文字食い王女、恋愛を研究する
帝都オイレンベルクを吹き抜ける風に、初夏の瑞々しい熱気が混ざり始めた頃、帝室図書院の地下『特殊史料比較室』には、連日新たな専門家たちの熱い議論が響き渡っていた。
作業台の上に広げられているのは、前日レオンハルトの手配によって閲覧が叶った二点の原本――『西方関所手形』と『北東部旧黒曜工廠区搬出伝票』の高精細な写しである。
卓を囲んでいたのは、フィリアと助手のベルンハルトだけではなかった。
帝国学術院から招聘された歴史地理学の権威や、工務局で歴代の資材輸送路を研究してきた物流史担当の専門官が加わり、羊皮紙の古地図の上に様々な色のインクで輸送経路の検証線を書き込んでいる。
「フィリア顧問官の指摘通り、この北東部伝票にある複合記号『ハル・シャダ・アルカス』は、特定の地名そのものではなく、輸送区分などを指していた可能性を検討できそうです」
老眼鏡の位置を直しながらそう言ったのは、物流史担当の記録官だった。
「第三期の地方行政記録や現存する地名対照表を突き合わせましたが、少なくとも現在把握できている地名索引や徴税台帳に該当する記録は見当たりません。ただし、索引にないことだけで地名の可能性を除くこともできません。伝票上の配置も考慮すれば『特殊な輸送区分』や『特定の取扱条件』を示す記号であった可能性が考えられます」
「輸送区分、あるいは取扱条件……」
フィリアは、首元にかかるヘーゼル・トパーズの首飾りにそっと触れながら深く頷いた。
「ええ。アグラヴィスの石碑に見られた『この地より外へ遠ざけられた』という動詞表現、そして末尾に暫定判読された『王の視線』に関する一節。もしあの表現と同系統の語彙であるなら、通常の輸送とは異なる、特別な管理や防護を要する物資を指す分類だったのではないか……という仮説も成り立ちます。もちろんその仮説が正しいか、どのような取扱条件を示すのかは、当時の運用実態を示す追加資料を慎重に探さねばなりませんが」
「問題はその輸送隊がどこへ向かったかです」
歴史地理学士が羊皮紙の古地図の上に真鍮の定規を当てた。
「各地から集めた伝票を比較すると、第三期の混乱期に、現在の帝国領内にあたる複数の工廠から輸送隊が編成された痕跡があります。西方の山岳部、南方の湿地帯、東方の沿岸部。しかし、大半は途中の記録が欠け、追跡が不可能です。戦火による喪失なのか後世の散逸なのかも区別できません」
「ですが、北東部の旧黒曜工廠区を発した一本のルートについては、今回の経路照会を受けて工務局の整理班が搬入した古い台帳の中に、当時の軍用宿営地台帳と沿道の関所通過日誌の控えが残されていました。北東部の搬出伝票と共通する隊番号や日付を手掛かりに、対応する記録を拾い出したのです」
ベルンハルトが台帳の一覧を示し、説明を継いだ。
「追跡できるのはどこまでですか?」
「確実に確認できるのは、黒曜山脈の東麓に位置していた『第三警備関所』までです。そこには、輜重隊の通過と最後の補給記録が残されています。通過日誌の控えには受領印とおぼしき刻印もありますが、物資の受領か書類の受け渡しかすら確定できません。判読できるのは差出人と受領側の識別符号のみで、最終荷受地の名称はどの記録にも見当たりません」
「なるほど……第三警備関所を通過し、最後の補給を受けたことまでは確実だが、その先どこへ運び込まれたのかは地名としては書かれていないのですね」
フィリアが手帳に状況を書き留めると、専門家たちは頷き、地図の検討へと戻った。
研究は着実に前進している。
だが――その充実感の裏で、彼女の胸の奥には昨日からずっと小さな棘のような疼きが残っていた。
◇
その日の夕刻。
宮殿東翼にあるフィリアの私室兼居室で、彼女は長机の前に座り、頭を抱えていた。
(……私、本当に駄目な婚約者だわ……)
思い出すのは、昨日の皇帝執務室での出来事である。
