王の目が届かぬ地
帝都オイレンベルクの北方に連なる黒曜山脈は、初夏の澄み渡る青空を背景にしてもなお、人を寄せ付けぬ峻厳な漆黒の岩肌を露わにしていた。
帝宮黒曜宮の北翼、工務局と図書院の合同会議室の長机には、四人がかりで運ばれた巨大な『帝国北方総合地質・古地形図』が広げられていた。
机の周囲にはフィリアとベルンハルトに加え、工務局のヴァルター技師長、帝国地質調査監、そして帝国軍の測量部隊から派遣された古参の測量士が顔を突き合わせている。
「物流史班が割り出した、第三警備関所からの推定移動半径は約三十里。荷車の運行限界、当時の給水地点の配置、そして荷車が通行可能な古代舗装路の痕跡を重ねると、候補地はこの等高線が密集した一帯『黒曜山脈・大洞窟群』の周辺が、現時点における最も有力な候補地として浮上してきます」
測量士が青インクの細い線で古地図の上に大まかな円を描いた。
その範囲内には無数の等高線が複雑に入り組み、地下空洞の存在を示す点線が網の目のように刻まれた、人の立ち入りを拒む険阻な山岳地帯が含まれている。
「大洞窟群周辺か……天然の石灰岩層が数万年かけて侵食された、大陸屈指の巨大カルスト地形だな」
腕を組み、顎髭を撫でながら唸ったのは、地質調査監だった。
「地表からはただの岩山にしか見えんが、地下には幾重もの鍾乳洞や地下水脈が複雑に走っている。もし古代の人間が中央の検閲や戦火を避け、空や地上からの視界を遮断して何らかの拠点を置こうとしたのだとすれば。地形の隠蔽性という観点からは確かに有力な候補地になり得る」
「アグラヴィスの石碑に暫定判読された『王の視線より外へ』、そして伝票の特殊記号『ハル・シャダ・アルカス』……」
フィリアは手元の照合手帳を見つめる。
「地中深くに開口する洞窟の奥であれば、比喩としても物理的にも『王の目の届かぬ地』という表現と整合します。しかし、ヴァルター技師長。この地域について工務局にはどのような記録が残されているのですか?」
問いかけられたヴァルターは、眉間に深い苦渋の皺を刻み、机の端に置かれた赤革の分厚いファイルをドンと叩いた。
「あるにはある。だが、探索を歓迎できるような生易しい記録じゃねえぞ。これを見ろ」
ヴァルターが開いたのは、約六十年前、先々代皇帝の時代に作成された『北方黒曜山脈地下空洞予備探査報告書』の原本であった。
表紙には、朱色の塗料で大きく『調査断念・立ち入り禁止区域指定』の公印が捺されている。
「六十年前、帝国が調査を断念した記録ですか?」
「ああ。当時、新たな鉱脈と治水流路の開拓を目指して、帝国工務局と近衛工兵隊が合同で大洞窟群の内部へ足を踏み入れた。だが、結果は手酷いものだった。第一に、極めて脆い脆性岩盤による予期せぬ落盤の頻発。第二に、雨水や雪解け水によって水位が数時間で急上昇する、予測不能の地下水脈。そして第三に――」
ヴァルターは手袋をはめた指先で、報告書の末尾に記された赤字の警告を指し示す。
「暗がりを棲み処とする地底魔獣の存在だ。硬質外殻を持つ甲殻蜥蜴や、音と魔力に反応して天井から奇襲を仕掛けてくる夜行性の蝙蝠型魔獣が確認されている。当時の調査隊は先発隊の三割が負傷し、岩盤崩落の危険から前進を阻まれ、わずか十日で全面撤退を余儀なくされた」
「先発隊の三割が負傷……」
ベルンハルトが息を呑み、厳しい表情で報告書の数字を見つめる。
「工兵隊の護衛と当時の技術をもってしても、それほどの被害が出たのですね」
「そうだ。それ以来、あの洞窟群の深部は『公認の危険地帯』として厳重に封鎖され、現在に至るまで民間の立ち入りも一切禁じられている」
ヴァルターは重々しく首を横に振った。
