宝飾品と防衛費
帝都オイレンベルクを渡る風は初夏の爽やかさを帯び、黒曜宮の列柱回廊には、朝の清澄な光が白銀の帯となって差し込んでいた。
皇帝レオンハルトの迅速な勅命により、帝国工務局、宮廷魔導院、そして帝室図書院による『古代中枢機構および基幹インフラ合同調査委員会』が正式に発足してから、十日余りが経過していた。
宮殿北翼の合同執務室では、連日、各分野の専門家たちによる緊迫した協議が続いていた。
分担は明確であった。
ヴァルター技師長率いる工務局と魔導院の工学班は、帝都の三施設――アウグスタ大水門、深層変圧所、防護結界炉において、稼働を一切止めることのない非破壊魔導探査を開始していた。外殻を透過する微弱な探査波を用い、中枢核の表面状態や魔力偏向の現状値を慎重に計測している。同時に、地下備蓄庫に保管されている予備中枢核の健全性評価と、万一に備えた現代魔導工学による代替機構の長期的な設計試作計画が、正式な国家予算のもとで動き出していた。
そして、フィリア・ルベルが率いる帝室図書院の古文書研究班に課せられたのは、第三期における「技術資料の行方」を歴史の闇から掘り起こすことであった。
「フィリア様、西方および南方の旧直轄領から送致された、第三期の地方行政綴り十二箱の搬入が完了いたしました。いずれも保存担当による燻蒸と修復処置を終え、閲覧台での照合が可能です」
「ありがとうございます、ベルンハルトさん」
特殊史料比較室の長机で、フィリアは丁寧に目録へ受領印を押した。
青銅板に刻まれていた『戦時特例第十二条』と『基幹技術台帳の供出命令』。あれが帝国内のどの管区で、どのような規模で発令されたのかを特定するため、研究班は各地に残る微細な木簡、破れた羊皮紙、陶片の走り書きに至るまで、同時代の物流伝票と徴発記録を徹底的に突き合わせていた。
朝から昼過ぎまで、文字の照合は途切れることなく続いた。
フィリアは、レオンハルトから贈られた特注ルーペを左手に添え、右手の羽ペンで年代ごとの用語変遷表を埋めていく。
「……やはり、第三期の半ばから、特定の物資や記録を運ぶ隊列に対して『特殊護送符』が発行されている形跡がありますね。通常の商業輸送とは明らかに書式が異なり、軍の輜重隊が関与しています」
「ええ。ですが、荷受け地を示す箇所がことごとく記号化されており、具体的な地名が伏せられています。軍事機密としての秘匿措置でしょう」
ベルンハルトが腕を組んで唸る。
謎は一筋縄ではいかない。しかし、無秩序に散逸したと思われていた記録の背後に、確かに何者かの意図的な管理の痕跡が存在することだけは、少しずつ輪郭を現しつつあった。
「フィリア顧問官、少しよろしいでしょうか」
比較室の扉が開き、宮内府の侍従が丁寧な一礼とともに姿を見せた。
「皇帝陛下より、合同調査に関する週次進捗の直接奏上を求められております。政務の合間にお時間を取られておりますので、本庁舎の小謁見室へお越しいただけますでしょうか」
「あ……はい、承知いたしました。すぐに参ります」
フィリアは羽ペンを置き、手早く中間報告の要点をまとめた羊皮紙を書類挟みに収めた。
ベルンハルトが机の上の資料を片付けながら、控えめに声をかける。
「フィリア様、髪に少し紙の埃がついておられますよ。鏡台で整えてから向かわれた方がよろしいかと」
「あら、本当? 教えてくださって助かりました」
手鏡を覗き、軽く銀のピンの位置を直す。
皇帝への報告は公務である。だが、彼に対面すると思うだけで胸の奥が小さく跳ねるのは、顧問官としてではなく、一人の女性としての素直な反応であった。
◇
黒曜宮の中央翼、緑の庭園に面した『小謁見室』。
大広間のような威圧的な玉座はなく、柔らかな陽光が注ぐ窓辺に上質な革張りの肘掛け椅子と黒檀の円卓が置かれた、私的な会談に用いられる静かな部屋であった。
卓の向こうには、軍務用の黒い上着を脱ぎ、濃紺の上質なシャツ姿のレオンハルトが座っていた。
卓上には決裁を終えた公文書の束が端に積まれ、彼の手元には湯気を立てる紅茶のカップが置かれている。フィリアの席にも給仕が用意した一杯が待っていた。
「皇帝陛下、フィリア顧問官が参内いたしました」
「うむ。入れ」
侍従が音もなく扉を閉ざすと部屋には二人だけの静けさが満ちる。
レオンハルトは視線を上げ、部屋に入ってきたフィリアの姿を黄金の瞳に映した。その峻厳な面持ちがわずかに和らぐ。
「フィリア。座るがよい」
「恐れ入ります、陛下」
フィリアは礼をとって円卓の向かいの椅子へ腰を下ろし、抱えていた書類挟みを広げようとした。