レオンハルトは自分のために門外不出の貴重な原本を手配し、わざわざ執務室に専用の机まで用意して、「ここで二人で」と穏やかに誘ってくれたのだ。
それなのに自分は新発見に我を忘れて熱狂し、高精細写しの手配を叫びながら、彼を一人残して脱兎のごとく部屋を飛び出してしまった。
その前の日も、彼が贈ってくれた見事な首飾りを前にして、開口一番「防衛費に回してください」と頓珍漢な提案をし絶句させている。
(陛下はいつも私の研究を誰よりも尊重してくださる。怒ることもなく、私の無作法を受け止めてくださっている。でも、だからといって、それに甘えきっていいはずがないわ)
フィリアは両手で自らの頬を包み込んだ。
自分はレオンハルトのことが大好きだ。
彼の深い理知も、現場を信じる誠実さも、自分を見つめてくれる温かな黄金の瞳も、心から愛しく敬愛している。
将来の皇后として彼の隣に立ち、彼を支えたいという思いに一片の偽りもない。
(でも……私には殿方を喜ばせるような教養も、社交界の機微も何ひとつない。どうすれば、レオンハルト様に喜んでいただけるのかしら)
ルベル王宮の旧離宮で顧みられず、宮廷での交際や恋愛の作法を学ぶ機会にも乏しかったフィリアには、一般的な男女の恋愛作法というものが根本から欠落していた。
どう振る舞えば相手が幸せを感じるのか、その具体的な手順が分からないのだ。
悩んでいた今朝、部屋の清掃に訪れた宮内府の気さくな年配の侍女が、眉をひそめてため息をつくフィリアを見かねて、耳打ちしてくれた言葉が脳裏に蘇る。
『フィリア様。学問がお得意なのは素晴らしいことですが、殿方という生き物は時に可愛らしく甘えられたり、視線ひとつで翻弄されたりすることに、たまらない幸福を覚えるものなのです。……よろしければ、私が若い頃に宮廷の侍女仲間で回し読みしていた、秘伝の指南書をお貸しいたしましょうか?』
そう言って、侍女がこっそりと渡してくれた一冊の革表紙の本。
いま、フィリアの机の上に厳然と鎮座しているのがその書物であった。
題名は――『殿方を虜にする閨の手練手管 ~視線と吐息で紡ぐ至高の愛~』。
表紙には妖艶な薔薇の唐草模様が型押しされている。
普通の貴族令嬢であれば表紙の扇情的な金文字を見ただけで顔を真っ赤にして隠すような、世俗の恋愛指南書だ。
しかし――フィリア・ルベルという少女の思考回路は、どこまでも生真面目な「研究者」だった。
「……なるほど。未知の領域であるならば先行研究の文献を徹底的に精査し、その論理構造と行動規範を抽出するのが学問の基本ですね」
フィリアは居住まいを正すと、神聖な古代碑文を前にした時とまったく同じ真剣な面持ちで、特注ルーペを構えて頁を開いた。
パラリ、と頁をめくる。
そこに書かれていたのは、世俗の男女の駆け引きにおける極めて具体的(かつ少々大げさ)な技術の数々であった。
『第一章:殿方の心を射抜く、三拍子の視線術。
まずは伏し目がちに睫毛を震わせ、次にゆっくりと瞳を上げ、相手の唇から瞳へと視線を這わせよ。その際、首をわずかに傾げ、上目遣いに微熱を帯びた吐息を漏らすべし』
「ふむ。視線の移動速度と角度の規定ですね。瞳と唇を結ぶ三角形の視線移動によって、相手の視覚中枢へ特定の感情負荷を与える心理誘導の手法と見受けられます」
フィリアは手元の研究ノートを開き、羽ペンで整然と要約を書き留めていく。
『第二章:触れ合いの魔術。
言葉を交わす際、衣服の袖口を指先でわずかに摘み、控えめに引き寄せるべし。己の小ささと無防備さを演出し、殿方の庇護欲を極限まで刺激するべし』
「接触面積を最小限に抑えつつ、牽引力を付与することで、相手の物理的な注意を自己の座標へと誘導する動作。なるほど、理に適っています」
『第三章:装いの隙。
襟元を普段より指一本分だけ広げ、鎖骨の白さを露わにせよ。夕暮れの薄暗がりにおいて、陰影の対比が殿方の理性を揺るがすであろう』
