026話:恋ヶ淵さんは伝えたい①
放課後。帰りのホームルームを終えた俺は、いつものように教科書や筆箱を鞄へ放り込み、席を立った。
「……いてて」
立ち上がっただけで、太腿から腰にかけて鈍い痛みが走る。
朝からずっとこんな調子だ。昨日の七ゲームによる代償は想像以上に大きかった。授業中に座っているだけならまだいいが、立ったり座ったりするたびに全身の筋肉が悲鳴を上げる。
今日はさっさと帰って、風呂にでも入ってゆっくりしよう。
そんなことを考えながら鞄を肩に掛け、教室の出口へ向かおうとした――その時だった。くいっと制服の袖を後ろから引っ張られた。
「うおっ」
不意に身体を後ろへ引かれ、バランスを崩す。咄嗟に踏ん張った瞬間、肩、背中、腰、太腿と、全身の筋肉が一斉に悲鳴をあげた。
「いたた……」
「あっ、ご、ごめんね!」
慌てた声が聞こえて、振り返る。そこには、俺の制服の袖を指先で摘まんだまま、驚いた顔をしている恋ヶ淵さんがいた。
「大丈夫? 痛かった?」
「いや……大丈夫。筋肉痛のところにちょうど響いただけだから」
「それ、大丈夫って言うのかな……」
「多分」
「本当にごめんね。普通に声かければよかった」
恋ヶ淵さんは申し訳なさそうに眉尻を下げながら、そっと俺の袖から手を離した。
「気にしなくていいって。そんなことより、どうかした?」
「あ……うん」
そこで、なぜか恋ヶ淵さんの歯切れが悪くなる。さっきまで申し訳なさそうにしていた表情が、今度は少しだけ緊張したようなものへと変わった。
何かを言おうとして口を開き、少しだけ視線を泳がせたあと、意を決したように俺を見る。
「あのね……愛葉くん。今日、駅まで一緒に帰らない?」
「別にいいけど」
俺が答えると、恋ヶ淵さんの表情がぱっと明るくなった。
「よかった」
朝にも感じたけど、やっぱり今日は妙に距離が近い気がする。わざわざ人だかりを抜けて俺のところまで話しに来たり、今度は一緒に帰ろうと誘ってきたり。
昨日、四人で遊びに行ったのがそんなに楽しかったんだろうか。
恋ヶ淵さん自身、また四人で遊びたいと言っていたし、それをきっかけに俺のことも今までより親しい友達として見るようになったとか?
「それにね、ちょっと聞きたいこともあって」
「聞きたいこと?」
「うん。それは……歩きながら話そ?」
恋ヶ淵さんと並んで、教室の出口へ向かう。その途中、席に座ったままの照沢と目が合った。
彼女は何も言っていない。何も言っていないのだが、その目が雄弁に語っていた。
本当に付き合ってないの?
