025話:恋ヶ淵さんの変化
全身に筋肉痛を覚えながら教室へ入ると、今日もいつもの光景が広がっていた。
窓際、一番後ろの席。恋ヶ淵さんの周りには何人ものクラスメイトが集まり、朝から楽しそうに話している。
最初の頃こそ、毎朝のように人に囲まれている恋ヶ淵さんを見て、人気者は大変だな……なんて思っていたものだが、最近ではすっかり見慣れてしまった。
今日も人気者だな。そんなことを思いながら、自分の席へ向かう。
「おはよ」
鞄を机の横へ掛けながら、右隣の照沢へ声をかける。
「はよー」
照沢はいつものように眠そうな顔で短く返した。そのまま大きな欠伸を一つ。これもこれで、見慣れた光景の一つだ。
俺は照沢にそれ以上話しかけることなく椅子へ腰を下ろし、鞄から教科書や筆箱を取り出して机の中へ放り込んでいく。
「……いてて」
少し腕を伸ばしただけで、肩から背中にかけて鈍い痛みが走った。昨日、調子に乗ってボウリングを七ゲームもやるんじゃなかった。
椅子へ深く腰かけながら、何気なく左隣へ視線を向ける。恋ヶ淵さんの姿は、彼女を取り囲むクラスメイトたちの間から辛うじて見える程度だった。
チャイムが鳴れば、そのうちみんな席に戻るだろう。いつものように、そのタイミングで挨拶すればいい。
最近では、朝に恋ヶ淵さんと挨拶を交わすのが通例となっている。少し前までなら、わざわざそんなタイミングを窺ったりしなかったのに。
そんな自分の変化についてぼんやり考えていると。
「ちょっとごめんね」
恋ヶ淵さんが周囲にいたクラスメイトたちへ声をかけながら席を立ち、その間を抜けてくる。
一体どこへ行くんだろう。そう思って何気なく眺めていたのだが――なぜか、そのまま俺の席の前までやってきた。
「……え?」
思わず間の抜けた声が出る。目の前に立つ恋ヶ淵さんを見上げる俺。そんな俺を、恋ヶ淵さんが透き通った目でじっと見下ろしていた。
数秒ほど見つめ合ったあと、彼女の唇が柔らかく弧を描く。
「おはよう、愛葉くん」
「あ……ああ。おはよう、恋ヶ淵さん」
反射的に挨拶を返す……いや、なんでわざわざこっちまで来た?
いつもなら、人だかりがなくなってから俺が声をかけるか、席に座った恋ヶ淵さんの方から挨拶してくる。最近は自然と、そんな流れになっていた。
周囲から、わずかにざわめく声が聞こえる。そりゃそうだ。さっきまで自分たちと話していた恋ヶ淵さんが、突然その輪を抜けて俺のところまでやってきたのだから。
しかし、当の本人はそんな視線などまるで気にしていない。
「昨日、楽しかったね」
「ああ、うん。楽しかったな」
「筋肉痛、大丈夫? 私、三ゲームしかやってないのに肩痛いよ」
「俺は全身が痛いぞ」
「あー、やっぱり。七ゲームもやると全身にまで来ちゃうんだね」
恋ヶ淵さんが楽しそうに笑う。昨日のことを思い出しているのか、その表情はいつにも増して柔らかかった。
「またみんなで行きたいね」
「ああ、そうだな」
「今度はどこがいいかな?」
「もう次の話?」
「だって、楽しかったから」
そう言って、恋ヶ淵さんが少しだけ身体を前へ傾ける。
「また四人で遊びに行きたい」
「……そっか」
近い。前からこんなに距離、近かったっけ。
適当に返事をしながら会話を続けるものの、どうにも落ち着かない。
恋ヶ淵さんと話すこと自体は、もう珍しいことじゃない。それなのに今日は、妙に積極的じゃないか?
そう思ったところで、朝のホームルームが始まることを知らせるチャイムが鳴った。
「あ、鳴っちゃった」
少し名残惜しそうに教室前方の時計を見る恋ヶ淵さん。
「またあとで話そ?」
「ああ」
俺が頷くと、恋ヶ淵さんは満足そうに笑い、そのまますぐ左隣の席へ腰を下ろした。
周囲に集まっていたクラスメイトたちも、それぞれ自分の席へ戻っていく。
少しして担任が教室へ入ってきて、朝のホームルームが始まった。
今日の予定やら提出物やらについて話す担任の声を聞き流していると、右隣から小さな声が聞こえてくる。
「ねえ、愛葉」
「ん?」
照沢だ。担任に気付かれない程度に、顔だけを少しそちらへ向ける。
「愛葉と恋ヶ淵さんって、仲良いの?」
「あー、まあ……普通だと思う」
「普通ねえ……」
何やら含みのある言い方だった。
「なんだよ」
「いやー、別に?」
そう言いながら、照沢がちょっとだけにやけた顔を向けてくる。
「もしかして、付き合ってる?」
「は?」
一瞬、声が大きくなりそうになり、慌てて抑えた。
「いやいや、まさか。そんなんじゃないよ」
左隣には、その話題の本人がいる。付き合ってるだの付き合ってないだの、そんな会話を聞かれてしまったらあまりにも気まずい。
俺は照沢の方へ顔を寄せ、更に声を潜める。
「普通に友達なだけだよ」
「ふーん。恋ヶ淵さんがわざわざ人の輪を抜けてまで愛葉に挨拶しに来たからさ。付き合い始めたのかと思った」
「昨日みんなで遊びに行ったから、その話をしたかっただけだろ」
「……まあ、付き合ってないならいいや。つまんないの」
「何を期待してるんだよ……」
俺と恋ヶ淵さんが付き合っていないと分かって興味を失ったのか、照沢はそれ以上何かを聞いてくることはなかった。
小さく息を吐き、姿勢を正す。その時だった。左隣から、視線を感じた。
「……?」
何気なくそちらを見ると、恋ヶ淵さんが横目で俺を見ていた。どうやら、さっきからこちらを見ていたらしい。
目が合う。いつもなら、こういう時は小さく笑ってくることが多いけれど、今日は違った。
恋ヶ淵さんは何も言わず、スッと俺から視線を逸らした。そのまま頬杖をつき、こちらに顔を見せまいとするように窓の方を向いてしまう。
……なんだ?
なんとなく、いつもと違う。横顔すらほとんど見えないから、どんな表情をしているのかは分からない。
ただ、妙に素っ気ないというか。さっきまで、あんなに機嫌良さそうに話していたのに。
もしかして――怒ってる?
いやいや、怒る理由なんてないか。俺、何もしてないし。
朝だって普通に話した。昨日の話をして、また遊びに行こうなんて話もした。
それから俺がやったことといえば、照沢と少し話したくらいで――。
ちらりと、もう一度左隣を見る。恋ヶ淵さんは相変わらず窓の方を向いたままだった。
まあ、特に深い意味はないだろう。たまたま外を見たくなっただけかもしれない。
そう自分を納得させて、俺は前を向く。そして今度こそ、話を続ける教師の声に耳を傾けるのだった。




