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第3話

『十一月三日』


 私は、父の言った言葉がすぐには理解できなかった。理解したく、なかった。

「え……。あはは、何、それ?」

 乾いた笑いだけが漏れる。

「悪い。俺だって長年暮らし続けたこの街を離れるのは心苦しいんだよ。だが、生計を立てるには会社は辞められない。急な話になるが、十五日には東京の本社へ行くしかない。だから十四日に出発する。今のうちに友達には別れを――」

 その先は、もう頭に入ってこなかった。


 東京。十四日。引っ越し。

 聞きたくない言葉だけが耳に残る。真っ先に浮かんだのは真司だった。やっと付き合えたばかりなのに。今が一番幸せで、このままずっと続けばいいと思っていたのに。

「ここを離れたくない!」

「麻衣子……」

「そんなの嫌! 東京なんて行きたくない!」

 父は苦しそうな顔をしていた。それがチクリと刺すように、余計に胸をざわつかせた。分かっている。でも、分かりたくなかった。

「……東京なんて、お父さん一人で行けばいいじゃない!」

「おい、待て、麻衣子!」

 ──バタン!

 私は気がつけば家を飛び出していた。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 いつの間にか、神社の縁側に座っていた。どうやってここまで来たのか、ほとんど覚えていない。

 肩で息をするたび、冷たい空気が肺に流れ込む。心臓だけが、異様なくらいうるさかった。

 あの告白の日とは違う。嬉しくて速かった鼓動じゃない。胸を何度叩いても、全然静かになってくれない。

 ……なんで。やっと叶ったのに。私はただ、真司と一緒にいたかっただけなのに。

 父には酷いことを言ってしまった。あんなの、八つ当たりだ。父だって苦しかったはずだ。そんなことくらい、ちゃんと分かっている。

 それでも。どうしても家へ帰る気にはなれなかった。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 どれくらい時間が経ったのだろう。気付けば私は膝を抱えて小さくうずくまっていた。

 寝巻きのまま飛び出したせいで、秋の夜は芯まで冷える。神社には誰もいない。風が木々を揺らす音だけが、やけに大きく聞こえた。


 そういえば。ここへ一人で来たことなんて、今まであっただろうか。いつも隣には真司がいた。他愛もない話をして。笑って。気付けば日が暮れていた。

 なのに今日は、私しかいない。その事実が、急に胸へ落ちてきた。

 涙が止まらない。帰りたい。でも帰れない。帰ったら、本当に全部終わってしまう気がした。

 唇を噛む。必死に息を整える。泣くな。泣くな。それでも、そう思えば思うほど、涙はあふれてくる。

 そしてとうとう、押し殺していた名前が零れ落ちた。

「……真司」

 返事なんて、あるはずがない。分かっている。

 それでも。

「真司ぃ……!」




「――お、おう」

「……へ?」

 思わず顔を上げる。

 涙で滲んだ視界の向こうに立っていたのは、いるはずのない真司だった。一瞬だけ思考が止まる。それから、自分が涙も鼻水もぐしゃぐしゃで、寝巻き姿のままだということに気付いて、一気に恥ずかしくなった。

 慌てて袖で顔を拭った。でも、寝巻きだけはどうにもならない。

「これ、貸そうか」

 差し出された上着を受け取る。羽織った瞬間、じんわりと暖かさが広がった。

 少しだけ。本当に少しだけ。泣きそうだった心が落ち着いていく。




 少し落ち着いてきた頃、私はずっと気になっていたことを口にした。

「……あの、どうしてここに?」

「麻衣子のお父さんから、うちに電話があってさ。そっちに行ってないかって。家出したなら、ここしかねぇと思った」

 やっぱり、お父さんは心配している。胸の奥が少し痛んだ。

「……そっか。あのさ、家を飛びだした理由って聞いてる?」

「いや、まだ」

 私は小さく息を吸った。

「実はね。あと十日で、東京に引っ越すことになったの」

「……は?」

 真司の表情が固まる。

 私はぽつり、ぽつりと話し始めた。


 父が急に東京へ転勤することになったこと。

母はもういないから、私は父について行くしかないこと。ここを離れたくなくて、父に酷いことを言って飛び出してきたこと。

 途中で何度か言葉に詰まった。それでも真司は、一度も遮らずに聞いてくれた。驚いた顔のまま、それでも何度も小さく頷きながら。

 だからこそ、ようやく気づいた。私は、「会えなくなる私」のことばかり考えていたんだ。私は真司と離れたくない。ずっと彼女でいたい。

 でも──。

 私を待ち続ける真司は?

