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第2話

『十月七日』


「おい、起きろや。……おい! 起きろ真司!」


 バチンッ!


「っっってぇ!!」


 思わず額を押さえた。


 ただでさえ、何故か頭ん中がズキズキ脈打って痛ぇってのに、追い打ちみたいなデコピンまで飛んできやがった。寝起きは最悪だ。

「……す、すんません。」

「気をつけろって昨日言ったばっかだぞ。俺の授業は子守歌にでも聞こえるか?

 低く響く声に、一瞬で眠気が吹き飛ぶ。

 顔を上げると、担任の数学教師がぶっとい腕を組んで仁王立ちしていた。


 ……怖ぇ。

 蛇に睨まれたカエルって、ちょうどこんな気分なんだろうな。いや少し違うか。このゴツさは蛇っていうよりゴリラだ。

 こんな筋肉の塊みたいな体をしておきながら数学を教えてるんだよな、こいつ。初見じゃまず体育教師にしか見えねぇよ。入学式で初めて見た時なんか、パツパツのスーツが面白すぎて笑いを堪えるのに必死だったくらいだ。

 ところが、こんなナリで授業は分かりやすいし、話しかければ意外とノリもいい。そういうギャップもあって、実は生徒にもかなり好かれている存在だ。

 ……怒らせなければ、だけどな。


「そんなんばっかしてると、隣の教室の彼女に言いつけちまうぞ?」

「やめてくださいよ!あいつはそんなんじゃないっすよ!」

 しまった。強く言い返した瞬間、教室中の男子が待ってましたとばかりに騒ぎ始める。

「おー、必死。」

「図星じゃねぇか!」

「うるっせえ!」

 顔が熱い。一人残らずニヤついてやがるのが、振り返らなくたって分かる。


 そのときだった。

 キーンコーンカーンコーン──。

「よし、終わるぞ! 続きは来週だ。当てるから準備しとけよー」

 チャイムだ、助かった。号令を終えるや否や、机の下で小さくガッツポーズを作る。

 そういやもう四限終わりか。腹減ったな。

 俺は弁当と水筒だけを鞄から引っ張り出すと、いつものように屋上へ向かった。


 屋上に着くと、風が思ったより冷たかった。

「もう十月だもんな」

 半袖の腕をさすりながら弁当を広げる。ついこの前まで汗だくだったのに、季節が変わるのは早いな。

 ガチャリ、と屋上の扉が開く音がした。

 振り向くまでもない。

「おっす」

「ん」

 聞き慣れた声と一緒に、少し冷たい風が吹き抜ける。麻衣子は俺の向かいへ当たり前みたいに腰を下ろすと、弁当箱を広げた。

 空は高い。

 夏みたいに肌を焼く暑さはもうなくて、それでも昼の日差しはまだぽかぽかと暖かい。

 フェンス越しに吹く風が髪を揺らす。

 ようやく秋らしくなってきたってもんだ。

 俺も弁当のふたを開け、一口目を頬張る。


「──いやマジで痛かったわ、あれ」

 額をさすりながらさっきの愚痴をこぼすと、麻衣子は呆れたように笑った。

「てゆーか、また寝てたの?」

「ほんと何してんだか。勉強できなくて泣きついてきても、そんなんじゃ教えてあげないよ?」

「げ、頼むよぉ」

「えー、だって反省してないじゃん」


 こうして昼飯を食うのは、もうずっと前からのことだった。約束なんてしなくても、昼になれば勝手にここへ来て、勝手に隣に座る。それが当たり前だった。

 ……でも最近、その"当たり前"が妙に落ち着かない。

クラスの連中に冷やかされるようになってから、俺は麻衣子をどう思っているのか、本気で考えるようになってしまった。

 幼馴染で、親友なんじゃないか?

 それとももっと別の何か?

 ……そもそも恋愛感情って何なんだ。

 考え始めてからというもの、何でもないことで意識してしまう。

 弁当を運ぶ口元。

 風に揺れる少し長めの黒髪。

 整った横顔。

 運動も勉強もできるけれど真面目くさくはなくて、騒がしく笑って、よくしゃべって、たまに変なことを言う。

 そういうところが、昔はただ居心地よかっただけなのに。今はなんだかそれだけじゃあない気がする。

 笑う顔も。怒る顔も。呆れた顔も。

 どれも見るたびに胸が妙に騒ぐ。

 ……あいつらに言われたから意識してるだけか?

 それとも、本当に──。


「──おーい、聞いてる?」

「……ああ」

「ゼッタイ聞いてなかったでしょ。」

「……ああ、そうだな」

「ほらぁ!やっぱり!」

「痛っ!?なんだよ!つねるなって!痛い痛い!」


 額の次は頬かよ。

 今日はなんだか、痛い目に遭ってばっかりだ。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


『十月二十五日』


 ……よし。あいつに打ち明けよう。

 散々悩んで、ようやくそう決めた。

 ポケットに手を突っ込む。


 ……いや、待て。

 そのまま、手が止まった。何を探そうとした?

