昼食という名の進捗確認
アウグスタ大水門の決壊危機が回避されてから三日が経過していた。
帝都オイレンベルクを覆っていた逼迫した空気はひとまず和らぎ、中央水路への基礎給水は安定を取り戻しつつあった。
水没の危機を免れた下町の広場には安堵が広がり、市民たちの生活の足音も普段の落ち着きを取り戻し始めている。
だが、数百年にわたり放置されていた巨大設備の傷が、わずか数日で完全に癒えるはずもない。
帝国の工務局では老技師長ヴァルターを筆頭に、全技師が総出で水圧の微細な変動を監視し続け、長期的な保守改修計画の策定に向けた気の抜けない検証作業を連日連夜続けていた。
黒曜宮の東翼、柔らかな陽光が注ぎ込む特別顧問官執務室では、フィリアが数冊の分厚い古文書の写しを机の上に広げ、熱心に羽ペンを走らせていた。
「フィリア様。工務局から届いた『中央導水路の経過観測日報』でございます」
助手のベルンハルトが革表紙の書類箱を机の端へと恭しく置いた。
「ヴァルター技師長殿が今朝も図書院へ立ち寄られましてね。『フィリア顧問官が添えてくださった古代碑文の解読注釈のおかげで、若手技師たちも石板に刻まれていた安全条件の文意を正しく把握できるようになり、手順の再検証が滞りなく進んでいる』と、深々と頭を下げていかれましたよ」
「よかったです。あの制御盤に刻まれていた古代帝国文字は、語義の取り違えさえ解ければ、後世の技術者へ向けられた明確な指針ですもの。実際の水圧管理や配管の安全確認は、ヴァルター技師長様をはじめとする、工務局の専門家の方々が技術を尽くしてくださっているからこそです」
フィリアは顔を上げ心からの安堵を込めて微笑んだ。
ルベル王宮の地下室にいた頃は自分がどれほど記録を整理しても、誰の耳にも届かず、感謝の言葉をかけられることなどあり得なかった。
だがここでは、自分の解読した一行の文章が現場で働く専門家たちの手を通じて、街の暮らしを支える確かな力になっている。
その手応えは彼女の胸をじんわりと温めていた。
その時、執務室の樫の扉が控えめなノックとともに開かれた。
入ってきたのは、黒の礼服を寸分の乱れもなく纏った帝室総務長官ハルトヴィヒ。
手には白銀の盆に載せられた一通の書簡がある。
「フィリア顧問官。執務中、恐れ入ります」
「ハルトヴィヒ卿。何か水門に関する緊急の照会でしょうか」
フィリアが反射的に机の上の図面をまとめようとすると、老長官はふっと目元を和ませ、首を横に振った。
「いえ、技術的な問題ではございません。皇帝陛下より顧問官へのお言付けでございます」
「陛下から……?」
「はい。『水門事案における多大なる功績を労い、今後の水路網保守に関する見解を直に聞くため、正午より宮殿南翼の小サロンにて昼食を共にするよう』との勅命でございます」
昼食を共にする。
その言葉の意味を理解するのに、フィリアは数秒の時間を要した。
皇帝と二人きりで食事をとる。
ルベル王国であれば、側室腹の日陰者など王族の食卓の末席に座ることすら許されず、ましてや一国の最高権力者と差し向かいで食事をするなど、想像することすら不敬とされる事態であった。
「へ、陛下と……私が、昼食をご一緒するのですか……!?」
フィリアが狼狽して立ち上がると、ベルンハルトが素早く動き出した。
「素晴らしいことです、フィリア様! 陛下が顧問官に対してこれほど直接的な労いの席を設けられるなど、前代未聞の破格の厚遇です! 早速、水門の補足資料と第二期水路改修に関する文書側の注記、それに古代水利碑文の構文解説の控えをまとめましょう!」
「え、ええ、そうね! ベルンハルトさん、青いインクで清書したあの別冊の綴りも持って行かなければ……」
慌てて書類の束を抱え込もうとする二人を見て、ハルトヴィヒは堪えきれないように微かに吹き出した。
「顧問官、ベルンハルト司書。慌てる必要はございません。陛下からは厳格に申し渡されております。『書類や図面の類いは一切持参するな。軽装のまま身一つで参れ』と」
「え……? 書類を持たずに……ですか?」