 いつ帰ってこられるかも分からない私なんかのために、ずっと縛られ続けるなんて、間違ってる。

 ……そうだ。真司のためにも。別れた方がいい。

 そう思った。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 麻衣子が苦しそうな表情で唇を震わせていて、それから一呼吸置いて、そのまま引き結ぶのが分かった。それを見れば、俺は麻衣子の考えていることがすぐにわかってしまった。

「だからさ。この前よろしくって言ったばっかりなのに、本当にごめん。私と別れ──」

「いやぁ!! この時代に生まれてマジで良かった!」

 麻衣子の肩がビクリと跳ねた。自分で思ったより、数段でかい声が出てしまった。

 でも、構うもんか。

「なんせ電話があるからな! こういうの文明の利器っていうんだよな! 昔だったら離れたら終わりだったかもしれないけどさ、今は毎日話せるんだぜ? 夕飯食った後とかならどうだ? そのくらいなら毎日時間合わせられそうだし」

 止まるな。とにかく喋れ。

 単に別れたくない訳じゃない。俺は何となく、そもそも麻衣子にそんなことを口にして欲しくなかった。辛そうな顔で、思ってもいないことを口にして欲しくなかったんだ。

「高校卒業したら俺が東京遊びに行けばいいしさ。麻衣子が帰ってくることだってあるだろ? なんとかなるって!」

 頼む。黙って聞いててくれ。

「それに東京なんて絶対面白いじゃん。土産話もいっぱい聞きたいし──」

「真司」

 しまった。それから短い沈黙。落ち葉が風に吹かれてカサカサとたてる音だけが聞こえる。

「……いいの?」

 麻衣子が、小さく笑う。でも、その笑顔はどこか寂しかった。

「ほとんど会えなくなるんだよ? だったら私じゃなくて、別の人と付き合った方が幸せなんじゃない?」

 一瞬だけ頭が真っ白になる。そんなこと。あるはずがなかった。

「馬鹿いうな」

 気づけば口が動いていた。考える必要もなかった。

「俺は待つよ」

「高校卒業したら会いに行けばいいし、その頃には俺も働いてるかもしれない。帰ってきたら東京の話、いっぱい聞かせてくれよ。俺、それ楽しみに待ってるからさ。」

「──それとも麻衣子は、それじゃダメか?」

 それを口にして、多分大丈夫だと思っていても、少しだけ不安になった。

「そんなわけない!」

 麻衣子が勢いよく顔を上げる。

「私だって……別れたいわけじゃない!」

 よかった。そうだよな。俺が勝手に突っ走っただけじゃなかった。

「あー……よかったぁ」

 力が抜ける。なんだか情けないくらい安心してしまった。

✩.*˚

 それからしばらく、二人で東京はどんな街なんだろうと想像して話した。

 高いビルばかりなんじゃないかとか、有名人が普通に歩いているんじゃないかとか。

 話はどんどん大きくなっていって、

「五百メートルくらいある塔とかありそう!」

 なんて麻衣子が言い出した時には、腹を抱えて笑ってしまった。東京タワーだって三百メートルだっていうのに。

 やっぱり俺たちには、暗い話なんて似合わない。こうやって馬鹿みたいなことで笑ってる方が、ずっと俺たちらしい。

「ありがとう。たくさん話せて楽しかった」

 麻衣子が笑う。

「私、絶対帰って来るからね」

「その前に、まだ十日以上あるだろ」

 俺は立ち上がって伸びをした。

「お別れ会ってほどじゃないけどさ、なんか思い出作りしようぜ」

「……それなら!」

 麻衣子の表情がぱっと明るくなる。

「うちに、夏に買ったまま使ってない花火あるんだ」

「……もう秋だけど?」

「秋でも!」

「ははっ、それ最高!」


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


『十一月十二日』


 青いバケツには、燃え尽きた手持ち花火が山のように突き刺さっていた。火薬の匂いが、冷え始めた夜風にまだ濃く残っている。

 俺は実は、どちらかといえば打上花火よりも手持ち花火の方が好きだ。一本燃え尽きるたびに、夜が少しずつ短くなっていく気がして、そんなくすぐったい寂しさが意外と嫌いじゃなかった。線香花火は、中でも特にそういう花火だと思う。

