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王の命令は二通りに読める

 帝都オイレンベルクの朝は、青磁色の空から降り注ぐ涼やかな初夏の陽光とともに明けた。

 帝室図書院の地階、特殊史料比較室の長机の上には、昨夕持ち込まれた『旧アグラヴィス研究施設跡』の石碑拓本が、四隅を平滑な真鍮の文鎮で押さえられて広げられている。


「ベルンハルトさん、辞書編纂班から借りてきた『第三期古語動詞語根集』の第三巻、開いていただけますか」


「はい、こちらです。該当する動詞の用例箇所ですね」


 助手のベルンハルトが、手際よく分厚い革表紙の手書き辞典を開いて机の端へ置いた。

 フィリア・ルベルは、胸元に揺れるヘーゼル・トパーズの首飾りが机の角に触れないよう左手でそっと押さえながら、右手に構えた白銀の特注ルーペで拓本の墨痕を凝視していた。

 昨日レオンハルトから贈られたその首飾りは、肌になじむ心地よい重みを持っており、触れるたびに胸の奥を温かく落ち着かせてくれる。


 問題の石碑拓本は、帝都西方にある建国以前の研究施設跡から前世紀に採取されたものだ。当時の目録担当者が書き残した『従来の暫定訳』はこうである。


『……争乱の極まりし日、至高の王の命が下りぬ。

 一切の智慧、技術の全記録は、この地において悉く処分され、灰燼へと帰せしめられたり――』


「一見すると、確かに王命による技術資料の完全破棄、いわゆる処分命令の布告に見えます」


 フィリアはルーペをわずかに傾け、レンズの標準尺で文字の刻線を確認しながら冷静に口を開く。


「当時の記録官がそう訳したのも無理はありません。第四行の中央にある動詞『ハル・シャダ』は、古代の第一王朝や第二王朝の公用文においては、確かに『焼却する』あるいは『灰燼に帰す』という強い破棄の意味で使われる定型句ですから」


「ええ。第三期以前の技術資料が帝室図書院の台帳から激減している現状とも合致するため、図書院でも長年、何の疑いもなくその暫定訳が受け入れられてきました」


「ですが……」


 フィリアは羽ペンを取り、羊皮紙のノートに該当する古代帝国文字の綴りを慎重に書き写した。


「この『ハル・シャダ』という語は、第三期初頭の地方行政文書や古い技術覚書においては、後世とは異なる語義を持つ語として使われていた形跡があります。……接頭辞の『ハル』は『完全に』という強調のほかに、『~の外へ』という空間的な離脱を示す前置辞としても機能します。そして語根の『シャダ』は、古い語義では『覆い隠す』あるいは『遠ざける』。つまり、文章全体の統語構造を古い用法に照らし合わせると、この動詞は『破棄した』ではなく『この場所から外へ運び出した』『遠くへ移送した』と解釈することが文法上十分に可能です」


 ベルンハルトが息を呑み、眼鏡の奥の目を大きく見開いた。


「破棄ではなく外への搬出、移送の可能性ですか!?」

「ええ。さらに、その直前にある場所を示す格助詞の綴りを見てください」


 フィリアはルーペの先端で、拓本の小さな屈折記号を指し示した。


「従来の訳では、この助詞を『~において』という場所の限定(処格)と解釈し、『この地において処分した』と読まれていました。しかし、この屈折の角度と直前の名詞の語尾変化は、処格ではなく奪格――すなわち『~より』あるいは『~の外側へ』を示している可能性が高いのです」


 フィリアは息を整え、手元の羊皮紙に文法的な検証から導き出される新たな仮訳を慎重に書き下ろす。


『……争乱の極まりし日、至高の王の命が下りぬ。

 一切の智慧、技術の全記録は、この地より外へ遠ざけられ運び出されたり――』


「処分したのではなく……記録をこの施設から外へ搬出したという読み……!」


「はい。これが文法的に無理のない第一段階の再解釈です」


 フィリアは手帳の余白を指先でトントンと叩きながら、さらに言葉を継いだ。


「そして、もう一点。この碑文の末尾には、風化と摩耗により極めて判読が困難な注記のような短い一節が続いています。……拡大鏡と斜光で慎重に追うと、『王の視線』あるいは『視界』に相当する名詞句に、否定の接尾辞が付随しているようにも見えます。まだ線の輪郭が崩れており暫定的な判読の域を出ませんが、もしこの読みが正しく、同時代の別用例に見られる比喩表現が適用されるなら、『王の目の届かぬ地へ』という目的地の隠語的ニュアンスが重ねられていたのではないか、という追加仮説も成り立ちます。もちろん、これも他の史料と照合して検証しなければ断定はできません」