「採光と陰影の対比効果……。古代の壁画彫刻における視覚強調の技法と通じるものがありますね」
フィリアは一切の照れや動揺を見せることなく、まるで失われた古代帝国の法規集でも読み解くかのように、猛烈な集中力で指南書を読破していった。
そしてノートの末尾には、几帳面な文字で『対皇帝陛下・心理充足行動実践手順書』という見出しが躍り、分刻みの行動計画がびっしりと書き込まれたのである。
「よし……理論の把握は完了しました。学問とは、仮説を立て実践によってその有効性を検証してこそ意味があります」
フィリアはこくりと頷き、鏡の前に立った。
首元にはレオンハルトから贈られたトパーズの首飾り。彼女は指南書の指示通り官服の第一ボタンを慎重に外し、襟元を指一本分だけ左右に開いた。
鏡の中に、夕暮れの淡い光を受けて白く浮かび上がる自らの鎖骨と、琥珀色に輝く宝石が映る。
「……準備は整いました。今宵の面会にて検証を開始します」
◇
刻限は日没直後。
黒曜宮の中央翼、皇帝執務室。
一日の政務を終えたレオンハルトは、執務机に置かれた紅茶の湯気を眺めながら、静かに息を吐き出していた。
昨日の今日である。
原本の写しを持ち帰ったフィリアは、今頃また研究室で目を輝かせながら一心不乱に文字を追っているに違いない。
今夜も会うことは叶わないだろう。そう諦めかけていた、その時であった。
普段よりもどこか控えめで、遠慮がちなノックが扉を叩いた。
「入れ」
扉が静かに開き、姿を現したのはフィリアであった。
「フィリア?」
レオンハルトは驚き、思わず背筋を伸ばす。
彼女が自発的に、研究の途中でこの夜の執務室を訪ねてくるなど、極めて稀なことであったからだ。
しかし、部屋に入ってきたフィリアの様子はどこか決定的に異様であった。
足取りがいつもの軽やかな早足ではない。
爪先を内側に向け、わずかに身体を揺らしながらおずおずと、まるで壊れ物を運ぶような不自然な摺り足で近づいてくる。
そして何より、その視線であった。
(……な、なんだ?)
レオンハルトの全身の筋肉が、戦場における警戒態勢のようにキュッと引き締まる。
フィリアは机の前に立つと、まず床をじっと見つめた。
そして、心の中で秒数を数えているかのように、一秒、二秒と間を置いた後、パチパチと大げさに睫毛を震わせながら、ゆっくりと顔を上げたのである。
そのヘーゼル色の瞳はレオンハルトの唇をジッと三秒間凝視し、次いでスススと視線を這い上がらせて彼の黄金の瞳を捉えた。
首を右斜め十五度ほど傾け、潤んだ上目遣いで、小さく「はふぅ」と不自然な息を漏らす。
「フィ……フィリア?」
レオンハルトは眉根を寄せ、困惑のあまり声を震わせた。
「首を痛めたのか? 呼吸が乱れているようだが貧血か?」
しかしフィリアは答えず、指南書の第二段階へと移行した。
彼女は無言のまま机の脇へ回り込み、レオンハルトの濃紺の上着の袖口を親指と人差し指でチョンと摘んだのである。
力加減を間違えたのか、グイグイと一定のリズムで袖を引っ張りながら、彼女は事前に暗記してきた甘やかな台詞を、まるで祝詞を奏上するかのような厳かな棒読みで口にした。
「陛下。今宵はお仕事をお休みになられて……私と甘い時間を過ごしては……いただけませんでしょうか……?」
「…………っ!?」
レオンハルトの心臓が、ドクンと激しく跳ね上がった。
至近距離に迫る愛しい婚約者の顔。
赤く染まった頬、上目遣いに見上げてくる澄んだ瞳。
そして、ふと視線を下げたレオンハルトの息が喉元で完全に凍りついた。
フィリアの普段は隙なく留められている濃紺の官服の襟元が、指一本分だけ控えめに開かれていたのだ。
夕暮れの薄暗がりの中、白く滑らかな鎖骨が露わになり、その中央で自分が贈ったトパーズの首飾りが妖艶な光を放っている。
(な……な、な、なんだこれは……!?)