「合同調査班の発足から十日間の進捗をまとめました。工務局による三施設の非破壊検査では、現在までのところ――」
「待て、フィリア」
レオンハルトは低く、穏やかな声で彼女の報告を制する。
フィリアが目を丸くして顔を上げると、レオンハルトは苦笑に近い微かな笑みを口元に浮かべていた。
「公務の報告は後でじっくり聞く。まずはその固い表情を解け。……茶を一口飲め。そなたの好みに合わせて、香りの強い南方の茶葉を淹れさせてある」
「あ……ありがとうございます」
勧められるまま目の前に置かれた白磁のカップを手に取る。
ふわりと立ち上る甘やかな花と蜜の香り。
一口含むと心地よい渋みと温もりが、張り詰めていた頭の芯を優しく解きほぐしていった。
「美味しいです……。張り詰めていた気がすっと軽くなりました」
「そうか。そなたは放っておくと、息をすることすら忘れて文字を追い続けるからな」
レオンハルトは目を細め、静かに息を吐く。
その視線には、かつて戦場や宮廷闘争で見せていた冷徹な覇王の光はない。目の前の婚約者を慈しむ、深い熱が宿っていた。
レオンハルトは手元に置いてあった、紫紺の上質な革箱へ手を伸ばす。手のひらに乗るほどの手頃な大きさだが、縁には繊細な金泥の細工が施され、一目で帝室御用達の最高級品であることが窺える。
「フィリア。そなたに渡したいものがある」
「え……? 私にですか?」
「うむ」
レオンハルトは革箱をフィリアの前へと静かに押し出し、蓋を開けた。
上品な音が響き、中から現れた光景にフィリアは思わず息を呑む。
黒いビロードの上に横たわっていたのは、見事な細工が施された首飾りだった。
鎖の部分は、極細のプラチナを幾重にも編み込んだ清冽なしなやかさを持っている。そして中央に揺れる主石は、透き通るような夕暮れの空を思わせる、深みのある最高級のヘーゼル・トパーズであった。
その周囲を、星屑のように散りばめられた小粒のダイヤモンドと、極小の白銀の花弁が取り囲んでいる。
派手な自己主張はない。
しかし、金属の鍛造技術、宝石の選定、爪留めの精緻さに至るまで、帝都最高の職人が丹念に仕上げたことが一目で分かる名品であった。
「先帝から私個人が相続した、私有財産の宝飾品の中にあった石だ」
レオンハルトは何気ない調子で、しかしどこか少しだけ照れを隠すように視線を逸らしながら言う。
「工芸院の老名匠に私費で仕立て直しを命じ、そなたの首筋に合うよう整えさせた。……婚礼前の公式な夜会でも使えるが、普段の落ち着いた装いにも馴染むよう意匠を控えめにさせてある。そなたの瞳と同じ色だと思ってな。そなたにつけてほしいと思って選んだ」
フィリアは呆然と箱の中の首飾りを見つめていた。
美しい。
光を受けるたびに琥珀色と黄金色の煌めきが優雅に揺らめく。
ルベル王宮の旧離宮で、錆びかけた母の小鳥のペンダントだけを宝物にしていた少女時代には、夢に見ることすら許されなかった輝きだ。
しかし、フィリアの頭の中で別の思考が猛烈な勢いで回転し始める。
(プラチナの多重編み込み……この透明度と見事なカット! いくら先代様からの私有の石とはいえ、これほどの名品を工芸院の名匠に仕立て直させるなんて、一体どれほどの費用がかかったの……!?)
長年、冷遇の中で質素倹約を骨の髄まで叩き込まれ、さらには将来の皇后としての講義で、近年の国家予算や財政概況を学んでいたフィリアの現実的な感覚が瞬時に警鐘を乱打する。
フィリアは血の気を引かせ、両手を胸の前で激しく振った。
「め、滅相もございません、レオンハルト様! このような恐ろしく高価なもの、私には身に余りすぎます!」
「身に余る? そなたは我が帝国の次期皇后であり、現に帝国の基幹を支える顧問官だ。相応しくないはずがあるまい」
「い、いえ、身分の問題ではなく! この費用です!」
フィリアは身を乗り出し、真剣そのものの瞳で皇帝を見つめた。
「今、帝国は古代中枢機構の代替手段がまだ確立していないという、将来的な大課題に直面しております! 工務局の代替部品の研究開発費も、魔導院の探査予算も、これから莫大に膨らむはずです! それに北方国境地帯の防衛拠点では、冬の厳しい寒気に備えた魔導防壁の補修費用が毎年逼迫していると、先日の皇后教育の講義で伺いました! これほど見事なお品を仕立て直す費用がおありでしたら、どうか北方防衛費や、水路の補修基金にお回しになってくださいませ……!」
小謁見室に完全な静寂が落ちる。
レオンハルトはカップを卓に戻したまま、彫像のように硬直していた。黄金の瞳が瞬きもせずにフィリアを凝視している。
(…………北方防衛費……?)