「王の目の届かぬ地……」


 ベルンハルトが息を詰めてその言葉を繰り返す。


「ですが、フィリア様。碑文の冒頭には『至高の王の命が下りぬ』とあります。王の命令によって記録を安全な場所へ移送させたのか、それとも王から記録を守るために現場が持ち出したのか、どちらなのでしょう」


「それこそがこの碑文単独では断定できない点です」


 フィリアは真剣な眼差しで首を横に振った。


「碑文に書かれている『王』が、中央の正統な君主なのか、地方を占領していた軍事指導者なのか、あるいは敵対勢力の首領なのかすら現段階では不明です。王命に従って組織的に疎開させたのか、それとも王命を口実にして別の意図で動かしたのか、解釈は幾通りにも分かれます。一つの碑文の読みが変わったからといって、歴史の全体像を即断してはなりません」


「なるほど……拓本の文法解析だけでは、まだ『外へ運び出された可能性がある』という仮説の域を出ないのですね」


「ええ。ですから、当時の物資移送伝票や受領書といった、実際の物流を裏づける独立した別史料を探し、同じ語彙や記号が使われていたかを確かめる必要があります」


 フィリアは羽ペンを置き、冷涼な室内で静かに息を整えた。

 新たな可能性の扉は開いた。しかしそれを事実として積み上げるためには、客観的な証拠がまだ足りていなかった。


   ◇


 一方、その頃。

 黒曜宮の中央翼、豪奢な絨毯が敷かれた皇帝執務室では、レオンハルトが執務机の前で厳重に施錠された二つの平たい木箱を前にしていた。


「ハルトヴィヒ。保存担当による事前検分は済んでいるな」


 低く落ち着いた問いかけに、控えていた帝室総務長官ハルトヴィヒが恭しく一歩進み出る。


「はっ。帝室特別収蔵庫の専任保存技師が立ち会い、資料の状態確認と安定化処置を完了しております。三百年余り未開封であったため極めて脆弱ではございますが、密閉された不活性ガス封入の保護ケースに収めており、直接手を触れずに視認できる状態でございます」


 木箱の蓋を開けると、透明な特殊保護硝子の奥に、特有の古い羊皮紙の質感を保った二点の原本が静かに収まっていた。

 一点は、西方旧領の関所にて保管されていた第三期の『官給通行手形』原本。

 もう一点は、帝国北東部・旧黒曜工廠区の保管庫に伝来していた第三期の『搬出物資受領伝票』原本。

 いずれも帝室の最深部に秘蔵されていた、門外不出の貴重な一次史料だった。


「うむ。手落ちのない扱いで何よりだ」


 レオンハルトは小さく頷く。その瞳には、ある綿密な配慮を巡らせている男特有のかすかな光が宿っていた。


 昨日の首飾りの一件を、レオンハルトは思い返していた。

 最後には心から喜んでくれた。

 しかし、贈り物を受け取ってもらうことと、二人で穏やかに過ごす時間を得ることは別の話だった。

 フィリアという女性が知性を躍動させ歓喜に瞳を輝かせる対象は、他でもない「歴史の真実を解き明かす未解読の文字」なのだ。


(彼女の研究に真に必要な資料を用意する。ここまではよい……)


 だが、単に資料を図書院へ送り届けるだけでは、彼女は「徹夜で照合します!」と笑顔で地下深くに引きこもり、自分はまた一人取り残されてしまう。

 そこでレオンハルトは考えた。


(この資料は帝室の秘蔵原本であり、移動には厳格な保安手続きを要する。正式な複写作業の準備が整うまでの間、一時的な閲覧場所としてこの執務室の専用台を使わせるのだ)