 ……スマホ?

 そんな言葉が頭をよぎった気がしたのに、掴もうとした瞬間には霧みたいに消えてしまった。

「……俺、なんかおかしくなってんのかな」

 頭を軽く振って苦笑する。

 気のせいだ。 今日は緊張してるから、なにやら変なことを考えただけだろう。


 俺は一度トイレへ行って、水を飲んで、ついでに母ちゃんへ今日の晩飯を聞いて、それからようやっと電話の前に立った。

「……」

 やっぱやめようかな。

 失敗したらどうする。

 今みたいな関係ですらなくなったら。

 震える手で受話器を見つめる。何度もかけてきた番号だ。いつも通り電話するだけ。

 それだけなのに、指が動かない。

「……って何やってんだ、俺!」

 電話一本だろ。

 逃げんな。逃げんなよ、真司。

 ぎゅっと両手を握りしめる。爪が深く食い込んだ手が小さく震える。

 ……もう、自分に自信がなくなりそうだ。


◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 ロクに遊ぶ場所もお金もない私たちにとって、この神社は最高の暇つぶしスポットだった。この縁側には、本当に何度お世話になったか分からない。

 春は向こうの河川敷いっぱいに咲く桜を眺めながら他愛もない話をして、夏は神社の屋根が作る日陰に逃げ込んで、うるさいくらいの蝉の声を聞いた。秋になると境内は紅葉で赤く染まり、冬は雪をかぶった街を二人でぼんやり見つめた。

 季節が巡るたび、この場所には思い出が増えていった。

 なんだか、この縁側に座って景色を眺めていると、不思議と世界が遠く感じられる気がする。少し高台にあるこの神社から目の前に広がる景色は、街を写した写真みたいに見えるのだ。

 だから私は、この場所が好きだった。ここで真司と駄弁っているだけで、時間はあっという間に過ぎていく。神社まで来て二人で話すのは、もう日課みたいなものだった。


 ……でも、今日はいつもと違う。縁側に座ってから、ほとんど会話がない。

 真司は「話したいことがある」と言って私をここへ呼び出した。電話越しの声は震えていたし、何度か噛んでいた。

 ……気づかなかったことにしてあげたけど。

 

 未だに沈黙だけが流れていく。

 私は、何となく分かっていてここへ来ていた。座っているだけで、自分の鼓動が耳に響く。

「今日はどうしたの?」

 私がその一言を言えば、真司も少しは楽になるのかもしれない。でも、言えなかった。別に、ちゃんと真司に男らしく切り出してほしい、なんて思っていたわけじゃない。ただ、この空気を壊す最初の一言を、自分が口にする勇気がなかっただけだ。

 結局、私も真司も同じだった。怖かったのだ。


 そうして嫌な汗がじわりと滲み始めた頃。ようやく真司が、小さく息を吸った。

「あの、さ」

「うん」

「俺な、最近ずっと、お前のこと……麻衣子のこと考えてたんだよ」

 真司は一度視線を落として、それから意を決したように顔を上げた。

「友達にああだこうだ言われてさ。俺も最初は、ただの幼馴染だって思ってた」

 少しだけ間が空く。

「でも、違った」

 真司の拳がぎゅっと握られる。

「俺、麻衣子が好きなんだ」

その声だけは、不思議なくらい真っ直ぐだった。

「親友とか幼馴染とかじゃなくて、一人の女の子として」

 大きく息を吸う。

「だから……俺と、付き合ってくれないか」

 張りつめていたものが、一気にほどけた。気づけば、笑っていた。

「あはっ……ふふっ」

「え、なんで笑うんだよ! なんか変なこと言ったか? めちゃくちゃ恥ずいんだけど」

「いやぁ……だって、あはは」

 笑いが止まらない。

「いつも適当で、ふざけてばっかりの真司が、そんな真剣な顔して告白してるんだもん」

「なんだよそれぇ……」

 嘘だ。本当は、嬉しかった。

 ずっと好きだった男の子が、私を好きだと言ってくれた。その事実だけで胸がいっぱいになって、どうしようもなく幸せで。だから笑ってしまったんだ。

 でも、そんな本音、恥ずかしくて言えるわけないから。

「……そうだ」

 私は小さく笑って、真司を見つめる。

「返事、まだだったね」

 深呼吸を一つ。

「私こそ、よろしくお願いします」

「……マジか」

 真司は数秒固まったあと、大きく拳を握りしめた。

「よっしゃあ!」

 その勢いのまま座り込んで、大きく息を吐く。

「……はぁ。緊張した。心臓飛び出て死ぬかと思った」

 思わず吹き出してしまう。

「私もだよ」

 胸に手を当てる。

「もう秋なのに、暑くて仕方ないもん」

 二人で顔を見合わせる。そして、どちらからともなく笑った。


 十月二十五日。

 この日だけは、一生忘れない。

 私たちだけの、新しい記念日になった。

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