第1話
レースのカーテン越しに差し込む朝日がまぶたを刺し、俺は顔をしかめながら目を開けた。
布団を握る手に少しだけ力を入れる。冷房はとっくに止まり、部屋には夏の熱気がじっとりと溜まっていた。それでも、不思議なくらい体は軽い。
最近ずっとそうだ。
目覚ましが鳴る前に自然と目が覚めるし、起きた瞬間から頭も冴えている。数日前までの俺なら考えられなかったことだ。
大きく伸びをしてから上体を起こし、充電器を抜いたスマホを手に取る。習慣のようにLAINを開くと、画面には「通知二件」。
そして、その隣には見慣れた名前があった。
『SANA!』
思わず口元が緩む。
チャットを開けば、
「おっはよう、零斗! 今日もよろしくね〜!」
というメッセージのすぐ下に、例のおっさんスタンプが堂々と居座っていた。通知が二件だった理由はこれだ。紗奈は文章を送ってから、間髪入れずに変なスタンプを投げてくる癖がある。
このスタンプは、たしか二年前の夏頃に俺がプレゼントしたものだったはずだ。
「このおっさん、なんかかわいい!」
そう言って目を輝かせていた紗奈を思い出しながら、俺は苦笑する。
相変わらず渋い顔で微笑むダンディーなおっさん。こいつを見るだけで、「ああ、紗奈だな」と思ってしまうのだから不思議だ。
スマホをポケットへしまい、外出の支度を始めた。
今日向かうのは、隣県にある小さな神社だ。県をまたぐとはいえ、この辺りは県境が近い。最寄り駅から五駅ほど乗れば着いてしまう距離だ。
それでも、一年前まで学校以外にほとんど家から出なかった俺が、真夏の炎天下を四日も続けて歩き回っているのだから、両親は不思議に思っているはずだ。
……いや、案外喜んでいるのかもしれない。
「熱中症になるといけないから」
そう言って母は、水筒を持たせてくれた。今日で探索は四日目。これで受け取るのも三本目の水筒になる。
「行ってきます」
玄関の扉を開いた、そのわずかな隙間から。
耳をつんざくような蝉時雨と、真っ白な夏の日差しが一気になだれ込んできた。
思わず目を細める。
開ききった扉の向こうからは、むっとした熱気が流れ込み、息を吸うだけで肺まで夏に満たされるようだった。
外へ一歩踏み出した瞬間、じりじりと肌を焼くような陽射しが容赦なく全身を包んだ。
ついこの間までなら、ここで外に出る気力が削がれていただろう。それなのに、今の俺は違っていて、むしろ足取りは自分でも驚くくらいに軽いままだ。
しゃがみ込んでほどけた靴紐を結び直す。
その指先を見つめながら、俺は今回の探索の始まり──あの日、俺の日常をひっくり返した、あまりにも現実離れした出来事を思い返していた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
あれは、探索を始める四日前のことだった。
その内容が何であれ、何かに熱中するということは、生きる上で大切な彩りになるのだと思う。
俺の世界がモノトーンになってから、もう一年。新しい絵の具を手に入れられる気配は、未だになかった。
「さてと、墓参りに行ってやらないと、な」
その時の俺は、たとえ用事があっても昼間に外へ出ることが億劫だった。
暑い夏の日差しがようやく和らぎ始めた夕方。途中で花を買ってから寺へ向かい、とある墓の前で立ち止まる。
手を合わせる。
……近況報告でもしようかと思った。
けれど、話せるような出来事は何一つ思い浮かばなかった。いや、思い出せないだけなのかもしれない。
情報の少ない、黒の濃淡だけでできた毎日は、気づけば頭の中を滑り落ちて消えていってしまうのだ。
結局、俺は冥福を祈ることしかできなかった。
少しして静かに目を開いたその時のことだ。
──ぺぺーん!
