002話:恋ヶ淵さんの気になる人
「真奈ー、来たよー」
二時間目の授業が終わり、合間の十分休憩。欠伸を噛み殺し、少し目を瞑るかと机に突っ伏した俺の耳に届いたのは、間延びした声で恋ヶ淵さんの名を呼ぶ女子の声だった。
この声の主は、隣のクラスに在籍する逢ヶ埼未萌だろう。
聞いた話によると、彼女は中学の頃から恋ヶ淵さんと仲が良いらしい。高校に入って別のクラスになってからも、こうして時折こちらの教室へ姿を現すことがある。
机に突っ伏したまま、逢ヶ埼さんの姿を頭に思い浮かべる。
緩く巻かれた茶色の髪は肩まで伸びていて、顔立ちはどことなく、小動物っぽい可愛らしさがある。基本的にダルそうにしているので一見するとダウナー系なのだが、バスケ部では一年生ながらレギュラー候補に挙がるほど運動神経がいいらしい。
ちなみに、なぜ俺がこんな女子の情報を知っているのかというと、想川陽大というやつが聞いてもいないのに勝手に喋り散らかすからだ。決して俺が自分で調べたわけではない。そこだけは誤解しないでいただきたい。
「ねえねえー、真奈の好きそうな話を持ってきたから聞いてよー」
「私の好きそうな話? どんなの?」
「それがさー」
すぐ隣で女子トークが始まる気配を感じながらも、俺は机に突っ伏したまま寝たふりを続ける。もしかしたら、恋ヶ淵さんのあの姿がまた見られるかもしれない。そんな密かな期待を、抱きながら。
「D組のさー、松川って知ってる? うちと同じ女バスの一年なんだけどさー」
「うーん、ちょっと分からないかな。その人がどうしたの?」
「三年の先輩に昨日、告ったんだってさー」
「うんうん、うんうんうん! それでそれで?」
ほら、来た。話が進むにつれて、明らかに恋ヶ淵さんの声のトーンが上がっていく。
俺は机に突っ伏したまま、ちらりと隣の席へ視線を向ける。そこには両手を机について、今にも立ち上がりそうな勢いで前のめりになりながら話を聞く恋ヶ淵さんの姿があった。もし彼女に耳と尻尾が生えていたら、今頃もの凄い勢いで動いているんじゃないだろうか。
「今日の朝、二人で仲良く手を繋いで登校してるの見ちゃってさー。あの場に真奈がいたら喜んだだろうなーって思って、話しに来たー」
「――――っ!」
その光景を想像したらしい恋ヶ淵さんは、紅潮した顔を両手で包み込み、ぶるぶると身体を震わせていた。
きっとこの場に誰もいなければ「キャー!」と黄色い声でも上げていたかもしれない。その衝動を必死に抑え込むように、目をキラキラと輝かせ耳まで真っ赤にしながら頬を緩ませている。
そんな恋ヶ淵さんの姿を見て、俺は思わず笑ってしまいそうになるのを必死で堪えた。
この姿こそが、俺が恋ヶ淵真奈という人から目を離せなくなってしまった理由だった。
この姿を目にするのは、もう一度や二度ではない。
こんなに綺麗で、透明感があって、どこか現実離れした雰囲気を纏っている彼女が、ひとたび恋の話になると人が変わったように目を輝かせる。
誰かが誰かを好きになった。誰かが想いを伝えた。そして、その想いが成就した。たったそれだけの話を聞いて、自分のことのように喜んで、頬を染めて、相好を崩す。
高嶺の花なんて思われている恋ヶ淵さんの正体は――他人の恋の話が大好きな、ちょっと面白い女の子だった。
「ところで、話は変わるんだけどさー」
逢ヶ埼さんは空席になっていた恋ヶ淵さんの前の席へ腰かけると、そのまま話を続ける。
「真奈は気になる人とかできたー?」
「気になる人?」
どうやら話題は、俺の知らないどこかの誰かの恋バナから、恋ヶ淵さん本人の話へと移ったらしい。
隣の席で寝たふりをしながらも、その話題はどうしても気になってしまう。他人の恋バナに並々ならぬ興味と関心を寄せる恋ヶ淵さんにも、気になる人なんているのだろうか。