 執務室の窓辺には、日当たりが良く、資料を痛めない遮光カーテンを備えた広々とした作業机がある。自分が机の向かいで政務を執りながら、疲れた彼女に茶を勧め、文字について言葉を交わす。

 彼女の研究を何ひとつ妨げることなく公務の責任を果たしながら、婚約者との穏やかな時間を共有できるはずだ。


 我ながら道理に適った、申し分のない案であった。


「ハルトヴィヒ。フィリア顧問官をこれへ呼べ。『調査班が求めていた同時代の物資移送記録に関し、至急の閲覧を許可する』とな」

「かしこまりました、陛下」


 ハルトヴィヒは深々と一礼し、静かに退室していった。


   ◇


 数分後。小気味よいノックの音とともに、執務室の扉が開かれた。


「陛下! 第三期の移送に関する原本が確認できると伺いました!」


 入ってきたフィリアは、まさに飛ぶような足取りであった。

 首元には、昨日レオンハルトが贈ったヘーゼル・トパーズの首飾りが綺麗に収まっている。その姿を見ただけで、レオンハルトの胸の奥に微かな安堵が広がる。


「うむ。よく来た、フィリア」


 レオンハルトは威厳を保ちながら、机の上の二つの保護ケースを示す。


「帝室特別収蔵庫に秘蔵されていた、第三期の関所手形と搬出伝票の原本二点だ。保存技師による状態確認と保護処置は済ませてある。アグラヴィスの碑文の再解釈を進める上で、同時代の物流記録が必要だと聞いてな。そなたの研究の助けになればと思い、手配させた」


「関所手形と搬出伝票……! それも保護ケースに入った原本!?」


 フィリアのヘーゼル色の瞳が、驚きに見開かれた。

 彼女は駆け寄り、ケース越しに羊皮紙の表面を息を呑んで見つめる。


「こ、これは! 第三期の軍用印章が朱肉の成分を保ったまま鮮明に残っています! 陛下、これほど奇跡的な保存状態の記録を、すぐに閲覧できるよう手配してくださるなんて……!」


「うむ。喜んでくれたなら何よりだ」


 頬を上気させ、心底から感激しているフィリアを見て、レオンハルトの口元が優しく緩む。

 作戦は完全に図に当たっている。

 レオンハルトは咳払いを一つし、用意していた提案を切り出した。


「原本の保全と移送には厳格な手続きが必要ゆえ、図書院への正式な高精細複写の手配は現在宮内府に進めさせている。それまでの間、この執務室の窓辺の机で一次検分を行うがよい。あちらに専用の閲覧台を用意させた。私の執務中、ここでゆっくりと二人で――」


「陛下!」


 レオンハルトの言葉を遮り、フィリアが弾かれたように顔を上げた。

 その瞳は先ほどまでの感動を超え、凄まじい学術的熱気によって燃え盛っている。


「これを見てください! この北東部・旧黒曜工廠区の搬出伝票原本、荷受欄の分類記号の箇所です!」

「……なに?」

「記号の並び『外縁離脱』を示す特殊な前置ルーンと、アグラヴィスの石碑に見られたあの奪格の屈折記号と共通する特徴を持った複合記号が刻印されています!」


 フィリアは保護ケースの硝子越しに、特注ルーペを構えて文字の並びを食い入るように見つめる。


「手元の控え用紙に書式を写します! 見てください。古代帝国文字の複合記号『ハル・シャダ・アルカス』。石碑の動詞と同系統の語根を用いた記号が、伝票の分類欄に使われています! 石碑に刻まれた『外へ遠ざける』という表現と同系統の語彙が、当時の行政資料にも実際に現れているのです。これが具体的にどのような用途で運用されていたのかはまだ慎重に検証する必要がありますが、少なくとも石碑特有の装飾的表現ではなく、実際の行政文書にも同系統の表現が存在していた有力な傍証になります!」


 早口で捲し立てるフィリアの手は猛烈な速度でメモを走らせていた。


「そして、もう一点の西方関所手形原本! こちらには、輜重隊が経由した関所の検問記録が残されています! この二つを別々の経路資料と突き合わせれば、記号の使われ方や当時の物資の動線を調べる貴重な手がかりになります。図書院の比較室にある年代対照表と大至急照合しなければなりません!」