フィリアは両手に抱えた羊皮紙の束を抱きしめたまま、目を丸くした。
名目は「功績の労いと今後の見解の聴取」であるはずだ。書類を持たずに赴いて、一体何を進捗報告すればよいというのだろう。
ハルトヴィヒは穏やかな笑みを崩さぬまま、静かに一礼した。
「正午に私がお迎えに上がります。どうぞ、肩の力を抜いておいでくださいませ」
◇
正午少し前、ハルトヴィヒの案内で訪れた黒曜宮南翼の小サロンは、公式の晩餐会が行われる大広間とは打って変わって静謐で落ち着いた空間だった。
高いアーチ窓からは柔らかな陽光が注ぎ、白大理石の床には淡い草色の絨毯が敷かれている。
窓の外には手入れの行き届いた私的な中庭が見え、まだ開ききらない白木蓮の蕾が春風に揺れていた。
部屋の中央に置かれた円卓には、すでに白無地の清潔なテーブルクロスがかけられ、銀の食器が二人分、整然と並べられている。
そして、その窓辺に背を向けて立っていたのは、レオンハルトであった。
軍務用の厳しい外套は脱ぎ捨て、濃紺の仕立ての良い上着に、飾り気のない白のシャツを纏っている。
灰銀の髪をわずかに額に落としたその佇まいは、謁見の間で見せる峻厳な覇王の威圧感をいくぶん和らげていたが、それでもなお彫刻のように均整の取れた相貌からは、一切の感情が読めなかった。
「……参内いたしました、陛下」
フィリアが進み出て、背筋を伸ばして最敬礼をとる。
レオンハルトの黄金の双眸が音もなく彼女へと向けられた。
「堅苦しい礼は不要だ。座れ」
短く命じられ、フィリアは促されるままに円卓の席へと着いた。
皇帝が向かいの席に腰を下ろすと、無言のまま控えていた給仕の侍従たちが、手際よく料理を運び始める。
運ばれてきたのは華美を誇る宮廷料理ではなく、実利と素材の質を重視した品々であった。
透き通るような白身魚の香草蒸し。春の走りの温野菜を添えた柔らかな若鶏のロースト、そして香ばしい焼き立てのパン。
派手なソースで飾り立てるのではなく、丁寧に下ごしらえされた滋味深い料理の数々であった。
何よりフィリアの前に置かれた銀の小鉢には、彼女の好むハーブで軽く風味付けされた蒸し野菜がたっぷりと盛られていた。
「……口に合うか」
レオンハルトが手元のカトラリーを取りながら無表情に尋ねる。
「は、はい! 大変美味でございます。このような素晴らしいお食事をいただき、身に余る光栄です」
「そうか」
レオンハルトは小さく頷くと、淡々と切り出した。
「水門の件、工務局からの日報は目を通した。そなたの解読を受け、工務局が手順を検証して放水路を開放して以来、基礎給水はひとまず安定している。ヴァルター技師長らも己の不明を恥じると同時に、そなたの知識に深く敬服していた」
「滅相もございません。現場の技師様方が、危険を顧みず専門的見地から迅速に対処してくださった結果です。実は、第二王朝期の水利碑文の控えと旧手順書を再照合いたしましたところ、春の融雪期には、通常期とは異なる流路選択条件が記されている可能性に気づきました」
「流路選択条件、だと?」
「はい。特定の気象条件を示す古語の記述がございまして、もしそれが正しければ、雪解け水の流入に備えた予備放水の手順が別途存在するかもしれません。もちろん、実際の許容量や弁の操作可否につきましては、ヴァルター技師長様をはじめとする工務局の皆様に技術検証をしていただく必要がありますが……」
「なるほど。機器の改修や調整幅の判断は工務局に委ねるとしても、文書上の安全条件が前もって把握できるのは大きい。引き続き、文献側の精査を進めよ」
「はい、承知いたしました!」
フィリアは背筋を正し、淀みなく答えた。
学問と記録の話であれば、彼女の頭脳は驚くほどの明晰さを発揮する。
レオンハルトもまた、極めて合理的な統治者として、彼女の指摘する論点を的確に把握し、短く鋭い確認を返した。
そこには完璧な主君と顧問官としての、寸分の狂いもない知的な対話が存在していた。
食事が進み、料理の皿が下げられていく。
給仕が最後の温かなハーブティーを注ぎ、音もなく一礼してサロンから退出していった。