違うから。そう目で返そうかとも思ったが、どうやったら目だけでそんな複雑な意思表示ができるのか分からない。
結局、俺は照沢からの視線を無視して、そのまま恋ヶ淵さんと教室を出た。
校門を抜け、駅へ続く道を二人で歩く。放課後ということもあって、周囲には同じ制服を着た生徒たちの姿が多い。
その中を恋ヶ淵さんと並んで歩きながら、俺はさっきから気になっていたことを口にした。
「それで、聞きたいことって?」
「えっと、あのね……その……」
何を聞かれるんだと少し身構えていると、恋ヶ淵さんがようやくこちらを向いた。
「愛葉くんって、漫画とか読む?」
「……漫画?」
予想外に普通の質問で、少し拍子抜けした。
「普通に読むよ」
「どんな漫画読むの?」
「バトル系とか」
「あー、戦うやつ。ドラゴンボールとか?」
「そうそう。あとはハンターハンターとか」
「あ、それ有名だよね。未萌が好きって言ってたよ。なんか、すごく好きな話があるらしくて、読んだら凄く泣いたって」
「へえ、逢ヶ埼さんも読むんだ」
今度会った時に話題を振ってみようか。共通して読んでいる作品があれば、案外盛り上がるかもしれない。
「それでね」
恋ヶ淵さんが少しだけ声を弾ませる。
「私、愛葉くんにぜひ読んでほしい漫画があって」
「俺に? どんなの?」
「えっと……実は、持ってきてるんだ」
恋ヶ淵さんが歩きながら鞄を開けた。
中から取り出したのは、小さな紙袋だった。
一冊の本を入れるのにちょうど良さそうな大きさで、淡い色合いに小さな花柄が散りばめられている。随分と可愛らしい袋だ。
恋ヶ淵さんはそれを両手で持つと、俺の方へと差し出した。
「あ、もしかして貸してくれるの?」
「うん。よかったら」
「ありがとう」
差し出された紙袋を受け取る。中を覗いてみると、確かに一冊の漫画が入っていた。
タイトルに見覚えはない。普段俺が読むようなバトル漫画とは明らかに雰囲気の違う表紙……恋愛漫画だよな、多分。
「これ、恋ヶ淵さんが好きな漫画?」
「うん。私が一番好きな漫画でね、何回も読み返してる」
漫画の内容を思い出したのか、恋ヶ淵さんの目が見る見るうちに輝き始める。
漫画でも発動するのか。恋バナ大好きモード。
「なんとなくなんだけど、その漫画に出てくる登場人物が、愛葉くんに似てるんだよね」
「え、俺に? どんな登場人物?」
「それは読んでからのお楽しみ」
少し意地悪そうに、恋ヶ淵さんがクスクスと笑う。
どんな登場人物なんだろう。そう思いながら紙袋を鞄へしまおうとして、ふと手が止まった。どこかで似たような話を聞いたことがあるような。
少し記憶を辿り、そして思い出した。まだ恋ヶ淵さんとまともに話すようになる前のこと。隣の席で寝たふりをしていた俺の耳に聞こえてきた、恋ヶ淵さんと逢ヶ埼さんの会話。
確か、逢ヶ埼さんが恋ヶ淵さんに、気になる人はいないのかと聞いた。
その時、恋ヶ淵さんは確かこう言っていた。好きな漫画があって、その登場人物にどことなく似てるなーって思っている人がいて、その人のことがちょっと気になるかもって。
「愛葉くん?」
「え?」
恋ヶ淵さんの声で我に返る。
「どうかした?」
「いや……なんでもない」
俺は慌てて紙袋を鞄の中へしまった。
落ち着け。別に、この漫画だとは限らない。恋ヶ淵さんは漫画が好きみたいだし、一番好きな作品以外にだって、好きな漫画はいくらでもあるだろう。
あの時に話していた漫画と、今日俺に貸してくれた漫画。それが同じだという保証なんて、どこにもない。
俺に似ている登場人物がいるからって、その時話していた相手が俺だとは限らない。
「愛葉くん、本当に大丈夫?」
「ああ、大丈夫。ちょっと考え事」
平静を装って前を向く。隣では、恋ヶ淵さんがいつもと変わらない様子で歩いている。
ただそれだけだ。ただそれだけなのに――急に、自分の心臓の音が気になり始めてしまう。
さっきまで普通に話していたはずの恋ヶ淵さんを、妙に意識してしまう。
そんな状態で歩いているうちに、いつの間にか駅前まで辿り着いていた。
「あ、着いちゃったね」
「……そうだな」
着いちゃった。その言い方が、少し残念そうに聞こえた。いや、それだって、さすがに気のせいだ。
「じゃあ、また明日ね」
「また明日」
小さく手を振る恋ヶ淵さんに別れを告げ、俺たちはそれぞれのホームへ向かう。
電車を待ちながら、鞄へ視線を落とした。その中には、恋ヶ淵さんが一番好きだという漫画が入っている。
そして、その登場人物の誰かが――俺に似ているらしい。
帰ったら、すぐ読んでみよう。そんなことを考えながら、俺はいつになく落ち着かない気持ちで電車を待ち続けた。