しかし、フィリアの視線はその過酷な被害目録の先、撤退間際に先発隊の斥候が書き残していた観察記録の数行に留まった。
「……待ってください、ヴァルター技師長。この第七頁の記述……」
「ん? 何だ?」
フィリアは白銀の特注ルーペを取り出し、手書き文字の走り書きを慎重に追う。
「『……地下第四層、大規模空洞の北西壁面において、自然の浸食とは異なる整然と切り出された巨石の石積み、および金属補強らしきものを遠望。しかし落盤の危険により、それ以上の接近・詳細確認は断念す』……とあります」
会議室の空気がかすかに揺れた。
「人工の石積みを遠望したという記録か……」
「はい。そして、今回の合同会議に先立ち、図書院の地理班が第三期の古地図の表記を再確認したところ、この洞窟群の周辺とおぼしき位置に、『北天第四記録蔵』という抹消線が引かれた古代文字の施設記号が見出されています」
「北天第四記録蔵……!」
ベルンハルトが手帳のメモを見開く。
「もちろん、古地図の記号が正確にどの年代のものを指し、どの座標に対応しているのかは未確定です。六十年前の斥候が見た石積みらしきものが本当に古代の施設なのか、そして今も現存しているのかどうかも、この記述だけでは分かりません。ですが、輜重隊の経路から絞った候補地域に、この目撃地点と古地図の記号が重なる以上、調べる価値はあります。碑文の『王の目の届かぬ地』という仮説とも矛盾しませんが、それだけで同じ移送先と決めることはできません」
フィリアの胸の内に、確かな学術的熱気が湧き上がった。
帝都の基幹インフラを支える古代中枢機構の謎、その解明の糸口になるかもしれない記録が、あの暗い岩山の奥底に眠っている可能性がある。
確かめる価値のある極めて有力な手掛かりが揃ったのだ。
(現地へ行って、残された文字の有無を確かめたい……!)
「フィリア様?」
ベルンハルトが怪訝そうに声をかけた時、フィリアは手帳を抱えて勢いよく立ち上がっていた。
「皆様、貴重な記録の照合をありがとうございます! 私、皇帝陛下へ調査の必要性を直接ご報告してまいります!」
「おい、フィリア顧問官!? まだ議論の途中だぞ!」
ヴァルターの呼び止める声を背に、フィリアは廊下へと足早に駆け出していった。
◇
黒曜宮の中央翼、皇帝執務室。
昼下がりの陽光が差し込む広大な部屋で、レオンハルトは軍務尚書から提出された北方防備の補強案に、朱インクのペンで決裁の署名を走らせていた。
扉が勢いよく開かれ、入ってきたのは肩で息をするフィリアだった。
近衛兵が「顧問官殿、お待ちを!」と慌てて追いつくのを、レオンハルトは手で制する。
「フィリア? 息を切らして、どうしたのだ」
フィリアは机の前へ進み出ると、抱えていた手帳を両手で握りしめ、熱を込めて告げた。
「皇帝陛下! 第三期の物資移送ルートの照合により、有力な目的地候補が浮上いたしました! 北方、黒曜山脈の大洞窟群周辺です。過去の記録にも地下深部で人工遺構とおぼしき石積みの目撃例がございます。私、一刻も早く現地へ向かい実物を確認したいのです。調査の準備が整うまで待ってはいられません!」
室内に張り詰めた沈黙が落ちた。
レオンハルトは朱インクのペンを机に置き、その黄金の瞳がフィリアの切迫した表情を射抜くように捉える。
「待たんか!」
低く、地を震わせるような一喝が執務室に響き渡った。
フィリアは肩をビクッと跳ねさせ、思わず言葉を呑み込んだ。
今まで一度も向けられたことのない、最高統治者としての峻厳な声。その重みに浮き足立っていた思考が一瞬で押し戻される。
レオンハルトは立ち上がり、机越しにフィリアを見据えた。