レオンハルトの頭の中で、非常警報がけたたましく鳴り響いた。
破壊力があまりにも高すぎる。
求めていた。確かに彼女の方から自分を求めてほしいと、甘えてほしいと切望していたのは事実だ。
だが、日頃は「文字! 動詞! 接尾辞!」と叫びながら走り回っているあの生真面目な少女が、突如として宮廷の傾国の美女のような誘惑の仕草を仕掛けてきているのだ。
可愛らしさと不気味なほどのぎこちなさが同居したその光景に、レオンハルトの理性と感情は激しい混乱の渦へと叩き落とされていた。
「フィリア……そなた、一体どうしたのだ……?」
レオンハルトが掠れた声で問いかけると、フィリアは袖を引く手を止め、胸ポケットから小さな革表紙の手帳をサッと取り出した。
そして、羽ペンを取り出すと、レオンハルトの目の前で手帳に素早くチェックを入れ始めたのである。
「『三拍子の視線誘導:対象の動揺を確認、成功』……『袖口の牽引による接触:反応あり、良好』……よし、手順通りですね」
「おい……」
レオンハルトの黄金の瞳が、スッと細められる。
「あ、いけません。まだ次の段階が残っていました」
フィリアは何食わぬ顔で手帳を閉じ、再び首を傾げて上目遣いを作ろうとした。
「陛下、私のこの鎖骨の陰影はいかがでしょうか。指南書によれば、殿方の理性を揺るがす効果的な視覚刺激であると――」
「フィリア」
レオンハルトは大きな手で、フィリアの開かれた襟元をパタンと優しく合わせ、第一ボタンをカチリと留め直した。
そして、彼女の手から小さな手帳をそっと引き抜く。
「あ、私の実践記録が……!」
「その書物の題を聞こう」
低く、地を這うような重低音。
怒っているのではない。ただ、底知れぬ頭痛を堪えるような、深い嘆息の混ざった声音であった。
フィリアは背筋を正し、胸を張って答えた。
「はい! 『殿方を虜にする閨の手練手管 ~視線と吐息で紡ぐ至高の愛~』でございます! 将来の皇后として、陛下を正しくお喜ばせするための行動規範を、学術的に研究・実践してまいりました!」
レオンハルトは両手で顔を覆い、深々と天を仰いだ。
(閨の……手練手管。宮内府のどの阿呆が、この純真無垢な紙食い娘にそんなものを吹き込んだのだ……)
怒りを通り越して、脱力感が全身を襲う。
しかし同時に、胸の奥底から込み上げてくるのは、どうしようもない愛おしさだった。
彼女は自分を喜ばせようとしたのだ。
方法が致命的に頓珍漢で、研究資料のように真面目に実践してしまっただけで、その根底にあるのは、不器用なまでに純粋な自分への気遣いなのだ。
レオンハルトは手帳を机の上に置くと、フィリアの手を優しく取り、向かいの椅子へと座らせた。
奪い取った手帳や怪しい本を取り上げて処分するような無粋な真似はしなかった。
ただ、彼女の正面に腰を下ろし、その瞳を真っ直ぐに見つめる。
「フィリア」
「は、はい、陛下……あの、手順に何か不備がございましたでしょうか?」
不安そうに小首を傾げるフィリアに、レオンハルトは柔らかく首を横に振った。
「不備などではない。そなたが私を喜ばせようと、慣れぬ努力をしてくれたこと自体は、心から嬉しく思う」
「本当ですか……!?」
「ああ。だがな、フィリア」
レオンハルトの声が、静かで真摯な響きを帯びた。
「私は指南書に書かれた正しい仕草や、演出された甘言を受け取りたいわけではないのだ。将来の皇后としての義務だからと、自分を偽って私に奉仕してほしいわけでもない」
「義務……?」
「そうだ」
レオンハルトは、フィリアの華奢な手を自らの温かな両手で包み込む。
「私が知りたいのは手順ではない。他でもない、そなた自身が何を望んでいるのかだ。そなたは私といる時、何をしたい? 何を心地よいと感じ、どう過ごしたいと願うのだ?」
「私が……何を望むか……?」
フィリアの喉が小さく詰まった。
レオンハルトの黄金の瞳が、彼女の魂の奥底を覗き込むように見つめている。
――そなた自身は、何を望むのか。
ルベル王宮の地下室にいた頃、フィリアは自らの望みを持つことすら禁じられていた。
何を命じられ、何を求められているのか。
相手の機嫌を損ねぬためにはどう動くべきか――それだけを考えて生きてきた。
帝国へ来て研究という生きがいを得て、レオンハルトというかけがえのない伴侶を得た今も……彼女の心は無意識のうちに、「相手が求める正解」を探すことばかりに囚われていたのだ。