扉が静かに閉ざされ、部屋にはレオンハルトとフィリアの二人だけが残される。
――そして、その瞬間。
カチ、と置かれた銀のスプーンの音がやけに大きく響いた。
水門の話、今後の監視方針、工務局への伝達事項。
事前に想定されていた「職務上の議題」のすべてが、完全に語り尽くされてしまったのだ。
(あ……)
フィリアは手元のティーカップを見つめたまま、身体を硬直させた。
何を話せばいいのだろう。
ルベル王宮にいた頃、彼女は誰かと「雑談」をした経験など一度もなかった。
廊下ですれ違う使用人からは無視され、家族からは罵倒されるか、あるいは存在しないものとして扱われてきた。
言葉を交わす相手といえば、保管室に眠る無言の古文書たちだけだったのだ。
向かいの席に座るレオンハルトもまた、微動だにせずティーカップを手に持ったまま、沈黙を守っている。
若くして即位し、戦場と政務の修羅場だけを駆け抜けてきた若き覇王。
敵対者を論理と力でねじ伏せる術は知り尽くしていても、年頃の娘と「業務以外の私的な会話」を交わす訓練など、彼もまた受けてこなかったのだ。
柔らかな陽光が注ぐサロンに静寂が降り積もっていく。
窓の外で小鳥が囀る声と、時折吹く風が木の葉を揺らす音だけが、やけに鮮明に耳に届いた。
フィリアの額に微かな汗が滲む。
何か言わなければ。
皇帝陛下を退屈させてしまっては、顧問官としての務めが果たせない。しかし古文書以外の話題など、彼女の頭の中のどこを探しても見当たらないのだ。
その重苦しい沈黙を破ったのはレオンハルトだった。
彼はカップをソーサーへと戻すと、少しだけ喉を鳴らし、硬質な声で口を開いた。
「……そなたは」
「は、はい!」
フィリアは弾かれたように背筋を正した。
「……公務のない休日は、普段何をして過ごしているのだ」
質問を投げかけたレオンハルトの表情は、まるで隣国の宣戦布告書を前にした時と同じくらい険しく、真剣そのものであった。
フィリアは目を瞬かせた。
休日。自分に与えられた私的な時間。
「休日の過ごし方……でございますか?」
「そうだ。……趣味はあるのか」
趣味。
その単語を聞いた瞬間、フィリアの顔にぱっと明るい光が差した。
自分の得意な分野を尋ねられたのだと、無垢な確信を持って満面の笑みで答える。
「古代文字の解読でございます!」
「…………」
レオンハルトの眉間がわずかに微動した。
皇帝は少しの間を置き、言葉の定義を確認するように慎重に言い直した。
「……いや。それは、そなたの『仕事』だろう」
「え? あ……はい、お仕事でもございますが……」
「そうではなく、仕事から離れた私的な時間のことだ。義務でもなく誰からの命でもない、己の慰みとして行っていることはないのか」
「己の慰み……?」
フィリアは真剣に小首を傾げ、記憶の糸を手繰り寄せた。
義務ではなく、誰に命じられたわけでもなく、自分が心から好きで、時間を忘れて熱中してしまうこと。
答えは、一つしか思い浮かばなかった。
「古代文字の研究でしょうか?」
「…………」
レオンハルトは無言のまま、静かに片手で自らの眉間を押さえた。
大陸全土にその武威を轟かせ、百戦錬磨の将軍たちを震え上がらせてきた若き覇王が、今、人生で初めて「己の問いかけの難易度の高さ」に打ちのめされていた。
この少女の頭の中には、文字と記録以外の娯楽が存在しないのだという現実を、彼は思い知らされたのである。
「あ、あの……陛下? 私、何か不適切な返答をいたしましたでしょうか……!?」
フィリアがおろおろと視線を泳がせ両手を胸の前で小さく振った。
レオンハルトは深く息を吐き出すと、手を下ろし黄金の瞳を穏やかに細めた。
「……いや、そなたの返答に瑕疵はない。私の問い方が悪かった」
「陛下?」
「文字以外の話だ。例えば、そうだな……」
レオンハルトは視線を巡らせ、中庭の木蓮の木へと向けた。
「子供の頃、何を見るのが好きだった? ……好きな景色はあるか」
好きな景色。
その問いにフィリアの心の中に、ふわりと古い記憶が蘇った。
ルベル王宮の旧離宮。
誰からも省みられず、冷たい隙間風が吹き抜けていた、あの暗い部屋。