場違いなほど気の抜けた通知音が、墓地の静寂をあっさり壊した。
思わず眉をひそめる。誰だ。
スマホを取り出し、画面を見る。
そこに表示されていた名前を見た瞬間、俺は反射的に墓石へ目を向けた。
「高田紗奈」
墓石に刻まれた、幼馴染の名前だ。
──しかし、スマホにも間違いなく『SANA!』の文字列が映し出されているのだ。
一年前のあの日を最後に止まったままのチャットが、今日になって突然動き出していた。
鳥肌が立つ。恐怖からではない。
それは、死んだ幼馴染のアカウントを使ってふざけた真似をする誰かへの、どうしようもない嫌悪感だった。
どうやって乗っ取ったのか。何が目的なのかも知らない。だが、こんな真似は到底許せなかった。
チャットを開く。
『やっほー、久しぶり!』
ふざけるな。俺はすぐに文字を打ち込む。
『こんな事をして何が楽しいんだ? 本人じゃないことは分かってるんだ』
返信は、ほとんど間を置かなかった。
『もう! ホントに私だよ! じゃあ、私しか知らない零斗の秘密を言えば信じてくれる?』
『もちろん。 なんでも言ってみるといい』
『えっと、じゃあ──』
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
……紆余曲折あった。
本当に、紆余曲折あった。
俺の名誉のために詳しくは語らないが、最終的に俺は、このチャットの相手は死んだ紗奈本人なのだと信じることにした。
それにしてもこの一年で、俺も変わったものだと思う。さっきまでの俺は、「死んだ人間からチャットが届く」なんて可能性を、一度も考えなかった。
一年前の俺なら、きっと真っ先に思いついていたはずなのに。
あの日、オカルトを愛してやまなかった俺は、紗奈と一緒に死んだ。
心霊スポット。 UFO多発地帯。 廃墟。
そんな場所を巡っては、小さな子どもみたいにはしゃいでいた俺たちは、一年前、二人そろって消えてしまったんだ。
紗奈が頼んできたのは、最後に調べるはずだったあの都市伝説を、もう一度追ってほしいということだった。
神社の階段から転落し、そのまま帰らぬ人となったせいで、最後まで調べきれなかった話に、決着をつける。
あの事故は、ただの不注意だった。
不幸な事故で、誰が悪いわけでもない。
……最近では、そう思うことにしている。
あの日が紗奈の最後の心残りなら、付き合ってあげたいと思った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
こんな都市伝説がある。
──二、三十年ほど前のこと。
ある町に、お互いを想い合う高校生の恋人がいた。二人は放課後になると神社へ通い、縁側に腰掛けて他愛もない時間を過ごしていたという。
だが、ある日。少女は親の都合で遠くへ引っ越すことになってしまう。
旅立つ前の日、少女は少年からもらった大切なオルゴールを神社の裏へ埋めた。
古井戸のそば。十字の傷が付いた木の下だ。
「いつか必ず帰ってくる。その時に、このオルゴールを掘り返そう」
それは、少女なりの決意だった。しかし、その決意が果たされる日は来なかった。
少女は引っ越しの途中で事故に遭い、帰らぬ人となるからだ。
そして事情を知らない少年は待ち続けた。やがて彼も病に倒れ、少女の後を追うことになった。
それでも。今もなお、少女を待ち続けているものがあるという。
土の中へ置き去りにされたオルゴールだ。持ち主の帰りを待ちながら、暗い地中で何十年もの時を刻み続けている。
だから神社で耳を澄ませば、今でもその音色が聞こえるらしい──。
最後に紗奈と調べていたのも、この都市伝説だった。あいつは俺と同じで、気になったことを放っておけない性格だった。
最後まで辿り着けなかった答えが、ずっと気になっていたことだろう。だからこそ、「続きを調べてほしい」という頼みは、いかにも紗奈らしかった。
この探索で一番厄介なのは、都市伝説に出てくる神社がどこなのか分からないことだった。
おおよその地域までは分かっている。
候補は四社。
昨日までの三日間で三社を回ったが、古井戸は見つからなかった。残るは、この神社だけだ。
気づけば探索にも熱が入っていた。家に閉じこもっていた頃より、ずっと気分がいい。
やっぱり俺はオカルトが好きなのか。
……それとも、紗奈とまた話せているからなのか。
その答えは、自分でもまだ分からない。
何にせよ、ここにも古井戸がなければ、この都市伝説はほぼ作り話ということになる。
俺は、そして多分紗奈も、この手の話にはデマが少なくないことを嫌というほど知っている。
『見つかるといいね!』
スマホには、ダンディーなおっさんスタンプが今日も呑気に笑っていた。そこに不安の色は微塵も滲ませていない。
でも、もし全部嘘だったら、紗奈はきっとひどく落胆するだろう。
せめて何か一つでも、収穫がありますように。
俺はそう願いながら、石段を登り始めた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
……聞こえる。
石段の途中で、俺は足を止めた。
耳を澄ます。間違いない。
オルゴールだ。
一段飛ばしで石段を駆け上がる。
神社の裏へ回る。獣道。
──ビンゴか。
草をかき分けて進む。
その先にあったのは、古井戸だった。
音が大きくなる。耳からじゃない。
頭の中へ直接流し込まれてくるようだ。
穏やかな旋律なのに、頭が割れそうだった。
霊現象。一年ぶりだ。
井戸のそばに立つ木へ目を向ける。
幹に刻まれた十字の傷。
「あった……!」
スコップを突き立てる。
掘る。土が跳ねる。
頭が痛い。
掘る。息が苦しい。
それでも手は止まらない。
何かが、すぐそこにある。
土の中で、硬いものに当たった。
白い箱が、姿を現す。その瞬間。
視界がぐらりと傾いた。
俺の意識は、そこで途切れた。