「あ、いや……フィリア、待て。私が言っているのは、この部屋で――」


「陛下、原本の移動は禁物ですので、図書院の記録班と保存技師を大至急これへお呼び出ししてもよろしいでしょうか!? ケース越しに非接触の高精細光学撮影を行わせ、正確な写しを作成させます! そしてその写しを比較室へ持ち帰り、今日中に語彙の照合作業を進めますね! 一刻の猶予もございません!」


「待たんか、フィリア――」


「ベルンハルトさんに光学記録班の手配をお願いしてまいります! ものすごい新資料です!」


 フィリアは踵を返すと、風のように執務室の扉を開け放ち、廊下の彼方へと駆け出していった。

 パタパタと軽快な足音が遠ざかり、開け放たれた扉から吹き込んできた初夏の風が、机の上の書類をサラサラと揺らす。


 静寂。

 完璧な静寂が皇帝執務室を包み込む。

 レオンハルトは差し出しかけた右手を空中に漂わせたまま、数秒間、完全に静止していた。


 机の上には、静かに置かれた二つの保護ケース。

 窓辺には、彼がフィリアのために座り心地を確かめ、配置させた柔らかいクッション付きの椅子がぽつんと虚しく陽光を浴びている。

 レオンハルトはゆっくりと腕を下ろし、天を仰ぐ。

 彼女を喜ばせ二人きりの穏やかな時間を作ろうと、帝室の秘蔵原本を手配した。

 その結果、彼女は歓喜の絶頂に達し――そして、その記録の写しを求めて一目散に研究室へと駆け戻っていった。


(私は、自分で自分の首を絞めたのか……?)


 極上の資料を用意すれば彼女は喜んで留まると思った。だが、その資料が極上すぎたせいで、彼女の学者としての炎に油を注ぎ、全速力で現場へ走らせてしまったのだ。

 背後で控え室の影からそっと様子を窺っていたハルトヴィヒが、何とも言えない痛ましい眼差しを向けている気配がした。


「ハルトヴィヒ」

「は、はっ。陛下……」

「……何も言うな」

「御意に……」


 レオンハルトは深く、深くため息を吐き出すと、力なく執務椅子の肘掛けに身を沈めたのだった。


   ◇


 同日、午後遅く。

 帝室図書院の特殊史料比較室では、非接触撮影によって作成された高精細な写しを囲み、分析が進められていた。

 作業台の上には、レオンハルトが手配した二点の原本の写しが広げられている。

 フィリアとベルンハルトは、息を詰めて文字を追っていた。


「……驚きました、フィリア様」


 ベルンハルトが手元の対照表を指で叩く。


「アグラヴィスの石碑に見られた『ハル・シャダ』と同系統の複合語記号が、北東部・旧黒曜工廠区の搬出伝票にも記されていたとは。石碑の動詞を『外への搬出・移送』と捉えるフィリア様の再解釈と整合する、別種の行政資料による確かな傍証が得られましたね」


「ええ。ですが、まだ浮き足立ってはいけません」


 フィリアは特注ルーペを置き、手帳に慎重に事実を整理する。


「石碑の表現と同系統の語根や記号が、遠く離れた北東部の伝票にも確認されたという一致は見出せましたが、この記号が具体的に何を意味し、どのような用途で運用されていたのかは、まだこれからの検証課題です。ましてや、これらが『まったく同一の時期』に『同一の広域移送作戦』のもとで実行されたのかどうかまでは、現時点では断定できません」


「確かに……別々の時期に、同じ法令書式に従って個別に移送された可能性もありますね」


「その通りです。また、手形に残された経由地の記録を追っても、最終的な荷受地を示す箇所は厳重に伏せられています。これらがどこへ向かい、何が運ばれたのか。その全容を明らかにするには、さらに当時の物流路や地理的な記録を検証する必要があります」


 西方の石碑と北東部の伝票。

 遠く離れた二つの記録が示した共通の記号は、失われた古代の「心臓」へと続く、かすかな、しかし確かな一本の轍であった。



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