「……高いところにある、小さな窓でした」
フィリアはぽつりぽつりと、記憶の欠片を拾い集めるように語り始めた。
「旧離宮の保管室の天井近くに、一つだけ、外が見える換気用の小窓があったのです。そこから見える夜空の星が、とても綺麗でした。夜遅く、皆が寝静まった後に踏み台を置いて窓を見上げると、まだ難しい文字を読めなかった幼い頃でも、星の並びだけは誰にも邪魔されずに眺めることができましたので……」
淡々とした、恨み言の一切含まれない声音。
しかし言葉の裏にある、幼い少女が暗闇の中でどれほどの孤独を抱え、ただ星の光に縋り付いていたのか、レオンハルトの胸を痛烈に抉った。
「それから……旧離宮の裏手に小さな荒れ地がございました」
フィリアの瞳が懐かしむように柔らかく細められる。
「誰も手入れをしない場所でしたので、春になると、名もなき野草がたくさん咲くのです。カモミールや小さな青い野花。誰も見向きもしない花たちでしたが、風に揺れている姿を見ていると、とても心が安らぎました。私にとって好きな景色といえば、あの荒れ地の小さな花たちです」
宝石で飾られた庭園でも、豪奢な宮殿の祝祭でもない。
暗い地下から見上げた夜空と放置された荒れ地に咲く雑草の花。
それが一国の王女として生まれながら、彼女が十八年間の人生で集めることのできた、ささやかな「美しい記憶」のすべてであった。
「……そうか」
レオンハルトの声は、驚くほど低く優しかった。
彼は手元のカップを静かに置くと、自らの少年時代に思いを馳せるように、窓の外を見つめる。
「私も……幼少期は景色を愛でるような余裕はなかった。父が厳格な武人であったため、物心ついた頃から剣を握らされ、軍学を叩き込まれていたからな」
「陛下も……でございますか?」
「ああ。少しでも太刀筋が鈍れば容赦なく叩き伏せられ、弱音を吐けば夜通し城壁の警備に立たされた」
淡々と語られる皇帝の過去にフィリアは小さく息を呑んだ。
冷酷無比と恐れられる男の背負ってきた過酷な歳月。
それは形こそ違えど、己の感情を殺し、ただ求められる役割に耐え続けてきたという点において、彼女自身の孤独とどこか重なり合うものがある。
「だが……そんな日々の中で、唯一、嫌いではなかった時間がある」
レオンハルトの黄金の瞳が、ふっと微かな光を帯びた。
「夕刻、訓練を終えて黒曜宮の最も高い見張り塔に登った時だ。西の山並みに陽が沈む一瞬、空全体が燃え盛るような茜色に染まり、やがて群青の夜へと溶けていく。あの静まり返る空の移ろいだけは、今でも好ましいと思っている」
夕暮れの茜色の空。
フィリアの胸の奥に、その情景が鮮やかに広がっていった。
冷徹な皇帝が一人で見上げていた夕空。
二人の間に流れる空気は、先ほどまでのぎこちなさを脱ぎ捨て、信じられないほど穏やかで、静謐な温もりに満ちていく。
肩書も、国家も、古代文字の解読すら関係のない、ただ一人の人間としての記憶の共有。
フィリアは、目の前にいるこの男がどれほど不器用で、そしてどれほど誠実に己の心を開いてくれているのかを感じ取り、胸の奥が熱くなるのを覚えていた。
――その時。
トントン、と小サロンの扉が控えめに叩かれた。
入ってきたのは、帝室総務長官ハルトヴィヒであった。老長官は壁際の時計をちらりと見やり、恐縮した面持ちで一礼する。
「陛下。大変申し上げにくいのですが、軍務尚書との定時軍務謁見の刻限が迫っております」
その言葉に、レオンハルトは小さく眉をひそめた。
彼が視線をサロンの柱時計に向けると、針はすでに予定されていた昼食の終了時刻を、半刻――約一時間も超過していた。
分刻みで動く皇帝の公務において、食事の席をこれほど延長するなど前代未聞の事態である。
「……もう、そんな時間か」
レオンハルトは静かに呟くと、名残惜しさを微塵も表に出すことなく立ち上がった。
フィリアも慌てて席を立ち、深く頭を下げた。
「陛下、お忙しい身でありながら、長々とお引き止めしてしまい申し訳ございませんでした。心温まるお食事と、貴重なお話をいただき、心より感謝申し上げます」