これほどの美貌を持っている人なのだから、引く手数多なのは間違いない。というか、これも想川からの情報なのだが、この高校に入学してからまだ一か月しか経っていないにもかかわらず、すでに何人もの男子生徒が彼女に告白しているらしい。
よくまあ、恋ヶ淵さんに告白なんてできたものだと感心する。その勇気を称えつつ、俺には絶対にできないことだとも思った。
恋なんてしても傷付くだけだというのに、みんな凄いと思う……本当に。
「うーん、気になるっていうか……多分、未萌が期待しているような感じではないけど……いるかな」
「おー? マジー? 初耳ー」
それは俺も初耳だった。どういう意味での気になるなのかは分からないが、どうやら恋ヶ淵さんには気になる人がいるらしい。
一体、どんな人なのだろうか。彼女と釣り合うとしたら、イケメン俳優みたいなルックスで、身長は百八十センチを超えていて、家はもちろんタワマンの最上階に住むくらいの金持ち。将来の夢は医者か弁護士。スポーツ万能で、サッカーかバスケの経験者。ほどよく筋肉のついた細マッチョで、性格は爽やか。どこから見ても完璧なモテ男なのに、それを鼻にかけることもなく、誰にでも分け隔てなく優しく接する。恋ヶ淵さんはそんな彼の優しいところが好きなのだが、その優しさが色んな女の子を勘違いさせてしまうのがちょっとした悩みで……って、俺は一体何を考えているんだ?
存在するかどうかも怪しい空想上の人物を生み出し、勝手に恋ヶ淵さんとの恋愛ストーリーまで妄想している間にも、女子二人のトークは続いていく。
「私が好きな漫画があるんだけど、その登場人物にどことなく似てるなーって思ってる人がいて。その人のことが、ちょっと気になるかも」
「えー、ラブな意味でー?」
「ラブじゃないって。ただ、ふとした仕草とか目つきとか、笑い方とかがなんか似てるなーって思っただけ。私が一方的に思ってるだけで、会話もしたことないよ」
「そうなんー? え、誰か教えてよー」
「えー……やだ。内緒」
「なんでよー。いいじゃん、教えてよー」
「黙秘しますー」
恋ヶ淵さんがそっぽを向いて口を閉ざすと、逢ヶ埼さんは「ちぇー」と不満そうに返す。
結局、恋ヶ淵さんが気になっているという人物が誰なのかは、分からないままらしい。
キーンコーンカーンコーンと、休み時間の終わりを知らせるチャイムが鳴り響いた。
「あっ、やば。もうこんな時間じゃん」
その音に、逢ヶ埼さんが慌てた様子で立ち上がる。
「じゃ、真奈。またあとでねー」
「うん。またね」
「気になる人のこと、今度絶対教えてよー」
「だから教えないってば」
「あははー。じゃーねー」
最後まで間延びした声を残しながら、逢ヶ埼さんが教室から出ていく。その気配が遠ざかってから、俺はようやく机から顔を上げた。
「……ふぅ」
軽く伸びをしてから、次の授業の準備を始めることにした。
恋ヶ淵さんの気になっている人。さっき勝手に想像した完璧超人みたいな奴ではないと思うが、少し気になってしまう……いや、それを俺が気にしたところで何になるんだ。
自分自身に呆れながら机の中へ手を伸ばし、次の授業で使う教科書を取り出す。そのまま何気なく隣へ視線を向けた、その時だった。
――恋ヶ淵さんと、目が合った。
ほんの一瞬だけ、俺の視線と彼女の視線が真正面からぶつかり、思わず固まってしまった。恋ヶ淵さんも、少しだけ驚いたように目を見開いている。
けれど、それも一瞬のことだった。何事もなかったかのようにすっと視線を逸らすと、恋ヶ淵さんは机の中から教科書とノートを取り出し、次の授業の準備を終えた。
「ほらー、授業始めるぞー」
先生の登場に、俺も慌てて教科書とノートを机に並べ、前を向く。
ただの偶然だ。たまたま俺が隣を見たタイミングで、恋ヶ淵さんもこっちを見ていただけ。それだけのこと。
さっきの話を聞いた直後だからって、変に結びつける必要はない。
好きな漫画の登場人物に似ている人で、会話をしたことがない人。そして、ちょっと気になっている人。
いやいや、まさか……な。