皇帝の脳裏を予想外すぎる単語が木霊する。
これまで、貴族の令嬢や他国の使節に贈り物をしたことは何度もある。その際、相手は歓喜の涙を流すか、あるいは権勢への感謝を口にするのが常であった。
婚約者に贈った見事な首飾りを前にして、開口一番「防衛費に回せ」と財政改善の提案を突きつけられた男が、建国以来のガルディニア帝国に一人でもいただろうか。
いや、大陸全土を探しても絶対に存在しないはずだ。
「フィリア……」
レオンハルトはこめかみを軽く指先で押さえ、深く、長いため息を吐き出す。
「はい、陛下!」
「そなたの国家財政に対する真摯な配慮と高い危機意識は誠に見事だ。顧問官として満点をくれてやろう」
「あ、ありがとうございます……!」
「褒めてはおらん」
レオンハルトは低く、しかし言い聞かせるような穏やかな声で続けた。
「……よく聞くんだ。国家の公金たる防衛予算やインフラ維持費と、皇帝個人の私的資産は、帝国法に基づいて厳格に分離されている。この首飾りは、国庫から一銅貨たりとも引き出してはおらん。先帝から受け継いだ私の私有財産の中から、完全に私費として工面したものだ。これを返却したところで、北方部隊の防壁予算が自動的に一クローネ増えるわけではない。必要な予算は別途の審議と手続きを経て確保する」
「あ……そうなのですか……?」
フィリアは目を瞬かせ、ぽかんと口を半開きにした。
「そうだ。そして……」
レオンハルトは椅子から立ち上がり、ゆっくりと円卓を回ってフィリアの隣へと歩み寄る。
長身が落とす影が、フィリアをふわりと包み込む。彼は卓上の革箱から静かに首飾りを持ち上げると、フィリアの顔を真っ直ぐに見つめた。
その黄金の瞳には、統治者の仮面を脱ぎ捨てた、一人の男としての嘘偽りのない感情が宿っていた。
「これは国務の報酬ではない。功績に対する恩賞でもない。ただ私が愛する婚約者に、似合うと思って選んだ私的な贈り物だ。他でもない、そなたにつけてほしいのだ」
低く、耳朶を震わせるような、甘く切実な響き。
その言葉の意味が、フィリアの胸の奥へすとんと真っ直ぐに落ちる。
(あ……)
自分は何という頓珍漢なことを言ってしまったのだろう。陛下は国のためにこれを贈ったのではない。
一人の男として自分の喜ぶ顔が見たくて、自分の瞳の色を思い浮かべながら、丹念にこの首飾りを仕立て直してくれたのだ。
「……私のために選んでくださったのですか……?」
「最初からそう言っている」
レオンハルトは少しだけ拗ねたように唇を尖らせ、だがすぐに優しく目を細めた。
「……っ!」
カアッ、と音を立てるように、フィリアの顔全体が耳の付け根まで真っ赤に染め上がる。
心臓が早鐘を打ち、胸の奥が熱い歓喜と恥ずかしさで爆発しそうになった。
「も、申し訳ございません……! 私、そんなことにも気づかずに防衛費などと!」
「よい。そなたらしいと言えば、あまりにそなたらしい」
レオンハルトは微かに笑い、首飾りを優しく掲げた。
「つけてみてもよいか」
「は、はい……! 喜んで!」
フィリアが背筋を伸ばして俯くと、レオンハルトの大きな。しかし驚くほど繊細な指先が彼女の首筋へと回された。触れ合う皮膚から伝わる、熱い体温。
プラチナの冷涼な感触が鎖骨の上に乗り、カチリと小さな留め具の音が響く。
中央のトパーズがフィリアの胸元で静かに落ち着いた。
「よく似合う」
至近距離から降ってきたレオンハルトの囁きに、フィリアは胸元にそっと手を当てた。
鏡を見ずとも、宝石が放つ重みと温もりが、肌を通して全身へと広がっていくのが分かった。
「大切にいたします……! 生涯の宝物として、肌身離さず大切にいたします!」
顔を真っ赤にしながら、しかし満開の花のような笑顔を向けてくるフィリア。
その純粋な喜びに、レオンハルトの胸の奥にも温かな安堵が広がった。
――しかし。
それと同時に、レオンハルトの内心には拭いきれない別の渇きが静かに頭をもたげた。
(嬉しい、か……)
彼女が贈り物を心から喜んでくれたことは、確かに嬉しい。
だが、自分が本当に欲しかったものは、宝石を受け取って感謝されることだっただろうか。