「……気にするな。有意義な時間であった」
レオンハルトは短く告げると上着の襟元を正し、大股でサロンを後にした。
その後ろ姿を見送りながら、フィリアは胸元にそっと手を当てた。
皇帝の口から語られた「夕暮れの茜空」の言葉が温かな余韻となって、彼女の心にいつまでも響いていた。
◇
翌日。
正午を告げる鐘の重々しい音が、帝都オイレンベルクの空に響き渡った。
黒曜宮の政務執務室で書類を精査していたレオンハルトは、執務を区切ると、足早に宮殿南翼の小サロンへと向かった。
朝の申し送りにおいて、皇帝自身が無意識のうちに給仕頭へ「昼の食卓は昨日と同様に整えておけ」と指示を出していたため、サロンの円卓には、昨日と寸分違わず二人分のテーブルセッティングと銀の食器が並べられていた。
暖炉には薪が穏やかに爆ぜ、窓の外からは心地よい春の風が吹き込んでいる。
レオンハルトは上着を脱いで椅子に腰を下ろすと、静かにサロンの扉へと視線を向けた。
五分が経過した。
十分が経過した。
しかし、扉が開く気配は一切なかった。
廊下を行き交う近衛兵の靴音だけが、遠くから微かに聞こえてくるだけである。
レオンハルトの眉間に、次第に険しい皺が寄っていった。
事故か。それとも、水路の解読作業に熱中するあまり、時間を忘れているのか。あの生真面目な少女のことだ、倒れでもしたのではないか。
「……ハルトヴィヒ」
レオンハルトが低く呼ぶと、壁際に控えていた総務長官が音もなく進み出た。
「はっ。何でございましょうか、陛下」
「フィリア顧問官はどうした。体調を崩したのか」
皇帝の真剣な問いかけに、ハルトヴィヒは一瞬目を丸くしたが、主君の不可解な指示と今の様子から内心で事情を察し、慌てて咳払いを一つした。
朝の時点で「昨日と同様に」と命じられた際、特に顧問官宛ての招待状の起案を指示されていなかった理由が、老長官の頭の中で完全に繋がったのだ。
「……陛下。恐れながら、本日はフィリア顧問官へ昼食のご案内を出しておりません」
「…………」
「昨日の昼食会は『水門事案の労い』という名目の、一度限りの催しでございましたので……。顧問官は現在、執務室にてベルンハルト司書の手配した軽食を摂りつつ、西方国境の地誌の精査に励まれております」
ハルトヴィヒの冷静で寸分の狂いもない正論。
サロンの中に完全な沈黙が落ちた。
「そうか」
レオンハルトは短くそう呟くと、視線を机上の銀の食器へと戻した。
自分が招いていないのだから、来るはずがない。あまりにも当たり前の事実であった。
給仕が手際よく運んできた極上の仔牛の煮込み料理。
一口運んでみるが、昨日と同じ厨房で作られたはずのその味は、なぜか驚くほど味気なく感じられた。
誰もいない向かいの席。
主の手を待つことなく置かれたままの空のティーカップ。
静かすぎるサロン。
(……物足りん)
レオンハルトは小さく奥歯を噛み締めた。
昨日まで一人で食事を摂ることなど、何百、何千と繰り返してきた日常に過ぎなかった。
食事とは単なる肉体の維持であり、手早く済ませて次の公務へ移るための作業でしかなかったはずなのだ。
だというのに、たった一度あの女の屈託のない笑顔と、真剣に文字を語る澄んだ瞳を前にしただけで、これほどまでに食卓が寒々しく思えるとは。
執務室へと戻ったレオンハルトは机の上に積まれた膨大な公文書の山を前にして、椅子に深く身を沈めた。
手元の羊皮紙には帝国各地からの報告が整然と並んでいる。
皇帝の鋭い黄金の瞳が書類の文字を滑るように追っていく。だが、その思考の半分は、まったく別の方向へと向かっていた。
(……西方国境の地誌。……いや、先日の水路碑文における融雪期の流路条件について、文書解読の観点からより詳細な諮問を行うという名目ならば……)
不自然ではない理由。
皇帝が一介の顧問官を再び昼食の席へと呼び出すための、正当で公的な名目。
冷徹無比と恐れられる若き覇王は、手にしたペン先を紙面で小さく叩きながら、極めて真剣に、そして誰にも悟られぬよう密かに、「次の口実」を思案し始めていた。