自分が彼とどうありたいのか。
義務でも感謝の対価でもなく、一人の人間として女として、彼の隣で何を願っているのか。
「私は……」
フィリアは唇を開きかけたが、言葉が続かなかった。
答えられない自分に胸が小さく痛む。
レオンハルトはそんなフィリアの戸惑いを責めることもなく、ただ包み込んだ手にそっと力を込め、優しく微笑んだ。
「今すぐ答えを出す必要はない。ゆっくり、二人で見つけていけばよいのだ」
「レオンハルト様……」
「その怪しい書物は、没収はせんが……もう実践しなくてよい。あのような奇怪な上目遣いをされずとも、そなたがただ笑って私の隣にいてくれるだけで、私は十分に満たされているのだからな」
からかうような、しかし至上の慈愛に満ちた皇帝の言葉に、フィリアの顔が今度こそ本物の羞恥で真っ赤に染め上がった。
「うう……っ! わ、分かりました……指南書の研究は直ちに中断いたします……!」
両手で顔を覆って小さくなるフィリアを見て、レオンハルトは声を立てて朗らかに笑った。
執務室を包む初夏の夜気の中に、ぎこちなくも温かな、二人の確かな絆が静かに溶け込んでいった。
◇
翌朝。
昨夜の恥ずかしさを吹き飛ばすように、フィリアは早朝から帝室図書院の比較室へと出勤していた。机の上には、昨夜レオンハルトから投げかけられた問いが、まだ心の片隅に温かい宿題として残っている。
(私が……本当に望むこと……)
思考を巡らせていると、比較室の扉が勢いよく開かれた。
飛び込んできたのは、物流史担当の専門官と歴史地理学士、そして青い長衣を翻したベルンハルトであった。
「フィリア顧問官! 歴史地理班と工務局の合同チームより、緊急の進捗報告です!」
「進捗報告……!? あの追跡可能な北東部ルートの調査ですか!?」
「はい!」
物流史担当官が、大判の帝国北部山岳図を作業台の上に勢いよく広げた。
「北東部の旧黒曜工廠区を発した輜重隊が最後に通過した『第三警備関所』から先の進路について、当時の軍用道路網と補給記録を徹底的に突き合わせました」
担当官は地図上の山脈を指先でなぞりながら、順を追って説明を始めた。
「まず、第三警備関所は黒曜山脈の東麓に位置しており、そこから先、大型の輜重荷車が通行可能であった古代の幹線舗装路は、地形上、山脈の懐へ向かう一本の古い軍用路に限られます。荷車の推定積載重量、当時の軍用宿営地台帳に残る水場の配置、そして家畜の飼料補給間隔から移動可能圏を割り出しました」
「平野部や沿岸部への移動は考えられないのですか?」
フィリアが尋ねると、歴史地理学士が首を横に振る。
「その方向へ通じる分岐路は、対応する日付の工務記録によれば、大規模な土砂崩れや防壁の閉鎖によって、少なくとも荷車の通行はできなかったと確認されました。関所の補給量から見ても、数週間におよぶ長距離行軍を行える規模ではありません。つまり、追加の補給記録や積み替えの痕跡が見つからない現段階では、関所から数日圏内の山岳内部を優先して調べるのが妥当です」
担当官の指先が、地図の北方に広がる、等高線が複雑に入り組んだ山脈深部の一角へと留まった。
「その範囲内に該当する拠点として浮上したのが、帝国北方。黒曜山脈の深部に広がる古代の巨大カルスト地形、『大洞窟群』の周辺地域なのです」
「黒曜山脈の……大洞窟群……」
フィリアは息を呑む。
「ただし、フィリア顧問官」
担当官は慎重に釘を刺した。
「これは当時の交通路と補給限界から導き出した、現時点で最も有力な調査候補地という段階に過ぎません。実際に大洞窟群の中に施設が現存しているのか、そして運ばれた物資の中に帝都が直面している中枢機構の設計原典が含まれているのかどうかは、現地を調査してみなければ分からないのです」
「ええ、分かっています。ですが、茫漠とした歴史の闇の中で、具体的な探索の足がかりが一つ見出せただけでも途方もない進展です」
フィリアは地図を見つめ、決意を込めて頷いた。
アグラヴィス石碑に暫定判読された『王の目の届かぬ地』という言葉。そして、北東部工廠から運び出された技術記録の痕跡。
失われた古代の真実を追う視線は、漆黒の山脈の奥深くに口を開ける、未知の巨大洞窟群へと真っ直ぐに結ばれようとしていた。




