているの、私……)
フィリアは自らの胸元をぎゅっと押さえ、唇を噛む。
自分は一体、何をしようとしていたのか。
夕空が綺麗だから。
ただ、それだけの他愛のない理由で、大陸屈指の大帝国の皇帝を、山のような公務に追われている最高権力者を呼び立てようとしたというのか。
古代文字の解読でもなく、国家の安全に関わる報告でもない。
そんな私的な理由で彼の時間を奪うことなど、顧問官としての分を弁えない、言語道断の振る舞いだ。
「フィリア様? いかがなさいましたか?」
立ち止まったままのフィリアを案じて、ベルンハルトが覗き込んできた。
フィリアは首を横に振り、無理に笑顔を作る。
「何でもありません。とても綺麗な空だなって見惚れていただけです。さあ、執務室へ戻りましょう。明日の史料の準備をしなければ――」
フィリアは、窓の外の茜空に最後にもう一度だけ視線を走らせると、名残惜しさを振り切るように踵を返した。
会いたい。
その顔を見て、言葉を交わしたい。
だが、その願いを口にするための「正当な理由」を彼女は持っていなかった。
胸の奥にチクリと刺さる小さな痛みを抱えながら、フィリアは薄暗くなり始めた回廊を、静かに歩み去っていった。
◇
その同じ時刻。
黒曜宮の中央塔、最上階にある皇帝政務執務室。
西向きに開かれた広大な硝子窓の前に、レオンハルトは独り佇んでいた。
執務用の黒い上着を脱ぎ、白のシャツ一枚の姿で腕を組んだまま窓の外を見つめている。その切れ長の黄金の双眸には、沈みゆく夕陽が放つ、燃えるような茜色の残光が鮮やかに映り込んでいた。
山並みの端が群青の闇へと溶け、空の赤が徐々に紫へと移ろっていく。
かつて、傷だらけの少年であった自分。誰にも弱音を吐けぬまま、見張り塔の上で一人で見上げていた、あの愛した景色。
レオンハルトは、無言のままその光景を見つめ続けていた。だが、今の彼の胸を満たしていたのは、かつてのような乾いた孤独ではなかった。
脳裏に浮かんでいたのは、ただ一人の姿。
地下書庫の暗闇の中で、天井の小さな窓から星を見上げていたという、華奢な女。
野に咲く小さな雑草の花を、何よりも美しい景色だと微笑んでいた、あの澄んだヘーゼル色の瞳。
(……彼女も今、この空を見ているだろうか……)
自然とそんな問いが、胸の底から湧き上がってきた。
学術院の総会はもう終わった頃合いだ。他の学者たちと、楽しそうに議論を交わしていたのだろうか。
今、宮殿へ戻る道すがら、この夕空を見上げているかもしれない。
この部屋を出て、東翼の研究室へ足を向けてみようか。
しかし、総会の報告書が届くのは明日だ。今行ったところで口にすべき公的な用件など何一つない。
「空が綺麗だったから見に来た」などと、皇帝の口から言えるはずもなかった。
そんな理由で訪ねていけば、あの生真面目な女は、また「何か公務上の重大な事態でしょうか」と身構えてしまうに違いないのだ。
「……ふっ」
レオンハルトの口元から、自嘲の混じった微かな笑みが漏れた。
理由。
口実。
公的な名目。
自分はいつから、これほどまでに回りくどい男になってしまったのか。
戦場では一瞬の迷いもなく敵陣へ切り込み、議場では苛烈なまでの決断力で百の貴族を沈黙させてきたこの自分が、たった一人の女の顔を見に行くだけのために、これほどまでに足踏みを繰り返している。
茜色の光が徐々に薄れ、夜の帳が帝都の屋根瓦を黒く塗り潰していく。
冷涼な夜風が窓の隙間から吹き込み、レオンハルトの灰銀の髪を微かに揺らす。
皇帝は窓枠に手をかけ、暗くなった空を見つめながら、静かに己の胸の奥底にある感情を見つめていた。
――自分が求めているのは、水路の進捗報告などではない。
――古代文字の正確な解読でもない。
仕事上の必要など何一つなくても、ただ、彼女に会いたい。
公務の枠組みを離れて、彼女の声を聴き、彼女が笑う姿を間近で見つめたい。
一国の主と顧問官という関係を超え、フィリア・ルベルという一人の女そのものを求めている自分に、レオンハルトは抗いようもなく気づき始めていた。