その声音は怒鳴り散らすような荒々しいものではなく、感情を極限まで押し殺した、冷徹な静けさを帯びている。
「フィリア。そなたは今、何と言った」
「あ……大洞窟群の周辺に、重要な施設の手掛かりがあると判明いたしましたので、現地へ赴いて確認を……」
「正式な安全審査も、調査団の組織的な編成も経ぬまま、思いつきのように即時の出発を願い出るなど、承認できるはずがあるまい」
レオンハルトは机から離れ、大股でフィリアの前へと歩み寄る。その視線には統治者としての厳しい理知と、そして隠しきれない強い懸念が宿っていた。
「黒曜山脈の大洞窟群。六十年前の帝国軍の探査記録を読んだのか? 脆い岩盤による落盤の頻発、急激な増水を起こす未知の地下水脈、そして地底魔獣の生息地だ。先発隊の三割が負傷し、工兵隊をもってしても撤退を余儀なくされた極めて危険な封鎖地帯だぞ」
「そ、その報告書は拝見いたしました……ですが文字が残されているかもしれない以上、解読できる専門家が現場にいなければ確認が」
「文字を解読できることと、洞窟内で安全に行動できることは全くの別問題だ」
レオンハルトはフィリアの言葉を、静かに、しかし断固として退ける。
「解読能力だけで現場へ向かって何ができる。岩盤の崩落兆候を誰が見極めるのだ? 地下水の急激な増水時に誰が退避路を確保する? 暗がりから魔獣に襲われた際、誰がそなたを守るのだ? 地質、工学、護衛、医療。各分野の専門家が揃い、相互の連携が取れていなければ、調査以前に生きて戻ることすら叶わん」
筋の通った反駁に、フィリアの喉が詰まった。
レオンハルトは一瞬、苦しげに言葉を切り、視線をわずかに揺らす。皇帝としての威厳の奥から、一人の男としての切実な感情が低く漏れ出た。
「……そなたを失うわけにはいかんのだ」
その呟きに含まれた痛みに、フィリアの胸が強く締め付けられた。
「そなたの知性は帝国の未来を守るための至宝だ。そして他でもない私の婚約者だ。危険の全容も把握せぬまま無防備に飛び出し、万が一の事態に陥るような真似を私が許すと本気で思ったのか」
フィリアの全身から熱が急速に引いていった。
恐怖で従わされたのではない。
レオンハルトの言葉のすべてが、統治者として、そして伴侶として、あまりにも正当であったからだ。
(私……また、一人で何とかしなければと思い込んでいた……)
ルベル王宮の地下室にいた頃の癖だった。
誰も守ってくれず、誰も安全など配慮してくれなかった日陰者の時代、資料を調べるためには暗がりへ一人で潜り込み、危険も一人で引き受けるしかなかった。
しかし、今の自分は孤独な日陰者ではない。
専門家たちがそれぞれの知識を持ち寄り、何より目の前の皇帝が、自らの命を何よりも重く案じてくれている。
現場の危険性をすでに専門家たちが警告していたにもかかわらず、手掛かりの発見に興奮し、一人で先走ってしまった己の浅慮が急激に恥ずかしく思えた。
「……申し訳ございません、陛下」
フィリアは手帳を胸元へ引き寄せ、自発的に深く頭を下げる。
「私の軽率な思い上がりでした。現場の危険性も専門の皆様の役割も顧みず……何より、レオンハルト様のお立場と、私を案じてくださるお心を踏みにじるような言動をしてしまいました」
震える声で非を認めるフィリアをレオンハルトは静かに見つめた。その黄金の瞳から険しさが引いていき、穏やかな理知が戻っていく。
「分かればよい……」
レオンハルトは短く息を吐き、静かに告げる。
「私はそなたの研究目的そのものを否定したわけではない。第三期の技術資料を探索することが、帝国の基幹設備を長期に維持・更新する方策を検討する上で極めて重大であることは承知している」