 ……まあ。俺たち二人に線香花火を持たせると、そんな物悲しさも一瞬で吹き飛ぶんだけどな。

「また私の勝ち!」

「なんでだよ! まだ俺一回も勝ってねぇじゃん!」

「真司、弱すぎ〜」

「おかしいだろ!俺だけ手ぇ震えてんのか!?」

 悔しくて笑いながら、懐中電灯を点けて花火の袋を探る。

「あれ」

 袋の中を覗き込む。

「あと一本しかないのか」

「ほんとだ。奇数だったんだね。最後の一本、どうする?」

 ジャンケンでもいいかと思ったが、それじゃ味気ない。

「……取っとくか。」

「え?」

「記念にさ。東京行っても、これ見たら今日のこと思い出せるだろ。」

 少し照れくさくなって頭を掻く。

「お守りみたいなもん。」

 麻衣子は少しだけ目を丸くして、それからふっと笑った。

「じゃあ、真司が持ってて。」

「マジか。いいのか?――ありがとう!」

 嬉しかった。これを見ればいつでも今日のことを思い出せるな。部屋でこれを見てニヤつく、気持ち悪い俺の姿が目に浮かんだ。

「そのかわりなんだけどさ」

 麻衣子の声で顔を上げる。彼女は視線を落としたまま、指先で花火の袋を弄んでいた。沈黙の中で、鈴虫の声が耳によく届く。

「……浮気、しないでね」

 拍子抜けした。そんなの、考えたこともない。

「するわけねぇだろ。」

「今はそうかもしれないけど……時間が経ったら、冷めちゃったりしない?」

「しないって。」

 即答だった。そんな未来なんて想像もできない。

「……ちょっと、こっち来て。」

「……? ああ。」

 言われるまま二歩近づく。その瞬間だった。

 ふわり、と甘い匂いが鼻をくすぐる。


 次の瞬間。

 柔らかい感触が、唇に触れた。

 頭が真っ白になった。たぶん一秒もなかったと思う。

「……ふぁ?」

 口から出たのは、そんな間抜けな声だけだった。顔が熱い。たぶん今、俺は耳まで真っ赤なんだろう。心臓はさっきから暴れっぱなしだし、足元までふわふわする。

「私のこと、ずっと好きでいてね。」

「おう、麻衣子。」

 それだけ返すのが精一杯だった。

 ……なんか、喋るときの唇の感覚までおかしい気がした。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 少しだけ、不安だった。真司は、本当にずっと私だけを見ていてくれるのだろうか。

 私たちは長い間、幼馴染で親友だった。恋人になった今でも、その空気はまだ残っている。肩書きだけが変わって、関係はあまり変わっていない。

 このまま東京へ行ってしまったら。また"幼馴染"に戻ってしまうんじゃないか。誰か別の人が真司の隣に立つ日が来るんじゃないか。そんな考えが、どうしても頭をよぎってしまう。

 だから。離れる前に、一つだけ。恋人になった証が欲しかった。

「……ちょっと、こっち来て。」

 真司は何も疑わず近づいてくる。私は一歩だけ前へ出た。

 背伸びをする。鼓動がうるさい。逃げ出したいくらい恥ずかしい。

 それでも。私はそっと唇を重ねた。

 離れると、真司はぽかんとした顔で固まっている。その顔が少しだけ可愛くて、愛おしくて。思わず笑いそうになる。

「私のこと、ずっと好きでいてね。」

 正直に言えば。ちゃんとできた自分を、今は誰より褒めてあげたい。あんなに怖かったのに、ちゃんと勇気を出せたから。

「おう、麻衣子。」

 真司がそう返してくれる。その一言だけで、胸がいっぱいになった。

 ……急に名前を呼ばれて、思わず肩が跳ねたのは。できれば、バレていないといいな。

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