(違うな……)
レオンハルトは自らの胸の内に問いかけた。
以前の自分なら、これで十分満足していただろう。
適切な地位を与え、見事な装飾品を贈り、相手が笑顔を見せれば婚約者としての務めは完璧に果たされたと考えていたはずだ。
けれど、フィリアを前にした今、求めてしまうのはそんな形式的な満足ではなかった。
贈り物を喜ばせたい以上に、ただ彼女と二人きりで、他愛ない言葉を交わす時間が欲しかった。
執務室でもなく、調査の報告でもない。
ただ一人の男として彼女の瞳に映り、彼女の方から「貴方に会いたい」と求められたかったのだ。
(欲張りになったものだな、私も)
レオンハルトは内心で苦笑し、静かに己の感情を飲み込む。まだ、彼女にそれを求めるのは酷だろう。
彼女は今、帝国の未来を背負って文字と戦っているのだから。
「さて。では公務の報告を聞こうか、フィリア顧問官」
「はい、陛下!」
居住まいを正したフィリアは、首元のトパーズを一度そっと愛おしそうに撫でると、真剣な表情で書類挟みを開いた。
◇
夕刻。
小謁見室での報告を終え、帝室図書院の比較室へと戻ってきたフィリアの足取りは、どこか夢見心地のように軽やかであった。
首元に揺れるトパーズの微かな重みを感じるたびに、頬が自然と緩んでしまう。
「フィリア様、おかえりなさいませ……おや?」
出迎えたベルンハルトがフィリアの首元に目を留め、眼鏡の奥でパチパチと瞬きをする。
「素晴らしい首飾りですね。気品があり、フィリア様の瞳の色に驚くほど調和しています。陛下からの贈り物でございますか」
「あ……ええ、そうなの。陛下が私にと選んでくださって……」
フィリアが照れくさそうに頬を染めると、生真面目な助手は心底嬉しそうに目を細めた。
「まことに喜ばしいことです。陛下がフィリア様をどれほど大切に思われているか、執務室の誰の目にも明らかですからね」
「もう、ベルンハルトさんったら……! さあ、仕事に戻りましょう。公務の報告は済ませたけれど、移送記録の調査はこれからが本番ですから!」
フィリアは慌てて執務机の前に座り、気持ちを引き締めるように両頬を軽く叩く。
首飾りの鎖を傷つけないよう注意しながら、再び特注ルーペを手に取る。
「ところでフィリア様。先刻、地方史料の整理班から至急で確認してほしいという資料が一点持ち込まれました」
「新しい資料ですか?」
「はい。帝都の西方、旧皇領との境界に位置する『旧アグラヴィス研究施設跡』――数百年前に廃棄された古代の石造建築群から、前世紀に採取されていた石碑の拓本です」
ベルンハルトが慎重に作業台の上に広げたのは、黒ずんだ大きな紙の拓本だった。
風化によって所々がかすれているが、刻まれているのは第三期の特徴を帯びた古代帝国文字。
「アグラヴィス施設跡……建国以前の学術拠点だったとされる場所ですね」
「ええ。この拓本自体は数十年前から図書院の倉庫に眠っていたのですが、難解な古語として保管されていました。当時の目録担当者が書き残した『従来の暫定訳』が添えられています」
フィリアはルーペを構え、拓本の中央に並ぶ文字へと視線を落とした。
目録の余白には、かつての記録官が試みた訳文が記されている。
『……争乱の極まりし日、至高の王の命が下りぬ。一切の智慧、技術の全記録は、この地において悉く処分され灰燼へと帰せしめられたり――』
一見すれば、第三期に技術資料が失われたのは、王による過酷な処分命令によるものだという通説に合致しているように読める。
しかし、古代語の動詞の態や格助詞の厳密な読みは検証されておらず、拓本のみで成立年代を断定することもできない。
フィリアの目は、その文字の並びに潜む文法的な曖昧さに確かな違和感を捉えていた。
「……ベルンハルトさん」
「はい?」
「この第四行の動詞。そして、その直前にある場所を示す格助詞の綴り、これ……本当に『処分した』という意味なのでしょうか?」
静かな比較室にフィリアの小さな呟きが落ちた。
初夏の夕闇が窓の外を藍色に染め上げる中、失われた歴史の扉を開く新たな鍵が拓本の墨痕の奥で、かすかに息づき始めていた。