「はい……」
「だが、調査を行うのであれば相応の備えを固めよ。地質、地下水、魔獣、通信、医療、救助。あらゆる危険要素を担当部署が厳密に評価し、許容できないリスクがあれば即座に中止・退避する、段階的な調査計画を立てろ。初回から全区域への進入を許可することはない。安全に確認できる範囲を段階的に定め、当日の再評価と明確な撤退権限を定めた正式な計画書が提出され、専門部署の審査を通った時。その時初めて、私は現地調査を正式に承認する」
「段階的な安全計画書……」
「そうだ。そなたは調査の目的と解読上の必要条件をまとめ、工務局、魔導院、軍の専門家たちと共同で作成せよ。……できるな、フィリア顧問官」
厳しい、しかし確かな道筋を示されたフィリアは、顔を上げ、迷いなく頷いた。
「はい、皇帝陛下。専門の皆様と協働し未確認の事項も明示し、前進と中止の条件が曖昧にならぬ調査計画を作成いたします」
◇
執務室を辞したフィリアは、すぐさま工務局の合同会議室へと戻った。先刻の無謀な高揚感は消え去り、その瞳には冷静な覚悟が宿っていた。
「皆様、先刻は大変失礼いたしました」
会議室に入ったフィリアは、席にいた全員に向けて深々と一礼する。
「皇帝陛下より現地調査の申請にあたり、厳格な安全基準と撤退基準を定めた段階的な調査計画書の策定を命じられました。私の独断による先走りを深く反省しております。どうか、皆様のお力を貸してください」
頭を下げるフィリアを見て、ヴァルターは老眼鏡を押し上げ、苦笑混じりに息を吐く。
「ハッ、陛下に釘を刺されたな。だが、それでいい。頭が冷えたなら腰を据えて危険を潰していくぞ」
「はい!」
地質調査監が再び洞窟群の断面図を引き寄せた。
「さて、先ほど言った通り、大洞窟群の主洞門は脆性岩盤と地下水脈が直撃する最悪の経路だ。正面から突入するのは論外だが、予備的な踏査候補として検討できるルートが一つある」
調査監の指先が主洞門から尾根を隔てた山腹の一角を示した。
「かつて古代の採石場として利用されていたとされる、古い人工坑道だ。周辺の母岩は比較的安定した玄武岩層を貫いており、主洞門の崩落危険地帯を迂回できる可能性がある」
「その坑道を使えば深部へ進めるのですか?」
フィリアが尋ねると、調査監は慎重に首を横に振った。
「過去の測量記録によれば、この坑道は地下第三層の補強区画周辺へと接続している可能性が示唆されている。だが、六十年前の斥候が石積みらしきものを目撃したのは、さらに下の『地下第四層の北西壁面』だ」
「第三層と第四層……」
「そうだ。第三層から第四層の目撃地点へ通じる連絡路が残っているのか、途中で崩落していないか、地下水が流入していないかは、現時点では完全に未測量・未確認だ。この坑道自体、現在も通行可能かどうかすら現地で地脈探査を行ってみるまでは分からん」
「安全の確約ではなく、あくまで予備踏査の候補路ということですね」
「その通りだ。だからこそ、現場での地脈測定、魔獣対策の護衛布陣、天候変化による増水時の即時撤退基準。あらゆる残余リスクを洗い出し、条件を一つずつ文書化する必要がある」
「承知いたしました」
フィリアは手帳を開き、羽ペンを走らせ始めた。自分は調査の目的と現場で何を解読・確認すべきかの要件をまとめる。
そして岩盤補強の手順は地質班が、構造物の安全確認は工学班が、護衛と退避路の確保は警備班が担当する。
絶対の安全など存在しない未知の深淵へ挑むからこそ、万全の知恵と規律を尽くす。
大部な計画書を作成するための、真摯な共同作業が始まろうとしていた。




